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一枚の自分史:ちゃぶ台の周りには笑いがあふれていた

 四十代も後半に入って、子育ても落ち着いて、そろそろ自分にもかまけていいのかなと思い始めていた。父は早くに逝ってしまって、母は一人暮らしでも自立して元気にしてくれていた十年ほどの間、高校卒業後は途切れていた絵を描くことを再開、会社と家の間にあった市立の公民館で夕方7時から市民活動として絵画教室に週1回、勤務帰りに寄って油絵を描いていた。
 教室は永遠の悪ガキのような自由奔放な先生とその先生のお目付け役や運営にお世話を焼いてくださる方が数人おられてとても居心地のよいところだった。
 五時半定時、時々は残業もこなしながらの習い事だったから、当然、夕食抜きでエネルギー切れは常態化していた。
 バタバタと着いたら、旧式の重いイーゼルを運んでキャンバスを立て、使う色の絵の具をだだだーっと出して、寸暇を惜しんで色を塗り込めた。
 家事や地域の活動、会社では問題解決ばかり、時間に追われる毎日だった。時間が経つのを忘れるほど夢中になる。一週間に一回はそんな時間が必要だった。
 ハッと気付いたらいつも終了十分前、ついもったいなくて出した絵の具を使い切るために慌てて塗ってしまう。それで後で後悔してばかりいた。バタバタと筆とパレットを洗う。爪の間は色付きで、たまに顔も色付きの女だったりした。
 
 ビユンと帰宅するのかと思いきや、子どもたちは部活かアルバイトか飲み会か、夫もどこで残業しているのやら、十一時を回って帰宅しても誰も帰っていなかった。急いで帰る必要はない。
「お腹すいたやろ~、家に何かあるから食べて帰るかぁ~」
 で九時から始まるのがお仲間のM子さんのお家でKさんもご一緒で、居間のちゃぶ台を囲んでの酒盛りとなった。
 米国同時多発テロ、イラク戦争、冬ソナブーム、そんな頃、M子さんもKさんもまだみんなが若かった。
 母はしてあげることばかりの存在になっていた。甘えに帰るところはなくなった。代わりにまるこさんのお家はまるで実家のように寛がせてもらえた。 呑んで食べて草臥れたら、
「そこの椅子で寝とき」
 と言われて、数10分眠った。
「もう、この子は、肩から足出して寝てるよ~」
 みんなで悪口を言って笑っているのを夢うつつに聞きながら、人の情けを有難く感じていた。
 私たちが行くと、居間から2階に追いやられるM子さんのご主人が、
「どれだけ面白いことがあるんやろか~、ずっと笑ってるなぁ」
 感心していたそうだ。
 いくつになってもいつまでもいくらでもおしゃべりすることはあった。
 
 それは今でも変わっていない。もう二十年弱にもなろうか、絵画教室はなくなって、お仲間の何人かは旅立たれた。
 月に一回もままならないが、今だに行けば、まるで実家のように過ごさせてもらっている。おうち宴会は健在である。姉のような二人の存在に、私は胃袋をずっと掴まれ続けている。
 それぞれに年を重ねて、取り巻く環境も変わってしまったけれど、変わらないのは、とにかく美味しいものが好きで、料理するのが好きで、人にも美味しいものを食べさせたいという思いが美しい。
 飲んでいい気持ちになるといつも出てくる、
「うちらの手料理の方がその辺の居酒屋よりよっぽど美味しいな」
 これが出てくると宴もたけなわ、相変わらず、ごろりとしたくなる。だって実家だから。
 これからも、美味しいものを食べたいし、おしゃべりもしたい、旅もご一緒したいし、コンサートも行きたい。お互いにずっと元気でいられますようにと願うばかりだ。

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