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余白のチカラ~子どもたちとの時間で気づいたことVol15


先日私が住む街の 大人向けの講座に参加してきました。
成人大学講座でゼロカーボン、SDGsを学ぶスタートアップ。
昨年、町の施設としてバイオガスプラントがスタートして初めて、
町民向けに開催されたもの。

「環境・暮らし」の側面から、
環境、SDGs、ゼロカーボン、町の環境への取組みなどを学ぶ時間でした。

これがとてもわかりやすく、楽しかった!のです。
わかりやすく・大切なことはブレずに、自分事として考え、
次の行動につなげたくなる・・
約2時間の講座があっという間でした。
一緒に参加した友人と「面白かったね」「あっという間だったね」
と言いながら帰路につきました。

とってもシンプルな資料(字が大きくて、文字数が少ない、余白が多く写真やイラストを最小限使っている絵本のよう)…なのに
資料の構成、使う用語、参加型の進め方、参加するタスク、タイミング
すべて終えた時には自然と自分ごととなっていて、次の行動につながる
…行動したくなるものでした。


「全部を詰め込まなくても、いい」


自分がどこに反応するか
どんなことに好奇心を抱くか
どんなことを疑問に思うか

見ていなかった分野、偏っていた情報はどこか
もっと知りたい、理解したいと感じたところは、どんなことか
・・・
それくらい余白がある方が、楽しいんだな~と実感しました。

詰め込むと、”受取るだけでいっぱいいっぱい” になる。
でも余白があると、
自分の中で、気づくことがあったり、拡がりがある。


予定調和のように、この場合はこのようにという行動ではなく、
一人の人間のなかで、化学反応のようなことが起きて、
新しい行動になっていくような
そんな可能性が生れるのではないかな と思いました。

その可能性は、どんなときに生まれるのでしょうか?
それを体験したことがある人
人間には可能性があるという世界観を持っている人、知っている人
「そのような人(子どもの場合は大人)がいること」が
鍵になるように思います。


そして、最近起きた、ある出来事を思い出しました。


子どもにとっての余白とは

学童預かり保育で、自分の持ち物の忘れ物を繰り返すAくん。
さすがにランドセルは忘れて帰りませんが、
それ以外の荷物をよく忘れて帰ります。

汗拭きタオル、帽子、手袋、ネックウォーマー、といった小物から
途中厚くなって脱いだジャージ、学校から持ち帰った冬休みの自由研究の作品というような大きなものまで、何度も色々なものを忘れていってしまうのです。

Aくんはいつも元気で、受け応えもはっきりとしてくれます。
特に理解力がないということはありません。
宿題は、だいたい他の子よりも早く、一番最初に終えてしまいます。

保管して、翌日本人に声をかけて手渡すのですが
また別の日に、何かを忘れて帰る。。
それが続くと、先生たちからドカンと注意されます。
注意されたら、辛そうな表情をして反省しますが、
残念なことにやっぱりまた忘れて帰るのです。
とうとう先生たちは、忘れ物に関して
「何度言っても忘れる」「反省もしていない」と
A君の代名詞のように思うようになってしまいました。


こんな時、どう考えますか? どんな言葉をかけますか?


「何度も繰り返す」

忘れ物をしないようになってほしい という先生たちの想い。
それが注意とかダメ出しのような方法になって、現れます。
先生側は毎回真剣に伝えたことが、ちっとも聴いてもらえていないような
気持もあるでしょう。

忘れ物に限らず、何か注意される時って、子どもはいっぱいいっぱいです。
余白がなくなりますよね。

特に、7~8歳ころまでは、頭や言語で受け取るよりも、
身体全体で受け取ります。
小学生になったから、言えばわかるとか、できるようにならなくては 
ではなく
精神活動や心の成長は、まだ幼児期と大きな差はありません。
注意された言葉は、言葉で理解しているというよりも、
その時の空気感、言葉の威圧感のような雰囲気や空気感で受け取るほうが
大きいのです。
言葉で詰め込まれても、頭には入っていません。
いけないことをしてしまったという感覚だけが残ります。


こんな時、私は時間をおいてから、
後でAくんに聴いてみることがあります。
「何があったの?」
すると、"忘れ物をして注意された"、"今度から気をつける" 
と返ってきます。自動再生のように。。。でもとても必死です。
ちょっと、切なくなってしまいます。


余白をつくるつもりで、Aくんと話せたら
・・Aくんはどうなるだろう?
そう思います。


何度失敗しても、繰り返し教えてあげる
信じる気持ち


何度も繰り返して伝える。
できたかできないかよりも、失敗しても寄り添ってもらえる
失敗しても大丈夫、できると信じてくれている人がいる。
もしろん、できたことはほめてあげる。

そういう安心感は、人間の心が成長していくときの「大切な根っこ」になります。逆に言うと、ここが育っていなければ次の成長の段階に進めない。
表面的に問題がないように見えても、あとから違う形で躓きが起きてしまう。(精神発達の分野ではっきりと研究結果が出ているそうです)

幼児期や小学校3年生くらいまでは特に
失敗(失敗から学ぶので、失敗はないと思っていますが)という場面では
大丈夫だよ、信じているよ、のメッセージを伝えるつもりで、
声をかけてあげてほしいなと思います。
信じているよは、期待しているよということではありません。
いいも悪いもない、ちゃんといつかできるから問題ないよという
揺らがないゼロポイントのイメージです。



子どもに対して、一生懸命で必死になってしまうのは、
どんな人にも湧いてくる感情ではないかなと思います。
ただ、それを子どもに当てはめてしまうと、
おかしなことになってしまうのですよね。
でも一生懸命になるほど、自分と子どもだけのキャッチボールの中で
何とかしようとしてしまう。
(相手を変えようとする行為)

と言いつつ、自分の子育てでは、ずいぶんと・・・汗
という気持ちになります。。。

私が娘や息子に、何か注意していると、側で聞いていた父が
「そんなに怒らなくてもいいんでしょう」とよく言っていました。
そしてそのあと必ず、
「わかっているもんね。間違えただけだよね」と子供たちに声を掛けます。
すると子供たちは、にっこり頷く。

子どもたちも大きくなってくると、私に叱られたあとで
”じいちゃんばあちゃんの家に行ってくる”、と逃げるように…笑
自分で出掛けていくこともありました。
学童でたくさんの子どもたちと関わるようになった今なら、
あの頃の子どもたちの心境は、手に取るようにわかります。

親に注意されても、おじいちゃんおばあちゃんは助けてくれる。
信じていてくれる。
おじいちゃんやおばあちゃんでなくても、
身近な人がいいよいいよ、いつかはできるよ、と言ってくれる。
(我が家もお隣さん、お向かいさんの方達に、たくさん声をかけてもらいました)

根っこを育ててもらっていたのですよね。
これまでも、今も、いつも誰かに助けてもらっています。


デコボコだからこそ
余白をいかそう


信じてくれる人はおじいちゃんおばあちゃんや近所の人でなくても
誰でもいいと思います。

今、子育てで、悩んだり迷ったりしている方も
自分一人で、”ちゃんと” とか ”完璧に” とか、思わなくていい 
と心から思います。

人間は誰でも、でこぼこで、クセがあったり、
大切にしたいことや、こだわりたいことがあったりします。


自分のなかにも、ゆるっとした余白をもって
周りを観察したり、話を聞いてみたり、聞いてもらったり。
自分のでこぼこを、他のだれかのでこぼこが埋めてくれることを
楽しんでみる。

完璧なマルになろうとしなくても、でこぼこのままでも
それは、自分も活かされ、周りの人も活かすことになると思うのです。


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