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音楽のこと

 ふと思った。私にとって、音楽をきくことと、路線バスに乗ることは似ている、と。
 私が好んできく曲はもっぱら、いい意味で陰気で、いい意味でもの悲しく、いい意味で鬱々としている。簡単にいえば——たいへん不本意な表現なのだけれど——“暗い”曲。それらをきいて、しかし落ちこんだり、ふさぎこんだりすることはない。むしろ血わき肉躍るというもの。気分が高揚し、夜でも目が冴え、なんなら想像力がすこしだけ豊かになる。
 はじめて好きになった曲は、たぶん、鬼束ちひろの「月光」だった。小学生のころのことだ。おじが焼いてくれたCD(鬼束ちひろのファーストアルバム『インソムニア』)は、私をとりこにした。なかでも「月光」は特別で、声もメロディーも、なんて素敵なんだろうと思った。英語はおろか、日本語だってまだ怪しかった幼い私は、それでもでたらめな歌詞でごきげんに歌った。きいてもきいてもきき足りるということがなかった。
 ちなみにいまでも鬼束ちひろはよくきく。最近の気に入りの曲は「茨の海」と「惑星の森」で、ライブバージョンがとくにおすすめ。
 それで、路線バス。私は空いている路線バスが好きだ。乗り慣れた路線であれば、多少混んでいても好き。大学生のころ、大学の最寄駅からキャンパスまで、片道だけでたっぷり三十分、毎日バスに乗った。同じ路線を使っている友人がすくなく、だからバスにはいつもひとりで乗った。高校生のころに買ったうすいピンク色のウォークマンで、“暗い”曲ばかり選んでききながら。
 路線バスはいつも同じ順路で、同じ場所へ向かう。乗客が極端に多いときは、無事に降車できるかすこし心配になるけれど、でも、とりあえずこれで大丈夫、と、思う。このバスに乗っていれば、私は大学に——あるいは駅に——ちゃんと行かれる。たとえ目をつぶっていても、本を読んでいても、すこしくらい眠っていても大丈夫。そしてその心安さは、音楽のもつ効能と、とてもよく似ている。
 たとえば、暗闇で途方に暮れているような静かな曲も、叶わない恋に涙している悲しい曲も、夕焼けを思わせるような切ない曲も、胸が痛くなるほど切羽詰まった曲も、みんなすでに悲愴だ。悲愴感には果てがない。望めば望むだけ、どこまででも沈んでいくことができる。そのことに私は興奮し、同時に安心もする。音楽をききさえすれば、私はいつでも何度でも、そこ——心の果て、とでもいうべき場所——に行かれる。そういう安心感。まあ、あけすけにいえば、音楽の世界観に手っ取り早く、思うままひたりたいのだ。その点、“明るい”曲には余韻がないし、うっとりとひたれるような余白がない(と、私は思っている)。もちろん、全部が全部嫌いなわけではないけれど。
 このことの弊害は、じつはひとつあって、ずばり同じ曲ばかりきいてしまうこと。だって、どこへ行くのかわからないバスに飛び乗っておでかけするのって、勇気がいるもの。そういう冒険を、なかなかできないところはなんだかなあ、と、思う。私って、臆病者だなあ、と。
 そんな私も、先月からついに、サブスクリプションなるサービスに手をだした。二代目のショッキングピンクのウォークマンが壊れてひさしく、なんとなくCDプレーヤーをだしてくるのも億劫で、数年のあいだ、音楽に乏しい生活を送っていたのだ。ないならないで構わない。そう思っていたのだけれど、全然そんなことはなかった。契約した初日から見事に音楽漬けになった。スマートフォンで音楽がきけるって、なんて便利なんだろう。親切に歌詞まで表示してくれるので、しまいには何度も作業の手を止め、歌いだしてしまう始末。
 そうして一か月のあいだ、好きな曲だけを浴びるほどきいて、すこし勇気がわいてきた。さすがに飽きてきたともいう。ためしに好きな作家の気に入りらしいミュージシャンを検索してみたら、みんなちゃんとでてきたので驚いた。あとは私の気分次第、バスはいつでも発車可能というわけだ。まるで遠足の前夜のようなどきどきとわくわく。この状態をあとすこし楽しんだら、まずはロッド・ステュアートをきいてみようと思っている。
 それで、いつか、洋楽を華麗にききこなせる女になるのだ。そういう発想こそが臆病者たるゆえんなのだと、笑われてもいいから。


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