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おばさん考

大学生のとき、同級生が出産をした。彼女の子どもと会話ができるようになったとき、20代のわたしは、わたしのことを「せーこちゃん」と名前で呼ぶように諭した(けっして「おばさん」とは呼ばないように)。

友人の子どもたちは30代になり、わたしは50代になったけれど、わたしに躾けられた彼らは今もわたしとの約束を守り続けている。

おばさん (おばちゃん含む)だけでなく、「お母さん」という呼ばれ方にも何か抵抗があった。だから自分の子どもが生まれたとき、「せーこちゃん 」と呼ぶように躾けた(2人とも中学校になると急にお母さんと呼ぶようになった)。

子どもが集団生活を始めると、先生や保護者から「◯◯くんのお母さん」とか「 ◯◯ママ」と呼ばれることがある。これも内心イヤだった。
家庭内では、自分のことを「お母さん」と一人称に置き換えてしゃべったり、夫がわたしに対して「お母さん」と呼ぶことも、当然ない。

名前を呼び合うという点においていえば、外国人はつきあいやすい。
あまり親しくなくても、すぐにファーストネームで呼び合う。
自分の名前があるのに一般名詞で呼ばれることに抵抗を感じない人と、感じる人がいるのは興味深い。アイデンティティーの問題にも通じるところがある気がするけど、人の感じかたは千差万別。わたしはイヤだというだけで、この問題をとやかく言うつもりはない。

そしてここからが本題。
noteを始めるにあたり、不本意にも「オバサン」という名称を使ってしまった。
あんなに嫌っていたこの言葉がスルスルと出てきて、笑っちゃった。
しかも最近のわたしは、自然と自分のことを「おばさん 」と言ったりもしている。ま、還暦間近なことを考えれば、ちっとも不思議なことではないし、もはや抗いようもないのだけど。

「おばさん」という呼称は、自分を客観視、さらには別人化したり、相手との間に若干の距離を保ちたいときに好意的に使うことで、その優位性を発揮するのかもしれない。
ここはわたしの分身を表現する場ということで、しばらくはカタカナの「オバサン」でいきます。

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