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入澤美時『考えるひとびと』より ー安藤邦廣・思えばあたりまえのこと

建築史研究者の安藤邦廣は、現代建築家でもあります。彼の特徴は、板倉構法の住宅利用です。この工法は、板倉という文字通り、もともと正倉院校倉などで利用されてきたものです。木材の柱の側面に溝を彫り、その溝にそって横板を落としこむことでそのまま壁とします。木材を連結する仕口や継手といった伝統工法も取り入れ、古来あった方式を再評価しつつ、法定された建築基準も満たそうとするもの。

もう現代では完璧に認知され、実践例も増えているようですが、刊行当時はまだそれほどでもなかったのか、インタビュー全体にギラギラとした野心が垣間見えます。

本文中の一部。

建築家が大工さんと協同できなくなってしまっているわけです。つまり、大工さんの技術を建築家が共有できていないから。(中略)だからベニアを使うのは平気だし、木を使ったとしても、新しいことをやる方がデザインとして創造性が高いという意識があるんでしょう。そのために、大工の技術は無視する。大工の建築的言語を熟知して、それを現代的に解釈して組み立てる建築家はほとんどいない。
そのことが、都市住宅と地域の住宅が混ざり合わない理由なのよ。大工さんと協同できるかできないかは、建物にはっきり出ますからね。P60-61

ここの一文には、本文を貫く対比関係が明瞭にみてとれます。すなわち、”建築家”と”大工”、”都市住宅”と”地域住宅”です。都市住宅とは、たとえば東京23区の中心部に建てられる様な、稠密エリアにおける住宅のこと、地域住宅ではその周縁および地方に展開する住宅のこと、と押さえることができましょうか。

前者が先鋭、後者が伝統の象徴です。文章の構造的に言えば、新しいことばかりが優先されて、伝統的なものに存する累々とした知識が見過ごされていませんか?、ということになります。

こう書いてしまうと、本当に味気のない、決まりきった枠組の話、思えばあたりまえのことになると思うのですが、でも実際そうではないかと思いました。一概にいって、数百年単位で持続された知識や技術は、継承されるだけの理由があります。それは信仰的なことではなく、合理的、実利的な面で。実態的に有益でないと維持されないのです。

本書では、木造や自然材由来の建築が「燃えるけれどもゆっくり燃える」「一酸化炭素ではなく二酸化炭素を出す」という点があげられています。つまり、木造は戦災・災害に弱いという言説に対して、疑義を呈しているわけです。木の家・土の家を作って住んでいたから、災害大国日本で我々の祖先は生き続けられた、ということでしょうか。

なぜ持続されてきたのかを考えることなく、最先端の勘弁で安い技術ばかりが持て囃される。
そしていつのまにか、古い技術は廃れ、そして死んでいくんでしょう。我々は自らが自らの首を絞める。なんだか昨日の網野さんと同じ様なことを考えさせられます。

参考リンクを貼っておきます。

日本建築協会HP


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