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中世ヨーロッパとユダヤ人

『物語ユダヤ人の歴史』より、中世ヨーロッパのキリスト教世界(9世紀→16世紀)における、ユダヤ人(とその社会)について紹介したいと思います。


⒈アシュケナジムの起源

一般に今に生きるユダヤ人は、ドイツ・東欧系の「アシュケナジム」とスペイン系の「セファルディム」に大きく分かれると言われます。

この2系統のうち、アシュケナジムの起源については、地中海世界各地に自主的ディアスポラしていたユダヤ人のうち、当時ビザンチン帝国領のシチリアと南イタリアに移住したユダヤ人が起源

彼らは、フランク族の王たち、中でもシャルルマーニュ(統治期間768814)と彼の息子ルイ1世(敬虔王)より、プロバンスやライン地方に移住することを奨励されます。

というのも、フランク族の王たちは、遅れた農業地域だったこれらの地方に、活発な商業活動をもたらしかったから。生来離散好きな特質を持つユダヤ人にとって「利益」の見込める移住については大歓迎。大挙してライン川沿いのケルン、マインツ、ヴォルム、シュバイヤーなどに固まって移住します。

これらの地方はヘブライ語で「アシュケナジ」と呼ばれていたので、同地域に住むユダヤ人をアシュケナジムと称するようになったということ。

したがって、土地を持たない商人としての移住だったため、封建社会の根源たる農民と封建領主との関係とはまったく異なった共同体を形成。

文字も読めず、迷信深い中世の地元の大半の住民(農耕牧畜民)からみれば、得体の知れない怪しい宗教を信仰する「カネ」にうるさい移民が来た、という感覚だったかもしれませんから、決して歓迎されていたわけではなかったと思います。

土地との関係が人間の立場を決める封建ヨーロッパにおいては、これは異色のことであった。・・・この特異な地位は、ヨーロッパの民衆とユダヤ人の社会的、経済的な立場の違いの根幹をなすものであった。それに宗教的異質性が加わり、一般民衆が安定した生活を送れた良い時代においては嫌悪、悪い時代においては憎しみの対象となった。ユダヤ人の地位の特殊性は、同時に支配層との関係においては、一種の特権であったが民衆と支配層との関係に絶えず翻弄される立場でもあった。

本書114頁

このように農民からは、ユダヤ人は異質な人々としてみられる一方、アシュケナジムは東ヨーロッパやフランス・イギリスに進出するなど、その商才を存分に発揮してその勢力を拡大していきます。

そしてローマ帝国時と同じように彼らならではのユダヤの教えに沿った法律によってユダヤ人社会を統治しつつ、ヨーロッパ中にその活動範囲を広げたのです。

ナポリ卵城(2007年撮影)

⒉迫害のきっかけは「十字軍」

地元住民には嫌われながらも領主たちの保護政策(たまに保護されずに迫害に遭うこともあり)によって大きな問題もなく生活してきたユダヤ人ですが、イスラームの支配下にあったエルサレム奪還の動きが教皇庁中心に盛んになる、つまりキリスト教が原理主義化(=十字軍化)していくと、異教徒全体に対するキリスト教徒からの宗教的に排除しようとする動きが活性化します。

⑴十字軍とユダヤ人

1096年春、第1回十字軍がヨーロッパを横切って東方に向かった時、その最初の犠牲者になったのはアシュケナジム。当地の封建領主や教会関係者は必死にユダヤ人を守ろうとしたものの、十字軍の怒涛の勢いを抗しきれず、ユダヤ人は大量虐殺と大量改宗の犠牲に。同時に強制改宗を拒否すべく自殺に追い込まれる事例も多発。

第二次・第三次十字軍の際も同様の事件があり、イギリスヨーク地方では第三次で集団自殺の悲劇も。

⑵ローマ教皇庁とユダヤ人

ユダヤ人に対する迫害については、ヨーロッパ中世の支配層、つまり封建領主やローマ教皇庁は、ユダヤ人が迫害されないよう一般庶民から必死に守った、というのが真相。

彼らは迷信や噂などに対して冷静だったので、黒死病(ペスト)から災害から、何でも災いが起こればすべてユダヤ人のせいにする一般庶民とは一線を画していたらしい。

ローマ教皇庁のユダヤ人に対する基本的方針は一貫して「その生命と財産は保障するが、貧困と屈辱の下で生活を送るべきである」というスタンスで、教皇が変わるたびにその勅令を発していたものの、時代ごとにその濃淡は大きかった。

ローマ教皇庁(2007年撮影)

①第3回ラテラノ公会議1179年)
ユダヤ人とキリスト教徒を社会的に隔離すべく、ユダヤ人はキリスト教徒の召使や使用人を雇うことを禁じるとともに、キリスト教徒はユダヤ人の近くに住むことを禁じた。またキリスト教徒同士での貸し借りには金利付与を禁止した結果、金貸業は結果としてユダヤ人専任に。

②インノケンティウス三世(在位11981216
ユダヤ人に対する権利の保障を再確認したものの、キリスト教徒がユダヤ人から借りた借金については、十字軍への参加を条件に借金棒引きという方針を発した。また改宗に熱心なドミニコ修道会を認めるなど、ユダヤ人にとっては厳しい姿勢。

③第4回ラテラノ公会議1215年)
ユダヤ人を示すバッジを作り、恥ずべき存在としてすべてのユダヤ人に着用を義務化。またユダヤ人が公職につくことや、イースターその他の神聖な休日は外出禁止に。またユダヤ人が取ることのできる金利の上限を設定。

⑶イギリスにおけるユダヤ人迫害と追放

1275年、エドワード1世がユダヤ人に対する借金棒引きを宣言。以降ユダヤ人が金貸業をおこなうことも禁止して彼らの生業を抹殺。同時にユダヤの指導者を投獄して多額の身代金を要求。身代金を得た後は国外追放し、ユダヤ人が再びイギリスの地を踏めたのは400年以上経ってから。

⑷フランスにおけるユダヤ人迫害と追放

1306年、フィリップ四世が、イギリスのエドワード1世に倣い、ユダヤ人の財産を没収→国外追放。次の王で帰還を身を認められたものの、5,000人のユダヤ人が言いがかりをつけられて生き埋めに。そして1394年にはほぼ完全に追放。

追放されたユダヤ人は、一旦は当時フランス領外だったプロバンスに避難するも1481年にプロバンスがフランスの併合されると、フランス国内のローマ教皇領「ベネッサン」「アビニョン」に移住。

パリ市内(2014年撮影)

⒊ビザンチン帝国のユダヤ人は迫害逃れハザールへ

4世紀ー7世紀にわたるビザンチン帝国下では、ユダヤ人の宗教および商業活動を制限する法律が導入。キリスト教徒との結婚が禁止され、公職に就くことも新しいシナゴーグを建設することも禁止。

その後、パレスチナやエジプトがイスラーム圏に取り込まれてキリスト教世界からの重圧から逃れられた一方、残存したビザンチン領土内(バルカン&小アジア)では、引き続き過酷な状況に。

イスタンブール:アヤ・ソフィア(2023年撮影)

特にバシリウス一世811頃ー881)&ロマヌス=レカペヌス一世870948)の統治下で厳しくなり、ハザール王国へ逃れます。

なぜならハザール王国の王とその支配層は740年頃ユダヤ教に改宗していたので、同じ宗教の信徒として歓迎されたからです。ハザール王国はトルコ系遊牧民族で7世紀に建国。ビザンチン帝国はハザールを征服しようと試みたものの、ハザール国内のキリスト教への迫害を恐れてギブアップ。

しかし、965年には強大化したロシアのキエフ公国の侵略を受け、12世紀以降に滅亡。

一時期、アシュケナジムはハザール人の子孫ではないか、という説が流布し、私も本ブログで言及しましたが、その後の遺伝学の研究によると、アシュケナジム=ハザール人ではなく、ユダヤ人特有の遺伝子パターンがアシュケナジムにも残っているらしいのでその説は怪しいらしい。

現代のアシュケナジムの一部にハザール人の子孫は残存している可能性はあるものの、だからと言ってアシュケナジムすべてがハザール人ではない、というのが現時点の遺伝学の成果。

⒋「セファルディム」一大勢力だったスペインのユダヤ人

先日、オスマン帝国におけるユダヤ人社会が共有した話し言葉は「スペイン語」だったと紹介したように、スペイン・ポルトガルにおけるユダヤ人は、後にオスマンにも進出するなど一大勢力でヘブライ語で「スペイン」を意味する「セファルディム」と自称

バグダッドのディアスポラが下降期に入った時に繁栄を迎えたのが、世紀にイスラームに征服されたスペイン。756年建国の後ウマイヤ朝以降は、同国内におけるユダヤ人の地位も向上してヘブライ語などのユダヤの文化も花開き、高官も輩出するなど繁栄を極めました。

1146年モロッコの急進的イスラームのアルモハーデ(ムアヒッド朝)がスペインに侵入以降、ユダヤの豊かな文化は一旦は衰退の道に向かったものの、その同時期に、キリスト教徒がイベリア半島内を南下してくると、キリスト教支配下の地で再びユダヤ人活躍の場が与えられます。

ユダヤ人はスペインの地理と住民、そしてアラビア語もよく知っており、さらに税金や財政についても詳しいことからキリスト教支配層に重宝されます。アラビア語に翻訳されたギリシア関連の文献等にも通じていることから、ユダヤ人はこれらの書物の、キリスト教世界の共通語であるラテン語への翻訳にもその力を発揮。

スペイン:トレド(2004年撮影)

その後、徐々にローマ教皇庁におけるユダヤへの迫害を強まるに連れてスペインもその影響を受け、さらに14世紀の黒死病流行に至って、ユダヤ人社会は、集団ヒステリーの憎しみの対象となってしまいます。

この時期、大量のユダヤ人が迫害を逃れてキリスト教に改宗。彼らはユダヤならではの優秀さから社会的地位を上げる者も輩出するなどの活躍はあったものの「新キリスト教徒」として、同じキリスト教徒でも別枠扱いになってしまいます。

そして新キリスト教徒の一部は、隠れユダヤ教徒として実際はユダヤ教の慣習を隠れて行っていた人たち。彼らはスペイン語の「豚」を意味する「マラノ」と呼ばれ、さらに別枠での差別対象に。

そしてついにコロンブスのヨーロッパ人による新大陸発見と同じ年の1492年、ユダヤ人はスペイン王(フェルディナンド王&イザベラ)発令のユダヤ人追放令によって、8月1日以降ユダヤ人がスペインの地を踏むことはできなくなってしまったのです。

そしてスペインを追われたセファルディムは、ヨーロッパ各地にまたもや強制的な「ディアスポラ」。

スイス:ベルン市街(2014年撮影)

こうやって中世キリスト教世界を俯瞰すると、人頭税は要求したものの基本的にはユダヤ人の生命と財産を保護したイスラームと比ベて、キリスト教徒は随分と不寛容な原理主義者ですね。

*写真:ベネチア:サンマルコ広場(2007年撮影)


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