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「PTA問題」・「PTA不要論」の変化

 「PTA問題」・「PTA不要論」という言葉が使われています。このどちらもそれほど新しい言葉ではなく、かなり以前からPTAのあり方への批判の言葉として使われています。しかし、その使われ方は近年のものと以前のものとでは違いがあるようです。

「PTA問題」

 近年取り上げられているいわゆる「PTA問題」とは、「強制加入」・「強制参加」という「強制」・「強制感」の問題であることは以前に整理しました(「強制のないPTA」とは?)。
 この「PTA問題」という言葉は以前から使われていますが、その文脈は現在とは少し違っているようです。例えば、1971年に結成された全国PTA問題研究会が1985年に出版した『PTA活動を考えよう』にその問題意識の一端が書かれています。

 高度経済成長によるいろいろな面でのひずみは、子供を取り巻く環境にも大きな与えた。働く女性が増えて来たこともあり、PTA にソッポを向く親が増えてきた。その原因は、PTAの運営が不合理で民主的でなく、学校と癒着した関係になって全く従属した団体になっているということ、もう一つは、PTA活動の本来の目的からはずれて、金集めの後援会になっていて、「子供のしあわせ」をつくり出して行こうという方向とは逆になっているという指摘である。一方では、役員のなり手がなくて困るという問題や、新設校にはPTAをおきたがらない学校が増えているという問題を抱えている。
 PTA 活動で最も大切にされなくてはならないのは、子供の問題が、たとえささやかなことであっても、まじめにとり上げられて、父母と先生が自由な雰囲気で自由に発言ができ、論議がかわされるということが、PTAの民主化の原点である。

全国PTA問題研究会編 『PTA活動を考えよう』1985, あすなろ書房 p.176

 ここでは、保護者が「PTA にソッポを向く」原因として

・PTAの運営が不合理で民主的でなく、学校と癒着した関係になって全く従属した団体になっている
・金集めの後援会

の二点が挙げられていますが、現在の認識とは随分違うのではないでしょうか。
 この二点が強調されるのはPTAの成り立ちに関わっています。
 終戦後すぐにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がPTAの結成を進めたのは「教育の民主化」を進めるためでした。それはPTAの結成を進めるために文部省が最初に出したパンフレット『父母と先生の会 —教育民主化の手引—』(1947年)のタイトルにも示されています。
 このパンフレットで指摘されている戦前の保護者と学校の関係は、先生を中心として学校に従属したもので、それを転換し「先生と父母が平等な立場に立った新しい組織」としてPTAは構想されています。

今迄も学校との間には、それぞれ父兄会とか母姉会とか、後援会とか、保護者会とかがあって、学校と家庭とのつながりを持つことに努めて来た。定期的に学校へ集って子供達の教育やしつけの話を聞いたり、授業の参観をしたり、その他子供達のことで打合せなどをしているが、それらの多くのものは学校設備や催しの寄附や後援をすることがその主な仕事であって、本当に子供達のための仕事をしていくことが少なかったように思われる。学校の先生方からいろいろ説明をきき、注意をうけ、依頼をうけるという具合で、父母の方は常に受身になっていて、積極的な活動をすることに欠けていたと思われるのはまことに残念なことである。
 そこでこれからは、今迄の父兄会などのやり方を充分反省し、父親も母親も一緒になって、もっと実際的に力ある立脈な組織を作る必要がある。それには今迄の父兄会や母姉会や後援会等をどうすれば生々としたものにすることが出来るかを父母や先生が充分考えることである。先生が中心となった会ではなく、先生と父母が平等な立場に立った新しい組織を作るのがよい。これが「父母と先生の会」である。

文部省『父母と先生の会 —教育民主化の手引—』1947

 このパンフレットが配布された翌年の1948年4月に文部省が行なった「全国PTA実態調査」では、全国の小学校の84%、中学校の80%にPTAがすでに結成されていて(文部省社会教育局『昭和二十三年四月十五日現在のPTA実態調査報告』1950)、ほんの1年の間に、全国で一斉にPTAが結成されたことがわかります。
 このように一斉にPTAの結成が進められたため、実態としては学校後援会や保護者会の看板の塗り替えに過ぎない状況がありました。このような、戦前の保護者と学校の関係を払拭できていない状況への苦言が1950年の文部省の報告書にも以下のように書かれています。

(PTA設立の)動機が真に新教育の観点に立って児童青少年の福祉を考え、且旧来の封建的ボス的後援会に対する反省憂慮から出発したものであれば、その結成過程も教育民主化の線にそつて真に民主的な教育的団体としてのPTAの誕生を見ているが、動機が曖昧なものは、その結成過程も、形式的であって、出来上ったものが実質的に見てPTAとはいえないものが多い実情である。発起人となったものは、学校側及び旧後援会、父兄会の役員が圧倒的であり、本当に各父母が、PTAというものを理解した上で、民主的に皆の合意と協力とによってできた場合は少なく、一部のものの主導的振舞から生れたものが多いことは、好ましくない事柄だと思う。

文部省社会教育局『昭和二十三年四月十五日現在のPTA 実態調査報告』1950

 PTA創成期の資料を見ると、PTAの設立が推進されたのは戦前の「封建的ボス的後援会」からの脱却が必要だったという側面が読み取れます。
 PTAは「父母と先生が自由な雰囲気で自由に発言ができ、論議がかわされる」ような、保護者と学校・教員の対等な関係を基盤とする新たな組織を目指したにもかかわらず、その性急な結成により戦前の「封建的ボス的後援会」の看板の塗り替えに過ぎない形でその後も続いていくことになりました。このようなPTAのあり方を批判する言葉として「PTA問題」が使われていたようです。
 近年の「『強制の問題』としての『PTA問題』」と、以前の「『関係の問題』としての『PTA問題』」があるといってもいいでしょう。しかし、「PTAの運営が不合理で民主的でない」という点では共通しているともいえます。

「PTA不要論」

 「PTAなんていらない」「そもそもPTAは必要か?」というような言葉はネット上などで散見されます。「『強制の問題』としての『PTA問題』」からの流れで、「意義・意味のわからない活動を強制される」ことへの批判として、特に「意義・意味のわからない活動」に対する批判として「PTA不要論」という言葉が使われることが多いように見えます。
 「PTAなんていらない」という声はその創成期から出ているようです。1952年の文部省社会教育局『昭和二十七年度社会教育の現状』には、前節の内容も含んで、以下のような記述があります。

 本来の学校後援会的性格が何らかの形で払拭され切らずに現在に及んでいるということ、換言するならば日本のPTAは依然として後援会、保護者会の城を脱していないのではないかとの声も聞いており、甚だしきに至っては学校当事者さえPTAは不用であり学校後援会があれば十分であるという実情に至っては、この際我々としてもう一度その本質に立返って、大いに反省して見る必要があるように思われる。

文部省社会教育局『昭和二十七年度社会教育の現状』1952

 また、1972年の平湯一仁(全国PTA問題研究会運営委員)『現代PTA入門——PTAを立てなおそう』には以下のような記述があります。

 PTAなどやめてしまえという意見は、学校管理職と、それにつながる一部の教師たちの間に、かなり根深くくすぶっています。学校とPTAとのつながりを〝金〟を媒介としてしか考えることのできない人たちですから、めんどうくさいPTAなど解散してしまって、さっぱりと後援会として出なおせば、〝金〟を媒介にして発言権を回復しようと機をねらっている地域ボスたちと、いつでも〝共闘〟が組める体制だといえましょう。

平湯一仁 『現代PTA入門』 1973 新評論 pp.5-12

 ここに書かれている「PTAなんていらない」という声は、学校管理職から、煩わしいPTAなどよりも以前の後援会、保護者会さえあればいい、というものです。そして、このような声に対する批判は「『関係の問題』としての『PTA問題』」からの流れでされています。
 近年の「PTAなんていらない」が保護者の側から、その意味や意義を問う声として上がることとは大きく違います。しかし「PTAをなくして学校主導の保護者会があればいい」という意見もあり、そういう意味では共通しているともいえます。

「PTA問題」・「PTA不要論」の変化

 「PTA問題」・「PTA不要論」という言葉の使われ方は変わっています。それは「『強制の問題』としての『PTA問題』」と「『関係の問題』としての『PTA問題』」という違いともいえそうです。そして、近年の「『強制の問題』としての『PTA問題』」の解消のための言葉として使われるのが「PTAの適正化」であるのに対し、「『関係の問題』としての『PTA問題』」の解消のための言葉は「PTAの民主化」でした。
 しかし、この二つの問題は対比・対置するものではなく、社会環境の変化を背景に同じ問題の中で前景化する部分が変わってきただけではないかと感じられます。「強制の問題」を解消するだけではなく、「関係の問題」まで解消されてようやくPTAの設立の意図が果たせると考えます。

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