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30代最初の1年が終わる

明日31歳になる。

年齢による人生の区切り

12歳で中学生、15歳で高校生、18歳で大学生、20歳で成人、22歳で新社会人…と、ここまでの人生には「ここらで一区切り」となる地点がいくつもあった。
その地点を越える度に立場・肩書き・環境・ルール・人間関係が変わって、何かの境界線を越えたような感覚があった…ような気がする。思い返してみれば。

では昨年の自分は、30歳という数字を何か特別な感慨で迎えたのか?と問われると、おそらく「否」である。

実際、30歳になって何かがガラッと変わることは無い。
平日は仕事をして、夜は本を読んだり勉強したり。サボって寝たり。
週末は夜遅くまでゲームをしているか、ごくたまーに友達と飲みに行くか。
今は勉強会をやったりなんかもしているが。

体力は間違いなく落ちた。運動の持久力はもちろん、日々のバイタリティという意味では特に。
大学生の頃みたいに、連日徹夜で遊んだりはできない。バイト代を貯めて自分用のノートPCを買ったときは、ネットサーフィンが止められず毎日明け方まで実家の自室でPCと睨めっこしていた。
今となってはたった一回の徹夜すら怪しい。

年齢という「記号」

「20歳が身体能力のピークであり、そこからは下っていくばかりである」とか、
「30になると突然身体のあちこちに『クる』」とか、
「結婚して子供を産むなら30までに」とか、

結局は人間が歳を数えるために作り出したただの数字を、また別の人間が何かの基準にしたいだけなんだと。
それを強迫観念として保持し、振りかざす人を見ると、なんとも不愉快な思いがする。
30という区切りを特別視するのは個人の勝手だが、それを押しつけてくる人間もいた。というかいる。


たしかに身体に老いの兆候は見られるのだが、しかし30歳になった瞬間に急に下降するわけではない。
あのクリスティアーノ・ロナウドですら老いを抑え切れないのだから、少なくとも彼ほどの食生活・運動習慣を維持していないであろう我々は、日々老いると言う事実を、粛々と受け入れるしかない。

受け入れた上で、どう生きるかは結局は自分次第なのだろう。

身体をもっと鍛えれば、30代にして身体能力が人生の絶頂を迎えることもできるだろう。
もっと勉強すれば、若い人に劣らず最前線で仕事をすることもできるだろう。

三十而立

三十而立

論語

一応は収入があり、一応は親元を離れて生活できている。
しかしそうではなく、「アイツならほっといても人生上手くやって行けそうだよな」位の評価はされる人間になりたい。
論語で主張されている正確な意味とはおそらく異なるが、そんな感じに生きていきたい。
いつまでも惑ってはいられない。

年齢はただの数字であり記号であり目安である。
それをそのまま受け入れるも抗ってねじ曲げるも、己の意志次第ということになろう。

できれば後者として、この30代を引き続き生きていきたい。

…という文章を以て、30代最初の1年を締めくくる。



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