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一枚の自分史:いい部下じゃなかったよね

1992年2月、42歳、会社の共済会の親睦旅行で、沖縄のホテルでの朝食の時間、直属の上司のT課長と共に写っている。「いい上司といい部下」の写真と言いたいところだが、どうだったんだろうか。
周りには、他部署の人たちの姿も写り込んでいる。

平成に世の中が移って、大震災もサリンも知らないまだのどかだった時代。
子育てが一段落して、世の中の動きについて行こうとしていた頃だった。バブリーな時代の名残りがセーターの肩に入っている。
「私がおばさんになっても~」と森高千里が歌っていた。男女機会均等法が施行されて、女性の立場が少しづつ変化していた。ただ、旧態依然とした職場ではパワハラセクハラはどこ吹く風で横行しているような時代だった。

子どもたちが小さいうちは社員旅行をパスしても許されたが、そろそろ立場的には避けてばかりいられなかった。母からも「留守は預かってあげるから行ってきなさい。職場の人間関係は大切にした方がいい」と言われていた。掟破りの途中入社の気兼ねもある、会社という団体での旅行が初めての経験でもあることで、表情は、決して楽しんでいる風ではない。仕事の延長でしかなかった。
それに比べて、T課長は朝から寛いだ顔をしている。それはそうだろう、日々の仕事は手強い問題解決ばかり続いていた。それに比べたら、閉塞した事務所から離れて、おそらく旅行の幹事としての苦労はあっても楽しい仕事だったのだろう。
慰労と親睦の旅ながら気を遣うことばかりだった私に、「気使わんと、愉しんだらええよ」仕事からはできるだけ遠ざけてやろうという配慮があった。今から思えばだ。当時は知る由もない。

普段の仕事の中でもそういう配慮は随所にあった。毎年、課長が夏場に九州に求人のために長い出張に出る、すると課長の仕事がどっと私に押し寄せた。残業しても追いつかなかった。
まだ下の娘は小学生の低学年だった。くたびれ果てて、家に帰ると課長からクール宅急便が届いた。鹿児島の天文館から名産品のシロクマアイス、宛名は娘の名前だった。「何で? 部下は私でしょ!」と絡んではみたが、そんな配慮ができる人だった。ただ、当時は、「こんなん送らんでもええから、のんびり遊んでないでさっさと帰ってきて仕事してよ」と思っていた。そのころは今のようにどこでも買えるものではなかった。シロクマアイスは毎年送られてきて、子どもたちは楽しみにしていた。

子どもは3歳まで自分の手で育てると決めていた。下の子の娘が3歳になったら、保育所に預けて働こうと決めていた。
保育所に入所させてすぐに求職をかけて採用された。毎朝、保育所に送って行くと激しく泣かれた。ずっと泣く声が会社まで追いかけてきた。それをつい隣にいる課長に嘆いていた。
「子供を預けて働きに出たことを後悔するのではなくて、保育所に預けることで受ける恩恵は見ないの?」
そう言われた。今なら当たり前に思えることでも、当時は子育てしながら働くことのメリット、デメリットも解っていないことばかりだった。
その時、「私はここで仕事をして、この人のことを援けていこう」そう思った。
でも、そんなことはすぐに忘れて、上司の足らないところに目が行くと、つい鋭く突き上げてしまうような部下だった。それは、T課長が亡くなる直前まで続いた。

組織の中で個人がゆがんでいった。私の不幸は上司に恵まれなかったことにあると思い込んでいたし、一時は険悪なムードが漂ったが、それも定年が近づいて穏やかに流れ始めた。私は定年延長はしない。T課長は1年だけ引き継ぎのために延長することになっていた。もう一人、診療所の閉鎖で看護師さんと「来年は三人で卒業やね」と言っていたのに、その1年前にT課長は癌で余命数カ月と宣告された。宣告通りに旅立った。葬儀にあっては後悔と謝罪、感謝と祈りしかなかった。
「いい部下でなくてごめんなさい。そしてお世話になりました。ありがとうございました」
「もう問題解決しなくていいので、ゆっくりしてください」
生きているうちに言いたかった。定年退職の日に言うつもりだった言葉だった。

この時は美ら海水族館、首里城、ひめゆりの塔と廻ったが、この時節はさすがに沖縄も晴れる日は少ないらしい。青い海を見ることがない3日間だった。灰色の海と空、そして戦争の印象ばかりだった。
ただ、唯一、その中から立ち上がってくる鮮やかな紅型の彩りがある。
一人で留守番をさせた父への土産に奮発して買った琉球紅型の大きな暖簾はその家を出る日までいつまでも父母の家の居間に下げられていた。それをくぐって笑っている父の姿が初めて行った沖縄の思い出と共にある。

一枚の写真が多くの記憶を引き出してくる。繋がりがないように見えて、全部が繋がっている。どれも私の人生の外付け記憶である。




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