キコニアと遊ぼう! ~ストーリー紹介文における物語の受け手の考察~
10月に発売された「なく頃に」シリーズ最新作「キコニアのなく頃に」。
その話をする前にちょっとシリーズを振り返ってみましょうか。
「ひぐらしのなく頃に」(2002年8月~2006年8月)
日本のとある地方の村・雛見沢で起こる、連続怪奇殺人事件を扱ったPC向けホラーミステリーノベルゲーム。全8編。
「うみねこのなく頃に」(2007年8月~2010年12月)
日本のとある孤島・六軒島で起こる、連続殺人事件を扱ったPC向けホラーミステリーノベルゲーム。全8編。
私が「なく頃に」に触れたのは、「ひぐらし」祭囃し編発売後。
当時、食事の時間も惜しんで鬼隠しからせっせと読み進め、なんとか次作の「うみねこ」発売に間に合った覚えがあります。
「うみねこ」は大体リアルタイムで追っており、毎年夏冬の新作を楽しみにしていました。
以降、竜騎士07氏はいくつも作品を発表していますが、「なく頃に」(When They Cry)シリーズの新作発表は、実に9年ぶりであり、令和になっても「なく頃に」が楽しめるとあっては、シリーズファンとしては筆の一つでも取りたくなるというものです。
以上、振り返り終わり。
さて、本題「キコニアのなく頃に」の話に入りましょう。
「なく頃に」では惨劇が起こります。
ひぐらしでは惨劇を解体し、回避することが求められました。
うみねこでは回避不可能な惨劇を理解し、受け入れるか否かを問いました。
キコニアでも惨劇は起きます。悲劇も起きます。
今回は規模が大きく、関わっている人数も膨大。おまけに地球規模のクライシスつき。
今回の派手な惨劇に、我々"物語の受け手"はどういう立場で向かっていくべきなのでしょうか。
いやいや、ちょっと待った。
読者は読者でしょ。その立場から検証を始めるってどんだけ悠長なんだよ。
と思ったあなたは正常です。
普通、物語を読むときに、その作品と読者の関わりなど意識しません。
そして、意識しないことが問題になることはありません。
しかしながら、私はあえて、我々"受け手"の立場の検証からスタートします。
何故なら、「なく頃に」シリーズはメタフィクションの構造を内包しており、"物語の受け手"の存在を強く意識しているからです。
それはつまり、他の物語では暗黙の了解となっている読者と物語の関係性は、「なく頃に」においては決してお約束ではない可能性があることを意味します。
我々が物語において、今どの立場にいるのかをきっちり理解しながら読み進めていくこと。それができると「なく頃に」はきっともう一段楽しくなります。
そもそも、「なく頃に」の前作2作は、"受け手"の自主性にかなり左右されるゲームでした。
基本的にはゲームに挑む姿勢を求められますが、あとは自由。物語内の事件を検証するもよし、もっと包括的な物語の構造を考察するもよし。何を課題とし、何を勝利とするかも”受け手”によって異なります。
どう取り組めば正解ということはありませんでした。
それなら、とりあえずゲームに挑めばいいんだよね?と思いきや、今回はどうもそうではなさそうなんですよねえ。
そのあたりを2つほど深読みして、本記事ではまとめることにします。
それでは、お付き合い頂ける方はよろしくお願いします。
ストーリー紹介文がきな臭い
じゃあどこから検証していこうかという話なのですが、
他の方も指摘されてる通り、公式HPに掲載されているストーリー紹介文が既にきな臭い過ぎます。
こいつ、ゲーム発売前から完全に煽ってきやがる。
そんなわけで、ストーリー紹介文から受け手の立場と、今回求められているゲームへの姿勢を深読みしていきたいと思います。
①我々はプレイヤーではない
いきなりですが、「キコニア」の公式HPに掲載されているストーリー紹介文のラストの文言にご注目ください。
ここには、おそらく我々受け手に宛てたものと思われるメッセージが含まれています。
何故そう思うのか?
根拠は単純。二人称が2つ登場するからです。
いいえ。
惨劇に、抗う必要はありません。
駒の仕事は惨劇の渦中に踊ること。
ゲームのルール?難易度?私たちが決めるし、あんたには関係ない。
お前たちは取ったり取られたりして、私たちが喜ぶような喜怒哀楽を見せればいい。
いいこと?勘違いしないことよ。
お前は私の対戦相手じゃない。私を楽しませる為の、駒に過ぎないの。
今度のゲームは、
あんたにプレイヤーの席なんて与えない!
二人称を強調して引用してみましたが、いかがでしょうか。
「お前」「あんた」と二人称が交互に登場しています。
2段落目、3段落目の文脈からして、
「お前」=駒(物語の登場人物)
「あんた」=別の誰か
を指しているとみて良いでしょう。
この別の誰かを、「なく頃に」シリーズの今までの文脈に従い、かつ駒と明確に区別されるべき存在である、我々"物語の受け手"と仮定します。
その解釈に則って読み直すと、最後の文言「あんたにプレイヤーの席なんて与えない!」は、「受け手はプレイヤーではない=読者である」と宣言しているようにもとれます。
いやいや、キコニアってゲームでしょ?ゲームなのに「プレイヤーじゃない」とは?そもそも読者?それってほぼ同じものだよね?
と思われるかもしれませんが、「なく頃に」シリーズでは、この二つは明確に違うものを指します。
この二つを「なく頃に」シリーズと構造がよく似ているTRPGで例えれば、
プレイヤー =PL
読者 =リプレイの読者
と言い換えることができます。おわかりいただけただろうか。
つまり言ってしまえば、読者は傍観者、プレイヤーは物語に干渉できる存在を指しているわけです。
「なく頃に」シリーズのファンには御馴染みの話かとは思いますが、今までの「なく頃に」シリーズはこの「プレイヤー」という存在をかなり自覚的に扱っています。
キャラクター(受け手)が物語に干渉できる存在になるときは、必ず「プレイヤー化」を宣言するシーンがあり、そのシーン以降にはじめて、「プレイヤー」権限の象徴であり、物語の行く末を決定する「選択肢」が登場します。
(この選択肢の登場が決め手となって、「なく頃に」は電子書籍ではなくゲームとして成立するというのが私の持論ですが、話が反れるので詳しくはまた別の機会に。)
そういった文脈で、もう一度ストーリー紹介の最後の一文を見てください。
今度のゲームは、
あんたにプレイヤーの席なんて与えない!
あれ、これ今回の我々、マジで”読者”なんかな?
(なお、「いや、作者が単に文章下手で、二人称ごちゃ混ぜにしちゃっただけっしょ?」と思う方もおられるかとは思いますが、ただのミスと切り捨てきれない根拠がそれなりにあります。
「なく頃に」は叙述トリックが頻出するシリーズです。
うみねこで散々披露された言葉の細かいニュアンスの書き分けによる叙述トリック。ちょっと古い話になると、ひぐらしで二人称の使い分けによって読者を物語に巻き込んでいく手法を用いた例があります。(竜騎士ノイズ? 知らない子ですね。)
そういった細かい芸当をする作者が、二人称を雑に扱うとは考えにくいのではないでしょうか。
留意点としては、実はこの二人称の使い分けが、同時掲載された紹介文の英訳には反映されていないこと。どちらも同じ書体のyouで訳されています。(youのニュアンスの違いを英語で表現するなら、イタリックにする、書体を変えるなどの対応が予想されます。)
こちらを根拠に「深読み乙」とすることもできますが、正直製作サイドの技量不足などを理由とするノイズの可能性もそれなりにありそうなので、何とも言えません。材料不足による結論保留。)
②惨劇に抗う必要はない
謎に挑め、犯人を捜せ、そして、その心を理解しろ。
いつもならそうくる「なく頃に」ですが、今回、HPのストーリー紹介に以下の文言があります。
いいえ。
惨劇に、抗う必要はありません。
駒の仕事は惨劇の渦中に踊ること。
抗う必要はないってさ。
マジですか。「なく頃に」なのに?
そう訝しんでおりましたら、ファミ通の竜騎士07氏のインタビューにこの文言に関連すると思われる発言がありました。
竜騎士07「(キコニアは)シンプルに物語を追っても十分に楽しめる(中略)。推理や考察を義務化していない作品になっている」
つまり、ひぐらしやうみねこの時と違って、読者が自主的に物語の背景に潜むものを推理し、惨劇の回避方法をわざわざ用意せずとも、読み進めるのには支障はないということですね。(うみねこではバリバリに支障が出ました。)
素直にとらえれば、HPの文言はこの作品趣旨を、作品公開に先んじて提示していたと考えてよいでしょう。
些か挑発的ではありますが。
……とまあ、ここまでHPのストーリー紹介文をひたすら深読みしてみたわけですが、
①我々はプレイヤーではない + ②惨劇に抗う必要はない
= つまり……?
そのまま素直に読めば、読者として思考停止して読み進めることが要求されていることになります。
どんなに謎が提示されていても、都雄たちが無理難題に立ち向かっていても、我々はボーッとその行く末を見守っていればいいと。
………………。
ξ(`・3・)「え~?ほんとにござるか~?」
となるのが「なく頃」にファンでして。
深読みが好きじゃなければ「なく頃に」のファンやってないんだなあ。
実際、竜騎士07氏も前述のインタビューで「推理したければできるように作ってる」旨の発言をしておりましたので、そこは安心して深読みして良いようです。
深読みしして考察を楽しもうと、都雄たちの行く末を見守ろうと、それはあなたのご随意のままに。
さて、長くなりましたが、今回の深読みは以上になります。
とりあえず、HP紹介文の文言から
①我々はプレイヤーではない →我々は読者?物語に干渉できない=選択肢が登場しない?
②惨劇に抗う必要はない →遊び方いろいろ。考察も歓迎!
といった内容を読み取りましたので、このあたりを念頭に以降は考えを進めていければなと思います。
今後は我々受け手と物語の距離感を検証することを最終目標としつつ、「なく頃に」シリーズ全体を俯瞰しながら、メタい角度で情報の整理をしていくのが、私の考察の趣旨となります。
最終的にはメタフィクションの作品として評価ができればいいなという野望もあったりなかったり。
ただし、決して推理は得意ではないので、情報の整理の留まっても怒らないでね。
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追記:ちなみに、他の「なく頃に」ストーリー紹介文が気になって調べてみました。
惨劇は不可避か。屈する他ないのか。
でも屈するな。
君にしか、立ち向かえない。
(「ひぐらしのなく頃に」作品紹介ページから)
貴方に期待するのは犯人探しでも推理でもない。
貴方が“私”をいつ信じてくれるのか。
ただそれだけ。
推理がしたければすればいい。
答えがあると信じて求め続けるがいい。
貴方が“魔女”を信じられるまで続く、これは永遠の拷問。
(「うみねこのなく頃に」作品紹介ページから)
物語全てを把握したうえで見ると、両作品とも全くもってこの紹介文の通りの物語だったんだよなあ……
キコニアもそうなるのかなあ……
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