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入澤美時『考えるひとびと』より ー加藤典洋・”今の私”で考える意味

文芸批評を行う加藤典洋は、”私利私欲”という言葉をキーワードに、今の私の地平から物事を考え出すことの重要性を主張します。

私は、文章を読むときに色々書き込みをします。知らない言葉には、脇にその意味を書き込みます。共感できる部分には丸をつけ、最重要だと思ったところには二重丸をつけます。そして自分とは合わない違和感を覚えるところには三角をつけます。実は今日のこの文章は、三角が非常に多かった。例えば次のような部分。

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インタビュアーの入澤は、加藤に戦後の日本が背負っている罪や解決するべき課題を、若い人たち(18歳-21歳)が背負うべきかを問う。天皇制の問題や、アジア諸国への加害、沖縄をめぐる様々な課題などなどの物事のことです。これに対して、加藤は次のように応えます。

 過去の負債をいまの若い人が背負う必要があるのか。もともと背負っているのか。切れているのか。切れていてもかもなわいのか。というなら、過去の負債をいまの若い人が背負う必要はありません。もともと背負っているのでもむろんない。切れているというのでかまわない。それがこの問題を考える基本です。
 つまり、問題を過去から現在へという流れで考える必要は全くない。過去を学ぶことは大事ですが、それはまずノホホンとした自分があってのことで、そういう自分に必要が生まれてきたというので、過去を学ぶ。それでいい。まず過去を学んで罪深い人間として、自分をつくる、というそういう考え方は転倒しているし、弱いんです。p 176

たしかに、こう在れたらどんなによかったか。

しかし実際はそうではないでしょう。若い世代は、過去からの負債によって苦しめられている。慰安婦問題、靖国問題は、肌感覚の歴史認識として今でも頭を悩ませています。それに戦後社会がもたらした右肩上がりの経済成長の中で出来た収奪構造は今に至るまで有効に機能して、弱者や若者からも平等に金銭や時間や生命そのものといった尊いものを奪い取っている。負債だらけじゃないか。私自身、ロストジェネレーションとか、就職氷河期とか呼ばれた世代なのですが、社会から疎外されたあのときの感覚を思い出して、今でも心を冷やしています。

私は前の世代を考えるとき、正直にいうと恨みとか怒りが込み上げてきます。彼らは全てを享受した世代に思え、行動の原理的な部分に喜びがあるように思えるからです。我々世代から下の世代は、苦しみを押し付けられ、諦めを強いられた世代じゃないか、と。

一方、本文をしばらく読み進めると、次のような部分もありました。

 湾岸戦争が起きてもノホホンとしている僕に対して(略)「先生はいいですね、いろいろと学生の頃あって」と思わぬところから矢が飛んできた。
 僕は学生時代の自分の経験についてはズーッと人生上、苦労のタネとなったマイナスの経験だと思ってきたわけです。だから「学生運動があってよかったですね」なんていわれて、本当に面食らった。自分が経験という大きな木陰で休んでいる。日照りのなかに学生がいて、おびえている。そういう構図が見え、自分が学生のときの経験の穴ぼこを木陰にして、そのことに気づかない、鈍感な中年男に思えたわけです。p180

この本が出版されてちょうど今年で20年が経ちました。そうです。私もいつのまにか中年男なのです。私も加藤のように、これまでの経験を楯に下の世代を見るのではなくて、その楯をいちど横において、もう一度辛苦を共にしないといけない。諦めを強いられた世代であるならば、諦めないで済む道を一緒になって模索しなければならないのです。上の世代に対する恨みも、ロストジェネレーションであった記憶も、一度開放してみようとおもいました。”そこから何が生まれたか、学んだか”その一点に立ち返って、”今の私”を定立させていかないといけない段階なのです。

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(写真)渋谷109:当時の流行発信拠点だった渋谷109などの商業施設をめぐってから、インタビューがはじまっている。





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