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父への手紙

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亡くなった父を弔うための手紙を認めたもの。
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記事一覧

父への手紙 26 医者の話だけは信じる

 父だけではなく、どんな人も「身内の言うことは聞きたくない」という洞察を持っているのではないかと思う。  ご多分に漏れず、父も家族の言うことにはなかなか耳を貸さない。でも、それはいたって普通の振る舞いだと思う。  自分が子供で親の言うことがどれだけ正しくとも、言われたその時には「そんなわけがない」と耳を貸さない事が多かった。  最終的に親の言うことは、経験則もあり、自分が大人になって同じような境遇に合うと、「あの時聞いた言葉は本当だったのだ」ということに気づく。  た

父への手紙 25 運動音痴でもキャッチボールは上手い

 父のゴルフのフォームは卒業旅行先で一度だけ見たことがあるが、自分がゴルフをやらないので、いいフォームなのかどうかも分からなかった。    しかし、ボールが本来飛ぶべき方向へ飛んでいるかどうかくらいは、やったことない私でも判断がつく。    今思えば、卒業旅行で止まったホテル周辺にあったゴルフコースは、ザ・リゾートというようなゴルフコースだったと思えるほど、周りの景色を重視した超難関コースだったような気がする。    通常、コースを回る時は、複数で回ることが通例だが、その場に

父への手紙 24 きっと執筆家になりたかった

 父は、間違いなく執筆家になりたかった。 売れない小説家を切望していたに違いない。 開けても暮れても読書、何も言わずに出かけても家族が心配することはなかった。 何故なら、行き先は、近くの図書館か、隣駅の図書館か、養老渓谷かの3択だからだ。  父の中にある地理の教科書の中には、地形を教える章では、「渓谷」「山地」の二つだ。 渓谷に行くなら「養老渓谷」。 近くに山地がないから、その代替案として「散歩」をする。 「散歩」の原動力となるのが、「図書館」だ。登山家である父

父からの手紙 23 歯磨きが長すぎるのに虫歯

 父は、歯磨きがやたら長い。息子の私は、やたら短い。 そんな私には定期的に虫歯もあり、歯磨きの質が低ければ虫歯になるという根拠にもすぐに結びつきやすい。 父の場合はどうだろう。 朝も夜も歯磨きはしている。 恐らくどちらも同じ長さだろうが、夜は周りが静かなだけに余計に長さを感じる。 こんなに歯を磨くなら、さぞかしきれいなのだろうと思うが、全くそうではなかったりする。 歯ブラシも、父に握られ、歯に対して非情なまでの圧をかけられる。 もう悲鳴を上げるほどだ。 父の歯

父への手紙 22 目薬は横にならないとさせない

 父のルーティンは興味深い。 引退してからは、部屋に籠っていても、薬を飲む時間になれば巣穴から顔を出しては用を済ませ、また巣穴に戻る。 この時間的なルーティンは、感心するほどだ。 最近は、目薬を差しに巣穴から顔を出すのだが、必ずカウチに横になって目薬を差す。 刺した後は、これも必ず、目をつむったまま数分眠ったようにじっとしている。 この生態だけは、まだ解明できていない。 関心なのは、処方箋を欠かさないということだ。  処方箋の場合、本来であれば、父のようにルール

父への手紙 21 社会の流れには微動だにしない

父は、最終的にグローバルなビジネス専門の企業の1社に勤めて、最後までこてこての昭和人間で社会人の幕を閉じた。  誰とは言えないのだが、かなり信頼のできる情報筋(分かりやすくここでは「母」と呼ぶことにするが)、からの情報だと、父は赤字に転落した部門の立て直しや、新たな拠点を開拓する、一番しんどい仕事を主にやらされていたという。  父の話だと、一時期、窓際で新聞だけを読んで世界情勢を把握、次の一手を考えるという仕事に従事していたという。 父の新聞の切り抜きと、株の運用は全く

父への手紙 20 ルーティン

 父は、家庭では家族に無関心でも、会社では仕事ができたという。 できているところを目撃したわけではないが、最終的に経営者にまで上り詰めたのと、赤字に陥った拠点を黒字回復して回る役割をさせられたということを聞くだけで、仕事ができたのだろうということは、容易に理解できる。 そもそも、仕事ができない人が、赤字拠点や部署を黒字回復することは至難の業だし、経営者にさせるにも、相当な政治力がない限りは、大義名分が見つからない。  そんな父を見ていると、行動パターンにルーティングがあ

父への手紙 19 いつの時代も中央大学法学部が世界一

 中央大学の卒業生及び在校生にとって朗報ではないが、父は中央大学が東大よりも優れた大学であると言い続けて、アルツハイマーと未知との遭遇を果たした。 以降、話せなくなったので、今でも同じ思いでいるのかを確認できずにいる。  就職した先が、海外の顧客を専門に扱う子会社だったため、英語はできたのだろう。 当時、名古屋に住んでいた父は、英語の強い南山大学が進学先の候補でもあった。  英語が得意だったため、外交官を目指すことにしたのだと言うが、そこで中央大学法学部へ進学する。

父への手紙 18 保育園の送り迎え

 両親が共働きだったので、保育園に通っていたが、ごくたまに父が休暇を取った時には、自転車で保育園まで送り迎えをしてもらったことがある。 片手で数えられるくらいの回数である。  もともとは、兄同様に幼稚園に通っていたものの、途中から母が働くようになったか、あるいは途中から保育園に空きが出て通えるようになったかどちらかの理由で、保育園に変わったと記憶している。  普段は、母が車で送り迎えをしてくれていた。 早番と遅番があり、遅番の時は、いつも私が最後に迎えが来る生徒だった

父への手紙 17 母の入院

 そんな母任せの父にとって、母の入院は青天の霹靂だった。 あれだけ家族に興味を示さなかった父が、私のお弁当を作ってくれたり、母のお見舞いに毎日行くために、毎日早く帰宅して病院にお見舞いに行ってから帰宅するというルーティンを始めたのである。  当時、私は母の病院には一度も看病でいけなかったのだが、そのルーティングが始まってからは、毎晩の夕飯の支度は父がしていた。 もともと、レパートリーは殆どないものの、自炊はできる。 私としても、メニューにこだわりはなく、父の作る夕飯で

父への手紙 16 世界一母任せ

 父は、団塊の世代に生まれた典型的な昭和の男。 日本経済の急速な成長に貢献をした傍らで、家庭や育児はほぼ妻任せという世代でもある。 父も、ご多分に漏れず母任せな昭和の男を貫いてきた。  このタイプの昭和男を別の言葉で言い換えると、仕事を取ってしまうと家では、「二宮尊徳像のような動かない読書家」、「家電設置の作業を傍観する野次馬」、「食べる時間になると巣穴から出てくるプレーリードッグ」、少なくとも、父への尊敬の念と世界一の愛情をもって表現とすれば、こんなところだろう。

父への手紙 15 「長渕剛(ごう)」と「WOWOW(ウォウウォウ)」

父は、読書家であり、英語の読解も良くできた。 だから、漢字の読みも英語の読みも問題はないはずだった。 しかし、一部、どうもしっくりこない読み方で食い気味に来る癖が治らなかった。 これを癖と言うのであれば、それは生まれながらに持っている行動パターンであり、それを持って生まれた才能と呼ぶ人もいることだろう。 私は、それを才能と呼ぶ人間のうちの一人である。 私は、長渕剛の高い声で歌っていた時代のファンであり、初めて聞いた「乾杯」は、若い時代にレコーディングされたものだ。

父への手紙 14 スポーツだったら監督派

 父は、行動派か理論派なのかどちらかと言われると、理論派なのかもしれない。  自称学者肌だったので、理論派で間違いないだろう。  行動派の面もなくはなかった。  テニスとゴルフがいい例で、運動はウォーキングや登山以外にやっている記憶がないが、テニスは当時流行り始めていたテニススクールに通い、ゴルフは接待ゴルフがあるために、ドライブレンジで練習するなど、定期的に練習に足を運んでいたのは覚えている。  他に覚えていることと言えば、「練習=上達の方程式を覆した」第一人者とい

父への手紙 13 絶対飯は食う

 父は、どんな環境でも、どんなに文句を言っても、飯だけは食う、絶対死なないルーティンを持つタイプ。  医者の知り合いに、自分の子供が発症する病気について聞いた時、「食べてる?」「ぐったりしてる?」という二つをよく確認されるが、嘔吐したり、熱があったり、咳がひどかったり、色々な症状が出ていたとしても、しっかり「食べて」いて「ぐったりとしていない」なら、そこまで心配はしなくても大丈夫とよく言われる。  父は、この2つを常に持ち合わせている。  アルツハイマーを発症し、歩けな