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【カレー小説】さんじのあなた

 クーラーを効かせても、汗はかくものなんだな。
 胸元に溜まる湿気を感じながら、俺はそう思った。
 同じように抱き合っている女も汗ばんではいるが、先程から両腕を離さないでいる。
 遮光カーテンの裾下から強い光が白く漏れていることから、今が昼間だと確認できた。
 俺の胸元に顔をうずめた女の髪から、ほのかにシャンプーの香りがする。普段、俺の使っているような安っぽいそれとはまったく違う匂いだ。
 女の名前はクミという。出会ったのは今から少し前。彼女は俺のバイト先のコンビニに来た客だった。
 クミは都内の高層マンションに住んでいた。一人で暮らしているわけではない。クミには夫がいる。いるにはいるが、仕事でなかなか帰らない。
 この寝室でさえ無駄に広い二十八階の一室に専業主婦として残され、暇と寂しさを持て余したクミと、毎日が退屈で仕方なかった俺が、こうして一緒にいるのも、今では偶然と思えなかったし、不自然なことではなかった。
 彼女とは毎日会っているわけではない。彼女が寂しさで押しつぶされそうになり、何かしらの連絡をとって来た時だけだった。その方がお互い都合がいい。俺だってそう暇ではない。今でこそ夏季休講だが、普段は単位を取得するために学校へ行かなければならないし、友人と適度につるんだりもしなければいけない。バイトだってある。
 けれど彼女から連絡が来た時、俺は何よりもそれを優先し、彼女との逢瀬に興じた。
 クミは俺の母親と同じくらいの年齢だった。自分の母親とヤると考えると身の毛もよだつ話だが、彼女は母親よりずっと年下に見えたし、こんなにも優しく柔らかく、いい匂いがした。だからこうして裸のままで抱き合ったり、じゃれあう事だってできる。
 そこに難しい話などなく、昨日も明日もなかった。逢う時はいつだって、隠れた名店でクミの好きなものを食べ、彼女の買い物に付き合い、そしてこの兎に角高さのあるマンションの中層階で抱き合うだけが全てだった。
 ふと、滑らかな肌触りのシーツが擦れる音と共に彼女が身体をくねらせ、その顔を上げた。薄い顔に刻まれた目じりの皺とほうれい線は、彼女の生きてきた人生と俺のそれとの時間差を同じにさせてくれなかった。
 クミは俺の顔を確認するように見ると、再び顔をうずめた。
「どうしたの」と、俺はそうきいた。
 クミは「んん」とだけ答え、俺に絡ませた腕に少しだけ力を入れる。
「眠いの?」
「……暑い」
 暑いなら腕を離せばいいのにと俺は思ったが、そんな事言う程、俺も野暮ではない。布団さえ除けることも億劫になっている中、俺も彼女の背中に手を回した。
 部屋の中に音を発するものは二人以外にいなかった。
 暫く抱き合ってじっとしていたが、先に根負けしたのはクミの方だった。
「やっぱり暑い」
 彼女が俺から右腕を外し、その腕で掛布団を勢いよく捲った。俺とクミの裸体が露わになり、その隙をついて冷気が汗ばむ身体に張り付いた。
 俺が身震いする間に彼女は俺から離れ、脱ぎ飛ばされたバスローブを探り当てるとそのまま素肌に羽織った。白い肌は一瞬でクリーム色に染まった。
 彼女はベッドから降りると、部屋の隅にある入口へと歩いた。
「お風呂行ってくる」
 報告というより呟くように、彼女が言った。
 俺は声を出さず、じっと彼女が出ていく様子を眺めていた。ドアが閉まる音と共に彼女がこの部屋から消えると、辺りは余計に静まり返った。俺自身の呼吸がうるさく感じられる程だ。どこかの高いホテルの様なこの一室は、天井も我が家の数倍高く、シミ一つ見つけることはできない。
 二人が寝転がっても有り余るベッドに、今は更に一人分の余裕ができている。俺はなんだかこのまま一人でいるような気がして、何となくそれを紛らわせる為にベッドの上を転がってみた。何度か端から端まで横に転がってみたが、ふと気恥ずかしくなり、俺は最初いた位置に戻ると掛布団を手繰り寄せ、冷房の風を避ける為に頭から被り、体を丸めた。
 耳を澄ませば窓の向こう、遥か遠くで小さく工事現場の音が一定のリズムを保ちながら響く。それも俺にとっては全く現実感のない、ともすれば別の世界から聞こえてくる警鐘の様に聞こえた。
 俺はそれを聞きながら再び己の意識をまどろみの中へ投じ、自分でも判らないうちに瞼を閉じた。
 次に目を覚ました時、部屋には浴室から戻ってきたクミがベッドの向こうにある鏡台の前に座っていた。
 時間はそう経ってはいなかったようだった。
「やっと起きた」
 彼女は俺を鏡越しに確認し、けれどもこちらを振り返らず、髪を直している。彼女は先程身に着けていたバスローブを羽織ってはいなかった。五十路の女とは思えない艶やかな背中が俺の目の中に映る。所々に、誤魔化せない肉のたるみを発見した。それが妙に魅力的に思える反面、なんだか自分と同じ人間ではなく、何か別の……そう、愛玩動物の様に映った。
 起き上がると俺は自分の脱ぎ捨てた下着を探した。そいつはベッドから落とされており、見つけるのが容易ではなかった。
「今、何時だっけ」
 俺は下着を身に着けながらクミに言った。
「今? 十一時前かなぁ」
 十一時。もう午後だと思っていた俺は、彼女の言葉に驚愕した。
 夕べ……いや、一昨日の夜から俺はこの部屋を訪れ、そこから一歩も外へ出ていない。彼女の用意していたものを腹に入れ、棚や冷蔵庫に仕舞われた酒をあおり、それに飽きたらこの広い寝室でクミと体を重ねた。それを何度も何度も繰り返す事に飽きはしなかったが、時間への感覚は確実に麻痺していたようだ。
「そっか。もうそんな時間か」
 心にもない言葉で返した。
 麻痺しているのは時間の感覚だけではなかった。どうにもこの場から動くことさえも面倒になっており、体はついさっきまで思っていたよりも重く、この身を起こす事さえ自分の力ではどうにもできないのではと疑った。
「ねぇ」
 彼女は此方を見ないで言った。
「お昼だよ。天気もいいし、外にランチ行こう」
 空腹こそなかったが、断る理由もなかった。いや、断る理由を探すことをしなかったというのが正しいのだろうか。兎も角俺は体を起こし「うん」とだけ返事をした。
「まだ寝ぼけてる? お風呂入って寝癖とってすっきりしてきたら?」
 彼女がようやく振り返り俺に言った。
「そうする」
 見覚えのある顔を確認した俺は起き上がると、重たい身体を引きずり、浴室へと向かった。

「どこまで行くんだ? 」
 電車の中でクミに聞いた。
「下北沢」
 彼女は繋いだ左手を揺らしながら答えた。
「うん。下北沢のどこ?」
「ついて来れば分かるから」
「教えろよ」
「着いてからのお楽しみ」
 電車が明大前駅に停車した。その負荷に任せて、クミは俺にしなだれかかった。俺は自分の肩ほどにも届かない背丈のその女を、身体で受け止めた。化粧を施したクミはついさっきまでベッドの上で見かけた人物と、同じに思えなかった。漂う香りも彼女の匂いではなく、化粧と香水の芳香が鼻をくすぐる。
 浅葱色をしたワンピースは胸元があいており、こちらに押し付けられた柔らかい感触と谷間に、俺は先程あの部屋に置いてきた筈の欲情を頭の片隅に見つけ出した。
 電車は程なく動きだしたが彼女の体勢は変わらず、そうしてそのまま数駅先にある下北沢へたどり着いた。

 このむせ返る暑さにも関わらず、人の波は途切れない。目の前を歩く人びとは、クミの住むマンションがある街と随分違う種類だった。俺も本来ならばこの目の前に流れる人種と同じ側の人間である筈なのに、今この瞬間は、予期せずどこか遠い異国の路地に迷い込んでしまったような感覚を覚えた。
クミは俺の手を引き、人の波を器用に避けながら街の奥へ奥へと歩いた。
ランチに手頃な飯屋の前を通り、ドラッグストアとコンビニを抜け、一本の通りに当たった時には、あれだけ屯していた喧騒は、随分と後方へ置かれていた。
 信号を渡り、俺たちは更に歩く。駅から離れるにつれ住宅とシャッターの下りた小さな飲み屋が増えてくる。汗が首筋を伝い背中に流れるのを感じ、本当にどこまで行くのか若干不安になった頃、坂を上りながら彼女が「着いた」と繋いでいるのとは別の腕で指差した。
 坂の途中にある建物は赤かった。それが最初の印象だった。外壁の装飾もそれに合わせてあり、この白い壁の閑静な住宅地にあって、かなり異質だった。坂を上るにつれ、その赤い建物が全貌を現す。壁に施された禍々しい色のペイントはそう、まさしく俺が問われて答えるようなインドのそれだった。看板の文字もあのインドの言語の様な体裁ではあるが、その実アルファベットであることにようやく気がついた。この外観、そして建物から発せられる匂いで今から何を食べるのかなんとなく察しがついたものの、念のため俺はクミに聞いた。
「なぁ。今日、何食べるの?」
「カレー」
 彼女は即答した。そりゃそうだろう。ここまで来て出てくるのが本格信州蕎麦である訳がない。しかし確認せずにはいられなかった。そして予想通りの言葉が返ってくると、俺は彼女に判らない様、少しだけうなだれた。
「そうか。まぁそうだな。カレーだな」
「嫌なの?」
 クミが怪訝な顔をする。
「とんでもない」
 俺はかぶりを振った。
 それを確認すると彼女はニッコリ笑って、俺の手を引いた。
 それにしても昼時だ。かなりの有名店であるらしいその店は、こんな住宅地にあっても、食事の順番を待つ列が店から溢れ、隣接しているガレージまで伸びている。クミは俺から手を離し「待ってて」と告げ店の中へ入り、そしてそう時間もかからず出てきた。どうも入口付近にあるプレートに、名前を記入してきたようだ。再び俺の手を取った彼女は、列を追いかけ、ガレージ端にある長椅子スペースを見つけ、俺に並んで座るよう命じた。
 ガレージは屋根つきの吹き抜けになっているとはいえ、真夏の午後一時過ぎである。地面から暑さが吹き出し、時折入ってくる風も熱気を帯びており、とても涼しいとは感じられなかった。汗は止めどなく噴出と蒸発を繰り返し、座ってからも離さないクミと繋いだ手の中にも、湿気は佇んでいる。カラカラになりかけた口の中に唾液を求めながら、俺はこれから食べるであろうものに少しがっかりしていた。
 クミは辛い物、殊にカレーをはじめとしたアジアンなものを好んで食べた。普段彼女の部屋でふるまわれる料理は至って薄味のものが殆どだが、外食もとなればその真逆を行くチョイスが多い。ある程度は俺も問題なく食べることができる。しかし、彼女の好みは俺の許容の更に上を行くものだった。この前連れて行かれたブータン料理の店など酷かった。彩りこそ食欲の湧きそうなものだったが、十品あればそのうち八品は辛い。いやあれは辛いのではない。痛いというのが正しかった。口にするもの全てが、俺の口内と胃袋を執拗に攻め立てる痛さだった。
 本当言うと、俺は辛いのが苦手だ。
 できれば腹に入れたくなどないし、頻繁に食べたくもない。一人でいる時、俺はそういう類に手を伸ばすことは絶対にありえなかったし、クミと出会わなければ辛い物などほとんど縁がなかっただろう。それ位苦手だ。
 しかしクミが食べたいというなら仕方がない。というか、食事をするとき、金はすべて彼女が出してくれていたので文句を言えない立場である。
 こうして座っている今も予防接種やジェットコースターの順番を待つ気分で、とてもじゃないが俺は落ち着かなかった。
「ちょっと、貧乏ゆすりしないで」
 クミは俺をたしなめた。無意識のうちに脚を震わせていたらしい。
「ごめん」
「お腹すいてるの? 多分この流れ方だとすぐに座れるから、大丈夫よ」
 彼女は俺に微笑む。俺はぎこちなく微笑み返した。
 店の外まで香ってくるこの匂いで確かに俺の胃袋は空腹をつつかれている。しかし、今日はどんな辛さが待ち受けているのか気が気でないのだ。
 クミの言うとおり、列はどんどんと人がいなくなり、俺たちの後ろに並ぶ人々は増え、とうとう店の前まで到達した。
「お待ちの許斐様」
 カラフルな衣装を身にまとった女の店員が、名前を呼んだ。許斐というのは俺の名前ではない。クミの旧姓だそうだ。クミは順番を待つ時等に、今の姓を使わない。何かにつけて許斐という姓を使った。そちらの方が都合がいいと彼女は言うが、俺にはそれが身を隠すより他の何に対して便利なのか判らなかった。
 クミが立ち上がるのを確認し、俺も続いて立ち上がる。
 案内された場所は、入り口付近の二人掛けのテーブルだった。
 店内は香辛料の匂いがこれでもかとたち込めている。赤い色は外観だけでなく、店内まで続いており、赤い壁に映える色のペイントに無数の張り紙が貼られ、レジ付近にはレトルト、香辛料の瓶詰、その他にもどぎつい色をしたTシャツやどこでどのように使うかわからないグッズ。それらが狭い中に詰め込むように並べられていた。
 水とメニューは、すぐに運ばれてきた。
俺は手元に置かれたメニューを開いたが、何処をどう読めばカレーにありつけるのかが判らなかった。それだけ雑多に様々な情報が書かれている。
「なあ。これ、どれをどう読んで頼むの?」
 俺はクミに聞いた。
「え、わからない? これが元のカレーで、こっちの、次のページがトッピングでしょ? それに――」
 彼女はパラパラと捲り指差した後、メニューから視線を外しすぐ横にある壁を指差す。
「これが辛さ」
 どれだ。俺は目で指先を追う。
 壁にある張り紙のうち、それには「辛さはうまいを提唱しています」との文言と共に「覚醒」とか「涅槃」といった仏教を彷彿とさせる単語たちが並ぶ。単語たちの横に辛さの度合いが書いてあるが、こういう書き方をされると、余計にどれも辛そうに見えて仕方がない。できれば一番辛そうでない……あの張り紙の一番下に表記された「覚醒」というので頼みたかった。
「トッピングは好きなの頼んでいいからね」
 クミは自分のメニューを俺の方に向けた。
 カレーのトッピングと言えば、トンカツとかコロッケを俺は想像してしまうあたり、経験値の少ないただの学生なんだなと思ってしまう。そんなひよっ子の俺に、トッピングメニューは優しくなかった。しらたき、まいたけ、豆腐、フランクフルト、フィッシュボール……そしてはんぺん。餅や岩のりというのものある。そのひとつひとつを聞けば、完全におでん屋台や居酒屋の単品で出てきそうなものだ。チーズに至っては「チーズ」とある下に「カマンベール」と別に表記されている。それに「モモ」と書かれたのはモモ肉でもなんでもなく餃子であるとの追記がされている。こうなると何を頼んだら正解なのかがわからない。俺はメニューから顔を上げた。
「なあこれさ……カレーのトッピングだよな」
「そうよ? どれもおいしいわよ」
「おでん屋じゃないよな。カレーの匂いはしてるけど、出てくるのが出汁の利いたおでんというオチはないよな?」
「何言ってんのこの子」
「だってしらたきとかはんぺんだろ? どう考えても」
 そこまででクミは、俺の口元に彼女の人差し指を当てて制止を促した。
「自分が知らないからって、何でも自分の枠に無理矢理収めることはないわ。じゃあ、今日はお姉さんに任せなさい。しっかり選んであげる」
 彼女はそう言うとわざとらしくパラパラとメニューをめくり、小さく「うんうん」と頷くと通りがかった店員を呼び止めた。
「えーっと。どちらもチキン。彼のには『稲荷一丁目』と『モモ』、辛さは『虚空』ね。こっちは『モモ』と『フィッシュボール』追加で『アクエリアス』」
 彼女の発する言葉が、俺にはどうにも呪文のように聞こえる。
 彼女が店員に告げると、今度は店員が復唱した。
「あの、アクエリアスは当店で召し上がられたことはありますか? 兎に角かなり辛くなっておりますが」
「ああそれなら大丈夫。何度かあるから」
店員が心配そうにしているのを余所に、クミは自信たっぷりの笑顔で答える。
「かしこまりました」
 店員はそういうと呪文の様な言葉を店内にかけ、奥へと入っていった。
 俺は壁にある辛さの書かれた張り紙を見直した。彼女が頼んだ俺のカレーは一番上に書いてある。即ちそれは一番辛いのを頼んだと言いう事だった。俺の胃はその単語だけで固く引き締まっていた。それにしても彼女の頼んだ、兎に角辛いアクエリアスとやらの表記はその紙に見当たらない。俺は視線をずらす。
 ……あった。
 張り紙からそう離れていない位置に大きく、サイケな色遣いで「アクエリアス」と大きく書かれた張り紙には「三次元最強辛版 興味本位厳禁也」とコメントが入っている。それを何度も食べているとクミは店員に言ったが、どれほど辛いのだろうか。
そうこうしているうちに、先程の店員に代わって今度は別の店員が一枚の紙を持って来た。
「超激辛アクエリアス注意書」とあるそれには、注意事項が何項目も書かれている。「決して興味本位、軽率な気持ちで挑戦しないこと」「体調を十分に整え、心と体に問いかけて『GO!』のサインを確認して初めて出発すること」等、その文言は穏やかではない。
 目の前の彼女は一体何を頼んだというのだろうか。そして、彼女が頼んだ俺のカレーは、あの一覧で一番上の辛さだったようだが、来る前から既に不安で仕方がない。
 更に暫くすると二人分のカレーが運ばれてきた。
 二つ並んだカレーは、元が同じチキンカレーの筈だ。が、どうにもその色味が違う。彼女の方に置かれたそれは、明らかに俺のより濃い。赤褐色という言葉が非常に似合う。
 そして匂いが辛い。目の前にカレーが置かれているのだから、カレーの匂いがして当り前だが、俺の目の前で湯気を立てているものより対面からしている匂いが辛い。匂いで辛いというのは正しい日本語でもないかもしれない。辛いが痛覚であれば「鼻が痛い」とでも言い換えた方がいい。現に鼻が痛い。
 俺はクミとクミの前に置かれたその異様な物体を、交互に見た。
「それホントに食えるの?」
「失礼ね。これ意外といけるのよ」
 そういうと彼女は自分のカレーにスプーンを伸ばした。俺も自分の目の前に置かれた丼に手を伸ばす。
 目の前の、彼女の丼に気をとられて気が付かなかったが、クミが俺の為に注文したこれも大変なことになっていた。
 彼女の前にあるもの程ではないが、やはり匂いは辛い。唐辛子の辛さというのもあるが、香辛料の混ぜ合わせらしい独特の匂いが鼻を抜ける。そして丼の中身は肝心のカレーが丼に浮かんだ具の為に殆ど隠れている状態である。白い糸状の具の下にある数種類の野菜とハーフカットされたゆで卵。ここまでは何となく理解はできた。しかし手前に添えられた餃子は異質である。恐らくそれがメニューにあった「モモ」という奴だろう。そして丼の両端に鎮座している球形と円形。どう見ても「たこ焼き」「お好み焼き」といった所謂「粉もの」だ。それらの隙間を縫って現れるスープ状のカレー……それは仮にもカレーである。であるのに、お好み焼きとたこ焼きのようなそれは異質を通り越して店側が注文を違えているのではと注文したはずの俺――実際頼んだのは俺ではなくクミだが――を不安にさせるものだった。
これだけ散らかっているとどこから手を付けていいかわからない。
一先ずスプーンでひしめき合う具を除け、カレーを味わう事にした。
口に入れた瞬間、俺は何故これを食べたのか、いや、なぜ彼女が注文した際に止めなかったのかと後悔した。
 辛い。辛さというのは「直撃する辛さ」「後からじわじわ来る辛さ」があるが、これは明らかに前者だった。まだカレーのスープは口に入ったばかりであるのに、俺の身体中で異物が入り込んだと警報が鳴り響いている。
 今すぐにでも吐き出すべきだが、ここは俺の自宅ではない。観念して飲み込むも、辛さが動線を残し、喉に辛い何かが貼りつく感覚がある。それは食道を通り胃へ落ちていくのが、はっきりわかった。
 すかさず手近にあった水を一気に飲む。その清涼感はほんの一瞬で、辛さは依然口の中に居座ったままだった。
 流石、辛さの一覧で一番上に書かれているものだ。知らずに一気飲みでもしようものなら、俺の魂は洒落でもなく虚空の何処かへ抜け、戻れなくなってしまっていただろう。
 既に俺のこめかみには汗がにじみ、それがまとまり大きな粒へと変化するのがわかった。この辛さだ。いくら辛い物が好きなクミとはいえ、苦戦しているに違いない。
 そう思って俺は彼女の顔を見た。目の前の彼女は悶絶どころかおいしいと上機嫌な表情を見せ、どんどん食べている。そこに流れる汗など微塵もなかった。店員の忠告や、あんな物々しい注意書きを出される辛さだというのに、普通に食べられるものなのか。
「辛くないの?」
 俺はクミに聞いた。
「え、辛いわよ? 一番辛くしてるんだもの。そっちは辛くないの?」
「辛くないわけないだろ。これ、食べられる気がしないし」
「ここのはそこまで辛くない筈なんだけど」
 彼女はそこまで辛くないのだという。だとしたら、俺の今口に入れたあの辛いものは一体なんだったのだろうか。まさか違う店から持って来た、嫌がらせの様なメニューでもあるまい。
 彼女は店員を呼び止め、ラッシーを追加で注文した。
「水を飲んでも辛さが取れないから」らしい。
 だったら最初から頼んでくれと言いたかったが、俺は口に残った辛さと一緒にその言葉を飲み込んだ。
 ここで停滞しても仕方がない。腹をくくった俺は二口目をすくって口へ入れる。やはり辛い。汗が止まらない。三口目、四口目と少量を一緒に出された黄色の飯にかけて食べる。若干辛さが薄まった気もするが、それでも辛いものは辛かった。そこで俺はカレーを一旦諦め、先程除けた具の制圧に取り掛かった。まず目についた「モモ」こと餃子を口に放り込む。それは見た目通りの餃子だった。その周囲はカレーに包まれているが、カレー単体より辛くはない。そこで俺は漸く、具と一緒ならばそれほど辛くはない、紛らわせることができるという事に気づいた。
 餃子を一つ食べ終わった後、今度は丼に浮かぶ野菜に手を伸ばす。南瓜、人参、キャベツ、ピーマン……カレーという言葉で連想できるものから意外なものまでが混ざりあい、野菜だけでも飽和状態を起こしている。密度が高いそれは、昔教科書で見た「インドの人口過密化」という項目の写真を思い出させた。あの写真同様、すべての野菜がぎゅうぎゅうに肩寄せ合いながらこちらを見ている。俺はたまらなくなり、たて続けに野菜を放り込んだ。その間もカレーは執拗に俺の体内を刺激し、体温を上昇させる。
 行ったことはないが、多分今味わっているそれはまさしく、インドだった。
 汗はいよいよ背中にも流れ、口の中の感覚は辛さと熱さが幅を利かせ、思考は普段よりも鈍くなっている。
 今一度言う。俺は辛いのが苦手だ。
 できれば腹に入れたくもないし、頻繁に食べようとも思わない。
 しかしどうだ。辛い辛いと思いながら、俺はその辛いものを食べてしまっている。これは不思議な感覚だった。夢の中にいるのではないかと疑った。
俺はふとクミを見た。彼女は相変わらず平気な顔をして、その見た目からして辛そうなカレーを食べていた。クミの表情は穏やかであり、カレーを口元へ運ぶ彼女の姿は、今朝方ベッドの上で見たような妖艶さをも憶えさせた。妙なもので俺はそんな彼女の顔を見て、実はそれが一番辛くないのではないかと考えてしまっていた。
「それ、どの位辛いの?」
「一番辛いけど、食べてみる?」
 クミは自分の丼からひと口カレーをすくい、スプーンの先をこちらへ差し出した。俺は首を伸ばしてそれを迎え入れ、液体を口の中へと流し込んだ。
それほど辛くはない。

 あ、嘘だ。辛い。

 辛くないと思ったのは、今しがた口にしていた自分のカレーの味で麻痺していたからで、俺の舌は辛さのランキングを瞬時に更新した。唐辛子の辛さが口の中を蹂躙し、更にその奥にあった辛味が俺の身体を占領し、発汗する速度を速めるよう指示を出した。俺はのけぞり悶絶すると、先程運ばれてきたラッシーを口いっぱいに入れた。
 クミは、彼女は何故あんな平気な顔ができるのだろう。
「そこまで辛かった? おおげさじゃない?」
 彼女はそう言って笑った。
 大げさなものか。
 そう言いたくても言葉が出なかった。
 俺は未だに辛さを発し続けるそれを早く忘れたいと思い、自分の丼に意識を戻した。その意識すら辛さと汗と熱で薄れていたが、何とか正気を保った。
 両端にあった粉もの二種類。これで一つの「稲荷一丁目」というトッピングだ。成程、たこ焼きにお好み焼き。大阪の稲荷一丁目にかけた一品だ。カレーに合っているかと言えば……よくわからない。粉ものにはソースがかかっているイメージで、今それらに付着しているカレーは、特別辛いソースの様に思えなくもなかった。ただ、次に来た時――そもそも俺がすすんでこの店に来るかそれすら怪しいが――は好んで食べる程ではないかなと思った。
そしてカレーも具も少なくなってきた後半に、奴はいた。
 野菜を食べ抜けた先にあったもの。それは巨大な鶏肉だった。明らかに骨付きのそれは、密林の中にある遺跡の中にある秘宝と呼んでも差し支えのない存在感だ。スプーンを突きたてると、肉はその繊維に沿って綺麗に割ける。それは細かく分かれ、あまり何度もスプーンを刺せば、そのものが消えてなくなるようにも思えた。その一切れを迷いなく食べる。カレーの辛さなどものともしない鶏肉のうまみと甘味が辛さの暴れまわり、荒廃した口に広がる。まるでここまで脇目も振らず走り続け疲労を覚えた身体を労うが如き優しさだ。二口三口と俺はあさましく鶏肉をつつく。
 鶏肉はすぐに骨だけとなり、俺の安息はあっという間に終わりを告げた。その終わりは、鶏肉という秘宝の旨味に癒され警戒を怠った俺の慢心をつき、再び辛みの地獄へ落ちていく始まりと同義だった。
 やはり辛いものはいくら時間が経過しようとも辛いもので、飯、野菜といった助け舟も心許なくなっていた。俺は何かに必死にしがみつきたくなる衝動を抑え、ただただ、完食に向けてひたすら進んだ。
 これだから取っておいてよかった。辛さで薄くなる意識の中にあって、ハーフカットのゆで卵は本当につらいこの最後に取っておくべきだと判断した自分自身を褒めたかった。最後の攻略に向かうべく、俺はゆで卵を口に放り込む。融ける優しさはほんの刹那であると判ってはいるが、大事な最後の休息である。これを踏み台にした俺は、その卵の存在が完全に消えてしまわないうちにカレーに取りかかった。
 思えば長い道のりだった。
 既に頭の回転は鈍り、酒を飲んだ様に酩酊を始めている。汗は依然として身体から蒸発せず、臓器も疲労の色を見せている。まるでマラソン大会でのラスト数百メートルをクタクタになりながら走っている気分だ。もうその先には倒れこむ未来しか見えていないが、ここでやめる事など俺自身が許さない。
 インドにマラソン大会にとよく思い出す日だと思ったところで、俺はそれらが実は走馬灯なのではないかと疑い身震いした。死因はカレーが辛すぎて等とあってはただただ笑いものにされるだけだ。それだけはなるものか。
 もうそれは全力疾走だった。残りを一気に飲み込み。大暴れする辛さを氷で薄まりつつあったラッシーで諌め、ようやく俺は解放された。
 クミも殆ど食べきっており、丼の中に具は残されていなかった。
 あの匂いだけでも悶絶するものを平らげたことに驚いたが、普段小食の彼女があの大量にあった野菜と付け合せ達を残さず食べ終えているのにも、ただただ驚愕した。
 鼻に抜けるこの辛い匂いは、自分の中から湧き出ているものなのか、はたまた今まさに食べ終わろうとしている彼女の丼に残った最後の一口分の赤褐色の液体からくるものか、判らなくなっていた。
 彼女は店員を呼び止め「スープください」と注文をした。
 するとすぐに店員が小さなポットを手にしてやって来て、彼女の丼に中身を注ぎ込んだ。それは殆ど透明に近い液体で、小さく湯気を立てている。俺は自分の丼にもそれが来るものだと待ち構えていたが、店員はクミの丼にそれを入れ終わると俺には目もくれず立ち去った。
「それ何?」
 俺はクミに聞いた。
「ああ、これはアクエリアスを頼んで、最後に入れて貰えるスープ。飲む?」
 俺はかぶりを振る。先程それで辛い思いをしているのだ。もうあれはこりごりだ。
「大丈夫。辛くないから」
 彼女はスプーンでそれをすくうと俺に差し出した
 俺はためらいながらも口に含んだ。
 確かにそれは辛さではなく、淡白な口当たりで、それにも関わらず、旨味がはっきりとしている。皆大好き「やさしい味」という奴だ。
 あの辛さは丼の中に少量注がれたそれを味わうために食べていたのではないかと俺は思った。そして辛さを残した口元をふと思い出し、その労いの一杯をこちらにも寄越せばいいのにと邪な考えも同時に抱いていた。


 そこからどうなったのか、実ははっきり憶えていない。
気が付いたらクミのマンションに戻って、ベッドに寝転がっていた。
辛さと外気の暑さで、本当に体が参っていたのだろう。眠っていたようだ。
空調の程よい冷気が俺の身体を撫でる。遮光カーテンを閉め切り、ベッドの傍らにあるスタンドライトの仄かな灯りだけが頼りのこの部屋は、今が昼なのか夜であるのか見当がつかなかった。天井へ近づくほど、闇はその体躯を大きく広げ、こちらをただじっと眺めている様に思え、俺は横へと目を逸らした。
 その先には女が横たわっていた。その女を俺は知っていた。彼女は絹の衣類を身に纏っただけで、絹衣の様に白い身体は陶器の様で、俺が触れてしまうと壊れそうで、何気なしに手を伸ばすことを躊躇わせた。その傍らに横たわる彼女は俺が起きた事に気が付き、そのしなやかな体を捻ると、両手で俺の顔を撫でた。
「よく寝るのね、本当」
「辛いのと暑いのはやっぱり苦手だ」
 彼女の口元が笑った。
「でも、おいしかったでしょう。辛いの苦手なあなたが、全部食べきる位」
 実際すべて食べはした。あれが美味かったかどうか。それが自分で判断しようもなく、俺はただひたすら食べていただけだと言いたかった。
「ああ、そうだね」
 俺はそのまま返すのも味気なく思い、かといって何かいい言葉も見つからないまま生返事を返した。
 彼女はそれに何も言わず、かわりに俺の上へ覆いかぶさると、厚く艶やかな唇で俺の口をふさいだ。絡み合う艶めかしい感触と共に訪れた彼女の口内に微かに残るカレーの香りは、あの赤い建物で味わった経験が夢などではなかったと確信させ、未だまどろむ俺の意識を更に深淵へと誘った。
 俺はおぼつかない、まるでその後の順序など判らなかった頃の様な手つきで彼女を抱き、ウェーブのかかった髪を撫で、時に彼女のなすがままに身を任せた。
 それは外の暑さも、あのカレーの辛さも、ここが何処で俺たちが何者でどういう間柄であるかも忘れさせた。時折体をなでる冷房の風と、肌に触れる俺以外の体温で、俺は自身の存在を辛うじて記憶の彼方へ消さずにいられた。
 全てが混じり合って同じになり、全てが通り過ぎていく感覚の中。そこは快楽の中心であり頂だった。俺は夢中で彼女を求め、彼女もまた飢えた獣の如く俺を貪った。

 そう、彼女を驚かせようと連絡をせず、出張から帰ってきた彼女の夫が、そっと玄関のドアを開けようとしている事にも気づかぬ位に。         


〈終〉

《初出:2015年 8月》

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