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五十にして天命を知る

50歳になった時、改めて論語の「五十にして天命を知る」について考えてみたことがある。

私にとって「天命を知る」というのは、簡単にいうと「天命(=自然や社会などの外的環境の法則)を知る(理解する)」ということになる。

実は儒教などの中国思想は、春秋戦国時代に群雄割拠した国家群が、生き残り戦略、あるいは統一戦略を遂行するにあたり「どのような政策によって国家運営すれば生き残れるか?あわよくば天下統一できるか」といい発想から生まれた思想。

例えば儒教の場合は、四書五経という儒教の経典のうちの「礼記」にある「修身斉家治国平天下」という文言の通り「身を修め家族が斉うことによって国を治めていくと、外的環境に可及的速やかに対処できる、あるいは一体化できる」というのが儒教の思想の根本だ。

*実際に秦の始皇帝は、儒教の一派である荀子(性悪説で有名ですね)の更にその一派である法家(具体的には商鞅という始皇帝の参謀)の思想を取り入れたこともあって天下統一に成功

今風に言えば、国のガバナンスは、良識を持った規律ある個人に基づく家族円満な安定した社会によって成し遂げられる。そして国のガバナンスを整えられれば、外的環境への理解も進み、円滑に対処できるようになる。そうすれば国が繁栄する。これが儒教の思想(内的環境を整えてはじめて外的環境にも対処できる)。

そしてそれを個人に置き換えれば「外的環境の法則(天命)を理解するのが50歳」ということになる。

井上靖の「孔子」という本では確か、天命とは、自分の運命=分相応を知るというような意味で理解されていたと思う。これは外的環境は、そもそも自分の思いとは一致しないという解釈をして、だから自分の思い(ウチの世界)と外的環境(ソトの世界)とのギャップを「天命を知る」という言葉として受け止めようと理解したのではないかと思う。

もうちょっと進めると、

外的環境の法則を「知る=理解する=意識的思考によるもの」のが50歳、「納得する(=六十にして耳順う)」のが60歳、そして「身に付く(=七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず)=内面化=反射的思考」のが70歳。

つまり、儒教のいう聖人君子=個人の理想形とは「外的環境の法則と一体化する」ということです。

ここで整理すると

*「外的環境の法則」を自分の属する「集合的言語ゲーム(社会の虚構といっても良い)」と解釈すれば、なんとなく欲望論の考え方と似てるんですね。

いずれにしても、キーワードは「変化対応」「郷に入れば郷に従え」。儒教が現代に伝える教えです。

*写真:中華人民共和国 北京市 景山公園

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