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私の身近なキリスト教

私の親戚に、某プロテスタントの一派を信じるキリスト教徒がいます。

毎週熱心に教会に通い、クリスマスや感謝祭などのキリスト教の行事はもちろん、お正月などの日本独自の行事でさえも、日々の生活の歳時記も教会活動の一環として完全に生活の一部に組み入れられています。

彼らは私がキリスト教や哲学を勉強しようがしまいがそんなことは関係ないし、信仰にとってはどうでもいいことだろうし、実際その通りだと思います。私も会話の流れでキリスト教の話はしますが、キリスト教を「信仰する」ということは、キリスト教を「勉強する」ということとは全くの別物。彼らにとっては生活そのもので、信仰心を持つことで心の平安を感じているのは、端からみていてもよくわかります。

人間は「理屈よりも心の平安の方が大事」なのは間違いありません。

だからといってそれを他人に押し付けることもしません(演奏会などの催は誘ってきますが)。他宗教であってもローマ・カトリックのフランチスコ教皇のように「ただ信じる」ことを尊重するのみ。

例えば先日、お墓参りのついでに道の途中にある神社にその親戚と一緒に行った際、お参りするのは我々だけで彼女はその様子を暖かく見守っています。他の交通安全祈願をする人をみれば「交通安全を祈ることは大事だね」みたいなことを言ったりします。

そしてお寺のお墓参りに行くのは仏教的行事ではあるものの、これはこれとして、そしてとても大切なこととして、毎回欠かしません。

決して彼らは意識していないのでしょうが「信仰」と並存して、お墓参りも他の人の「信じる」行為も大切にしており、自然な態度で接している。

ちょっと大袈裟かもしれませんが、現代日本における宗教者は信教の自由と共存をごく自然なこととして内面化しており、中世・古代や一部の原理主義者と違って排他的ではないのです。

どんな信念を持とうとそれは自由だし、お互い違いは違いとして、そのままの自然なスタンスで接すればいい。

「あえて話題にすることもないし、かといってきっかけがあれば話題にすればよい」

そんなことを教えてくれた私の身近なキリスト教徒。これからも末長く付き合っていきたいと思っています。


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