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映画感想 / Barbie

ネタバレあり

8月21日(月)鑑賞。
ハリウッド映画の好きなところは、人や社会を絶妙な距離感とリスペクトで扱うユーモア。
そんなユーモアやあるある感が詰まった映画。
SNSから受けてた印象とはかなり違って、それが良かった。

ストレスフルで、死を考えるのが抑えられなくて、鬱々とする冴えない母・グロリアを演じるのが、あの、、、
全世界のクィア大好きドラマ「アグリ―・ベティ」の主人公、少女ベティ役を演じていた、アメリカ・フェレーラ。
そして、リアル・ワールドで「男かくあるべき」を知りKendomを創りあげていくKenに対して挿入される楽曲“Man I am”を歌うのがSam Smith。ゲイからノンバイナリーへと性自認をカミングアウトした彼が、笑っちゃう位ど・ステレオタイプな男性の姿の歌詞を歌ってるとか。
こういう私達のリアルとの越境が最高に面白い。

完璧に完璧で、かわいくハッピ―。そして、ペラペラなBarbie Land。(そのペラペラ感は、私的には嫌いじゃないが)そこで流れるLizzoの”pink”を聴きながら湧いたのは、Kay Thompsonの ”Think Pink”。
この楽曲が歌われる映画"Funny Face"は1957年の作品で、バービーは1959年に発売開始されたそうだ。"Funny Face"のメイン・キャラクターが、哲学的なインテリ女性と影響力のあるファッション誌の女性編集長(Diana Vreelandをモデルにしてるとも言われてる)というのは、まさに家事から解放される当時の「新しい」女性像の表象でもあったのかもしれないし、時代が求める自由と権利の象徴かもしれなかった。
映画冒頭、“2001年宇宙の旅(1968年)”のパロディで、Barbieのミッションが「女性を解放する」事だった、というメッセージが強烈に明確に示される。
そこで色褪せた人形をぶっ叩き壊すという少女達。
暴力的にまで吹っ飛ばし、手に入れたのは美しいBarbie。
完璧なスマイル。完璧なボディ。
でも、それは誰に(何に)とっての完璧さ、美しさなんだろうか?

マテル社に駆け込んだBarbieが見たものは、Barbieという少女たちの夢の姿(Barbieとしての自分たちの価値観)を決裁しているのが、バリバリの権威主義、上下関係に規定された男性達の閉ざされた会議室だった。
こういった「解放」の偶像は、結局一部の特権オジサン達に勝手に創られてコントロールされてきたものなのかもしれない。

「現実」を知った時に、自分という存在の矛盾さに自己崩壊を起こしてもおかしくないBarbieに温もり(お茶)と逃げ道を与えたのが、まさにBarbieの母(生みの親)であるルース・ハンドラーだった。
Barbie Landに居ないBarbieは、完璧な「母」。
ルースが映画を通して、(温もり、逃げ道、人間になってもいいという許可を)ただ与える存在であったというのは、、親の在り方として私は憧れた。少し偶像的に過ぎるが、あの幻影なんだかよく分からない、ご都合主義的な存在だから、それはそれでいいのだ。(というか、親ってそんなもの??)

まさに「現実」に生きた、Barbie。
なぜ、最後に人間になる事を望んだのか。
経年劣化しても修理できず廃棄もできない肉体。
老いもある、病気もある、繊細な肉体。
常に身の周りの変化にさらされ自分自身ではアン・コントロールという意味で、不自由な肉体に直面する必要がある。
それを選択した「普通の」Barbie。
完璧に完璧で、“happy”や“cool”のルーティーンに生きるペラペラなBarbie達が得る世界は素敵だし憧れる。アイドル(偶像)として必要かもしれない。
ただ、2023年の今を生きる私にとって、自分のどうしようもない不自由さをしっかり引き受けて、そこから自分なりの幸せを創り出していく人生もまた、挑戦だと思う。むしろ、そこに真の自由さがあるのかもしれない。

だから、日々ストレスフルで、死を考えるのが抑えられなくて、鬱々として冴えない日々を送っているリアルな女性達(母達)は、彼女達もまた自由を得るために闘うドリーム・ガールなのだ。

そして、決して忘れてはいけない。
これは、そっくり「男性」にも当てはまる話だという事を。

[追記]
「婦人科に行く」というエンディングは、母になる可能性を引き受けた事かもしれない。
でもそれは、女性は母になるべき、みたいなメッセージではなく、その選択肢をも否定しないところが、よりリアルに感じた。

終わらないガールズ・ナイトも
家族との愛(愛ゆえの葛藤も含めて)も
良いも悪いも善も悪もない。
そこからどう生きるか。
そこにBarbieと一緒に立ったと感じた。

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