頭を良くするために大学は必要か?

「大学を出ていないから頭が悪い」という言葉を散髪屋で聞いた。散髪屋でなくても時々耳にするフレーズである。しかしながら自分からしてみると大学に行ってようと行ってまいと頭が良いか悪いかはその人次第だと思っている。感覚ではそう思っているのだがうまく説明できるかは疑問なため、この場所を利用して説明の練習でもしようかと思う。この話は自分以外にもしている人がいるが、自分の言葉でどこまで説明できるか知りたいのである。

何を「頭が良い」とするか

まず考えなければならないのは何を持って「頭が良い」とするかである。聞いている限りでは中学高校で出される偏差値のことだと感じたが、その時点で私の「頭が良い」と彼らの「頭が良い」が異なっている。
私は「説明能力」「理解力」「応用力」の三種類があると考えている。全てロゴスの働きによってなされるものである。「説明能力」は言葉を解釈し言葉で伝える力、「理解力」は言葉を解釈し理解する力、「応用力」は言葉を抽象化し曖昧な概念に置き換える能力だとする。これらはお互いにつながりがある。「理解」しないと「応用」できず、うまく「説明」できない。また「理解」は自分に対する一種の「説明」である。私は一つ及び全ての能力が高いと「頭が良い」と感じる。

何故偏差値では頭の良さが測れないか

私は偏差値ではこの「頭の良さ」を測れないと思っている。偏差値は模試によって出される。ここがネックなのだ。模試はまず記述式とマーク式があり、マーク式の場合理解せずとも点は取れる。記述の場合でも限られた部分しか出ないため「本当に理解しているのか」という問題が発生する。
読んでいる諸君の中で「記述を数回やれば違うテーマが出るため頭の良さを測れるのではないか」と思われる方もいるかもしれないが、それは理想的な解決方法とは言えない。「習っている範囲内で出てくる」という前提があり、また「理解せずとも解ける」からだ。中学高校では国語数学理科社会英語があるわけだが、少なくとも国語社会英語に関しては与えられた議題に対する小論文でもしない限りはクイズ大会になってしまうだろう。数学は抽象的概念の操作という特性上、多少文系科目より理解能力は測れるが「操作方法の理解」なのか「概念自体の理解」なのかの違いはまた別途で考慮しなければならない問題としてあるだろう。よって「頭が良い人が大学に行く」ということではないということを私は主張したい。

大学に行けば頭が良くなるか?

前項で「頭が良い人が大学に行くという考えは正解とは言えない」という旨を説明した。では問題を「大学に行けば頭が良くなるか」というものに変えていこう。「大学を出ていないから頭が悪い」という言葉は「最初に頭が悪いから大学にそもそも入れない」という意味と「大学を経ることによって頭が良くなる。したがって大学を卒業していない自分は頭が悪い」という意味があるだろう。前者は前項で説明したので後者の説明をしようと思う。
結論から言えば「人によるため頭が必ず良くなるとは言えない」だ。なんともありきたりな結論だが、実際そうなのだから仕方がない。大学は高校以上に自由なため出席を取る授業も少なく、最低限出ていれば進級ができる。そこで真面目に学ぶか遊んで4年間を過ごすかは卒業に影響しないのだ。(もっとも最低限すら出席しない生徒は容赦なく留年になるが。)つまり大学という施設は応用力や理解能力、説明能力を育てるきっかけを与えるが誰しもが育つというわけではないのだ。むしろ応用力や理解力を使い知識を増やしたり知識のつながりを作る場所と言って良いだろう。

まとめ

たった十数年間しか生きていないわけだが、それでも学歴に関わらず様々な頭の良い人に出会えた。十数年で何人もの人に出会えたわけだから、数え切れないほどそういった人は存在するだろう。そこでわかるのは「頭がよくなる要因は人それぞれであり、大学と頭の良さは関係ない」ということだ。強いて共通点を述べるならば「皆考えることをやめない人」という点だろうか。最後まで疑問に残った「どうすれば頭が良くなるのか」というのは簡単に解決できそうにない。また少しずつ他の側面からこの疑問を紐解いていければと思う。
#エッセイ #大学 #コラム

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