理想を描くことを忘れてしまったら、社会問題にならないのかもしれない。

何かの社会問題の話をする際、周りが「●●は社会問題だ!」と騒ぎ立てるが、当人らは問題と思ってないケースがある。

さらにいうと、

①本当に問題ではないケース
②客観的にみたら問題であるケース

に分かれそう。

例えば、「ひとり親の望まない孤独が問題だ」と言った際に、「私は孤独じゃない」と感じる方もいらっしゃる。

孤独ってワードの影響が大きいとも思うけど、②のケースだと、日常のちょっとした時に「あー今、しんどいな。」と思ってしんどい気持ちを気軽に吐き出せる人がいる、「子どもの進路どうしよう。お金に余裕ないから心配」と思って奨学金や生活支援金などについて気ままに相談できる人がいる、などの求めていることを、求めたまま頼れる人がいるかどうかって生きる上ですごく大事だと思う。

「そんな人いなくても生きていける」と言われたらそうなんだけど、「そういう人がいたら、より良くないか?」と思うこともある。

つまり、①と②を分ける背景って、本人がどこまでの理想を描いているかが関係していそう。

理想を描かず、とりあえず今の現状を維持できていればいいって考えれば、たしかに問題にはならないのかもしれない。でも、その人が理想をちゃんと描けられて、理想の状態になることを望んでいるが、現状、理想通りになっていなければ問題となる。

理想を諦めているかどうか、諦めざるをえなかったかどうか、このあたりが問題になるかならないかを分けるのかもしれない。

大学生の時に読んだ山田 昌弘さんの『「希望格差」を超えて 新平等社会』て本があって、貧しくて困っているとあらゆる側面で希望できるかどうかに格差が生まれていると。(たしかそんな話)

これは自分も実感することが多々あった。
中学、高校、大学の時、「なんで自分はこんなことでも諦めないといけないのか…」と思うことが、お金に関係する場面で思うことがあった。社会人になった今でも、たまに生まれた家の影響のことが頭によぎることがある。

こんな話をすると、自己責任論者が「自分の努力不足だ!」と言ってくるだろうな。僕は自己責任論に半分は賛成だけも、半分は環境の影響もあると考えている。

いろんなことに希望をもてるか、言い換えると理想を描けるかってゆうスタートラインに立てるかどうかは、家族構成、経済水準とかの環境の影響もあると思う。

ペアチルでつくるサービスを、理想を描くことを忘れてしまった、諦めてしまった人にとって、少しでも「また希望をもってみるか」とまずは思えるようなものにしていく。

社会問題×マーケティングが好き / ㍿小さな一歩(前澤ファンド出資先)で養育費の未払い問題にビジネスでトライ→㍿SHIRO創業。社会問題の発見→要因分析→ビジネス考案→実行に必要な資本整備→実行・改善のサイクルが最短で回り社会問題が解決されつづけるインフラを創る。