分類の利点と致命的な欠点、言語と媒体と差別

まず今回のnoteは理想論を述べており、現実に全く合わせていない。つまり到底無理な話なのだが、そろそろはっきり書きたいと思っていたので今回はそれについて話す

もうめんどいからこれをこうすればええやんけ pic.twitter.com/KwSTqpLOha

「こういう人について言及されてない」「これについては何も記述はないのか?」「○○というセクシャルを知っていますか?」「○○というのセクシャルもある!」「こういうセクシャルもあるんだから君は間違っているわけじゃないよ」
自分はもう嫌になってしまった。名前がついていないと間違ってないと確信できないのだろうか?名前がついていないと「配慮」できないのか?

分類することによるメリットとデメリット

確かに分類することのメリットはある。名前がついているので同じ悩みの人たちを集めやすく、また所属欲求も満たされるだろう。
しかしながらやっていることは散々嫌がってきたラベル付けである。分類してそこで集まったからといってその人が感じていることと自分が感じていることは違うかもしれない。「男特有の悩みはこういうのあるよね」と「ゲイならこういう悩みがあるよね」は何が違うだろうか。「男」「女」という分類を嫌がり新しく概念を作った結果、皮肉にもそこで偏見やマイノリティがうまれ、そこにも馴染めない者が出てくる。もしもセクマイという分類を認めるならば、「男」「女」という分類を認めざるを得ないだろう。

「言語」というメディア

私は分類は嫌いである。しかし分類はしなければならない。言葉を使っている時点で分類がされている。言葉を使わねば今の生活は維持出来ないのは誰もが認めるだろう。ではどうすれば少しでも不快要素を減らせるだろうか。それを見るために考えるべきことがある。
言葉はメディアである。個人の直接的なものを言語という媒体を使い他人に伝え、他人は言語という媒体を通してきたものを自分の頭の中で直接的なものに再構築する。

ここでわかる通り、Aの伝達がうまくいかないポイントが3つある。まずはAが概念を言語化できない場合。ここでは重要ではないので詳細は省く。
2点目は言語化するときにニュアンスが言語という枠組みにハマってしまう点。「男」という言葉を使った瞬間に様々な要素が省かれ抽象化される。
3点目はBがその言語を再構築するときにAと同じ構築ができない場合。Aによる男の価値観とBによる男の価値観は違う。Aの価値観による「男」とBの価値観による「男」は多少なりとも必ず違っており、抽象化された単語として伝達されるため必ず誤解が起きる。
これらのズレは頻繁に起き、また重大な問題を引き起こしかねない。

少しでも足掻くために

よって自分は細かくセクシャルを規定するよりも個人個人に対応すべきだと思っている。つまり「どう違うか」を名付けるよりも「この人はどういう人か」を決めつけずに把握するのが大切だということだ。一つの言葉で表すよりも「こういう人間で、こうで、こうなんだ」と説明を茶化したりせず真剣に考えることが必須である。個々人の意識の話になってしまうのでこれは広まらないだろう。しかしながらこのままセクシャルの名前だけ増えていき、「それがわからなければ支援にあらず」といった風潮になる流れにだけはして欲しくない。「LGBT」という言葉すら使わず「人には色々な要素で他の人と違う部分がある。しかしそれは蔑視する理由にはならないし、茶化す理由にもならない」という意識さえあればどれだけいいだろう。そうすれば余計な分類が減って皆の悩みが減るのに、と分類が嫌いな私は考えてしまうのだ。

#セクマイ #エッセイ #コラム #LGBT

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