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あれから10年

10年前の3月11日14時46分、わたしは長男と自転車で市内を走っていた。
4日後に予定されていた長男が高校の卒業式で着るスーツを買うためだった。外にいたせいか、さほど大きな揺れを感じなかった。
その後も揺れは頻発し、町中に人があふれ出し、スマホで情報を収集していた店員が青ざめて「今日は帰れないかもしれない」と言い始めた。
でも脳天気なわたしは、「息子のスーツを買う」とことしか考えていなかった。揺れる店内で、息子は試着をし、初めてのスーツとネクタイを手に、自宅に戻った。

室内は無事だった。地震で壊れたものはなかった。このときわたしはまだ状況を把握していなかった。
テレビをつけ、未曾有の事態が起きたことを知った。それは想像を絶するものだった。映画のシーンを見ているような感覚になり、現実感が伴わなかった。

息子の卒業式は催行されたが、「平服と動きやすい靴で(制服はなかった)」と通達があり、新品のスーツの出番はなかった。国立大学の二次試験日とも重なったため、東北の地にとりのこされた生徒もいた。その日は、東京に放射能が飛散というニュースも流れ、卒業の喜びより不安のほうが大きかった。

それから2週間、わたしは家に引きこもり、テレビとパソコンの画面に張りついていた。原発の最新情報や海外の報道をこまめにチェックし、悲嘆にくれて1日が過ぎる。この繰り返しで、からだが凝り固まって、手足がむくんでしまった。

今日、10年という年月に向き合った。
わたしたちは未曾有の大震災と原発事故から何を学び、何を改善したのだろう。ずっしり重たい年月を振り返り、愕然とする。
事故後、ドイツは脱原発に舵を切ったが、当事国の日本は、原発の再稼働を推進している。汚染水、汚染土壌は溜まる一方だし、廃炉も計画どおりに進んでいない。家はあっても住めない帰還困難区域が取り残されている。

放射能の恐怖にさらされたあのときから、ウイルスの不安がはびこる現在まで、日本は変わろうとしなかった。利権が幅を利かせ、不利な情報は隠蔽され、政府は弱者を救おうとしない。旧態依然とした社会構造は、さらにひどくなっている。

じゃあ、社会の構成員であるわたし個人はどうなのか。
あのとき、何もないありきたりの日々に感謝しようとか、節電を心がけて小さく暮らそう、と誓ったわたしの思いはどんどん薄れ、今は飛んでいく寸前だ。
情報の激流にのまれ、慌ただしく過ぎていく日々。信念を持って生きていないと、易きに流れてしまう。不便より便利を、手間をかけるより、素早く快適になれる方法を選んでしまう。

落としものを探しながら、歩いてきた道をたどるように、10年間を振り返ろうと思った。
道ばたに大事なものを置き去りにしているかもしれない。もう一度掬い上げたら、違う道が見えてくるかもしれない。過ぎ去った時間は取り返せないけど、後戻りはややり直しはいつでもできる。

これからは「ゆっくり」と「誠実であること」を意識したい。
世の中に逆行しても、大事なものを置き去りにしないために。

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