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私の建築

認識ということについて

 認識するということは大切なことだ。
 例えば、卵かけご飯を食べているときには、養鶏場や銀河系のことは大切ではなく、今食べている卵かけご飯、またはそれを食べている状況が大切だ。そして、これらは卵かけご飯を食べている主体である私によって認識されている。

作者をめぐって

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 この平面的な図は、私がいくらかの数的情報をコンピュータに与えて描画されたもので、描画されて初めてこの図を見たときに、初めてこの図の認識を経験した。つまり、これの作者は私ではないが、コンピュータという主体に著作権が無い以上、当然、その権利は私にある。
 しかし、この考えはやや不適切である。例えば、金槌で釘を打つのは、私であり金槌ではない。この時、金槌は日常的な道具として、「釘を打つ」という私の動作に埋没している。日常性に埋没したコンピュータという道具は、先の図を描画することにおいて、あまり重要なことではなく、作者は私であると言っても良かろう。確かに、「バラバラの大きさと色を持つ複数の三角形で平面的に図を構成し、そのうちの隣り合った三角形同士が近い情報を持ちつつも、遠く離れた三角形同士はそうではない」ということを念頭にコンピュータに数的情報を与えて、そのような図が得られたため、コンピュータを日常性に埋没する場合、このことは正しい。ここで重要なことは、図を描画するにあたって念頭に置いたことをもってのみ、私は図を認識しているということである。

建築の条件

 多様体という図形がある。これは、「ものの集まり」を扱う集合という概念から生まれたもので、つまり、複数の要素の集まりを単一の総体だとみなして認識された形である。砂場の砂で作った山は、砂を要素とする多様体だと言えるかもしれない。
 ここで一つ問題がある。多様体とみなした砂山は建築になり得るのか。つまり、建築は集合の概念を基に成立しているのか。
 人間の存在に根ざしている建築は、必然的に、その人間によって認識されており、そうでないものは建築にはなり得ない。人間の存在を念頭に置いてのみ、建築は認識され、存在する。ここで言う人間とは、私を含む、建築を認識するための存在であり、それはあなたを含む場合がある。
 建築を認識するための存在たる人間は、例えば、扉や柱の総体として建築を認識しているのか。建築を経験する時、扉を開けたり柱を撫でたりするが、その時に大切なことは扉や柱を認識することで、建築を認識することではないと考える。それら全てを経験し、後に回顧して初めて、建築の経験が完了すると考える。
 つまり、建築は人間の回顧によってのみ、「建築」という単一の事柄として認識され、存在すると考える。

認識された建築

 紛れもなく、これは建築である。なぜなら、私は、これに写る木のパネルを撫でたり、さらに言えば、組み立てたりしたからだ。あなたも、認識というようなことを、この写真を見て、建築だとして、すれば、これが建築であるということが、あなたにおいて成立する。

 これは、先の建築を作るにあたって、先立って作ったものだ。見た通り、これらは違う場所にあったものだが、これらはそれぞれ、この建築を「建築」たらしめている。今、一つの建築に対して二種の写真と、それぞれに対応する経験を提示したが、例えば材料となる木が野山に生えていた写真を追加して提示すれば、これも建築たらしめると考える。この時、三種の写真の認識を経験して、建築の回顧に臨めるからだ。
 コンピュータという道具を用いてこの建築の形を決定した私はこの建築の設計者であるが、これを設計する時、「滑らかな曲面」というものを念頭に置いていたので、これは「滑らかな曲面」で出来ている。滑らかな曲面という一般的な概念は、数学により厳密に言うと、任意の数だけ集合の要素を数えるなどして実数を構成し、それにより生まれたユークリッド二次元空間を多様体に適用し、滑らかさを決め得る関数について、その空間上で多様体上の点に対応する点で無限な数だけ微分可能であることを示した上で成立する。しかし、この建築の木のパネルは有限個しか無く、この建築だけでは実数の構成を論じることはできないため、この意味での滑らかな曲面はこの建築において不適切である。だが、この建築は「滑らかな曲面」で出来ている。
 この建築を設計する上で、RhinocerosとBsolidという二つのソフトウェアをコンピュータ上で使用した。Rhinocerosは多様体を扱い、これで作られたものは全て、滑らかであるか否かはさておき、多様体である。しかし、多様体は建築でないと考えるため、多様体から建築への変換が存在する。Bsolidは、Rhinocerosなどで作られた情報をBIESSEという加工機械に渡し、加工を実行させるもので、これにより、まず、Rhinocerosの多様体は木のパネルに変換された。ここで、両者を認識する上で、論理回路や木の伐採は大切ではなく、その変換のみ大切である。そして、その木のパネルが組み立てられたことで、建築となった。
 木のパネル一つ一つは「滑らか」ではないと認識するが、建築の形は「滑らか」である。このことは、先に述べたことから明らかである。

 この文章で私が言いたいことは、建築は神秘に包まれているということだ。建築には論理を超えた美しさが内包されており、設計論的プロシージャリティによって、数学という集合論的系と、形という身体的なものが、それぞれに関係性がないのに、関係してしまっているということが確かにある。
 この文章では、論理的な言い回しに気遣ったが、その上で建築が論理を超えている以上、建築を論じるということは不適切な振る舞いと言えるし、少なくとも私はそう認識する。建築は、認識の延長線上の、認識が届かないところに佇んでいる。

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