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EV購入計画 Episode9 CASEじゃないよPEELだよ!

今日はまじめに自動車産業の行く末について書いてみたい。
当たり前だが、超個人的見解であることを最初にお断りしておきたい。

豊田章男社長もあせる100年に一度の大変革!

自動車産業を取り巻く状況はまさに激動と言っていいだろう。事の始まりの一つはダイムラー社が2016年に中期戦略として打ち出した新しいクルマのコンセプトCASEである。そしてもう一つのインパクトがクルマのみならず移動手段のすべてをシームレスにつなぐMaaSという新しいプラットフォームの登場によってもたらされた。

2018年秋にソフトバンクとの共同出資会社「MONET Technologies(モネ テクノロジーズ)」の設立記者会見の席で、豊田章男社長が「100年に一度の大変革の時代を向けているが、その変化を起こしているのはCASE」と話し、「コネクテッド、自動化、シェアリング、電動化といった技術革新によってクルマの概念が大きく変わり、競争の相手も競争のルールも大きく変化している。これからのクルマは、あらゆるサービスとつながることによって社会システムの一部になる」との考えを示すとともに、大きな危機感を表明したことは記憶に新しい。

本マガジンのEV購入計画に書いてきたように、私がこの分野に高い関心を持つようになったのはこうした世界的な自動車産業の潮流とは関係がなく、むしろ過疎と呼ばれるような地域において持続可能な移動手段とはいかなるものかという問いに対する私なりの答を模索してきたにすぎない。もちろんド素人の私の視点など取るに足らないという指摘に対して反論するための十分な理論武装をしているわけではないものの、私の目の前には「移動」に対する不安を抱えた人たちが実在するのは事実である。そして本来テクノロジーはそうした人たちに寄り添うための手段であってほしいと強く願ってもいる。

クルマもまた人生を豊かにするための手段にすぎないならば、サプライヤー主導の「発明は必要の母である」という本来のありようから見ると過剰とも思える商品ではなく、「必要こそ発明の母である」という原点に立ち返った商品もまたクルマ市場に求められるのではないだろうかという問題提起をしておこうと思う。

CASEに対する私見

新しいクルマに求められる価値の頭文字をとってCASEが今後のクルマ作りに欠かせないという。Connected(つながる)のC、Autonomous(自動運転)のA、Shared & Services(共有とサービス)のSそしてElectric(電動)のEである。

Connectedという点では車に乗るときに多くの人たちがスマホを持つようになった時点から、すでにその流れは始まっている。もちろん駐停車する必要はあるが、スマホからいつでも必要な情報を入手することは可能だし、緊急時の連絡もできる。たしかにつながることでドライバーの運転を診断し安全運転の人や走行距離が短い人の保険を安くできるなどのメリットはあろうが、いずれにしてもつながることで得られる情報によって利益を得るのはサプライサイドのほうだろう。まあ、中期的にはクルマがつながっていなくても困ることはそうないのではないかと私は思う。

Autonomous(自動運転)についてはまだまだ先のことだろうというのが私の見解であり、そう間違ってはいないのではないだろうか。どの程度の自動化をして自動運転と定義するかにおいてはレベル分けとう様々あるが、少なくともクルマに乗って読書していても寝ていても目的地にたどり着くレベルになるのはまだまだ先のことだろう。中期的に一般化されることはないはずだ。

Shared & Services(共有とサービス)について、もともと私は少なくとも地方においては自動車をシェアすることは困難であるという見解を持っていた。非常に単純な話として地方においてはシェアカーが置いてある場所までクルマで行かなければならないという逆説的な地理的制約が存在するからだ。まして、この新型コロナの影響でそもそもモノをシェアするという経済行為にブレーキがかかるのではないかと思われる。サービスの意図するところについては詳しくないので省略するが、少なくとも私の身の回りでクルマをシェアするという大きな流れはイメージしにくい。

Electric(電動)だけが私が中期的に必要だと考える要素と共通するところである。たしかに車の生産から廃棄やリサイクルまで考えたときのトータルでのCO2排出についてはいまのところ電気自動車に大きなアドバンテージがあるわけではなさそうだ。しかしながらそもそもガソリンスタンドの維持が難しくなり実際にその数が最盛期よりも半減している今日、日常のツールとしてエネルギー供給を行う場合に電気のほうが簡便なのは言うまでもない。100Vであれば家庭用コンセントで事足りるのだから。充電時間が難点ではあるが。

以上の理由でCASEは中期的に地方で今後必要になるクルマの実態とはかけ離れていると感じるのは私だけだろうか?もちろん都市においてMaaSと親和性の高いクルマを市場投入するためにCASEを備えていることが今後必須になる可能性はあるが、軽自動車すらスケールも価格も大型化している現状においてその付加価値のための追加コストをユーザーが負担する合理性は低いのではないだろうか。

だからPEELなんだよ

タイトル画像にもあるがPEELはPersonal(個人の)のP、Economic&Ecology(経済性と環境配慮)のE、Electric(電気)のEそしてLittleのLの頭文字をとったものです。LittleについてはTinyやMicroなどでもよいのですが、語感を大切にするためにLittleを採用しました。

SharedではなくPersonal

地方においてはシェアが難しいことは先述の通りですが、もう一つ大切なことはクルマという商品が買い物の中でも最も高額なものの一つである以上、そこに個性が必要になります。もちろんクルマをシェアするのが個性だといえばそれまでなのですが、ここで私が言いたいのはデザインの話です。周りを見てください。スマホを単体で持っている人を見かける方が圧倒的に少なくないですか?スマホケースはスマホを衝撃から守るという機能以上に所有者の個性の表現方法の一つです。Personalはクルマを個人が所有することとクルマが個人の表現方法の手段であることを意味します。

Autonomousよりも普通にEconomicなものを

自動運転機能の搭載に一体いくらのコストがかかるのか。それは単にクルマ自体に着けられるセンサー類だけではなく、インフラにかかるコストも合算されることを考えるともはやその機能だけでクルマが買えるほどのコストになるのではないでしょうか?もちろん自動運転は安全かつ便利でさらに移動中の時間の活用も可能になるなどバラ色に見えるかもしれません。しかし、車の運転をしなくていいからその時間PCで仕事をができる!とかの説明を見て、なぜそこまで仕事しなきゃならんのか?とギモンを感じたり。車内でおしゃべりしている様子を見て、それなら公共交通を利用しなよと思ったりするのは私だけなんでしょうか?高速道路上のトラック輸送など人手不足の解消やロジスティックの向上には役立つかもしれませんが、まあほとんどの人には不要でしょう。
それよりも、、、購入も維持ももっと安くできないのか?というニーズのほうがはるかに優先されるべきではないでしょうか。価格は電動化によってさらに下げることができると私は考えています。また乗車定員も積載可能重量もほとんどの日常ユースにとっては過剰なので、EconomicとElectricとLittleは同時に実現されていくべき課題でしょう。この三つを満たすことが環境対応も同時に満たすことは言うまでもありません。

Electric(電動)には同意する

テスラモータースの快進撃のみならず、ヨーロッパやアジア諸国において電動化の流れは加速しています。車載用のバッテリーの開発についてはかつてPanasonicが業界をリードしていたものの、現在では欧米や中国とは開発費の桁が違います。向こうは国家プロジェクトとしてバッテリーの開発のために大規模な資金投入をしているといっていいでしょう。また、すでにこのマガジンでも紹介したように完全な電気自動車の開発において日本のメーカーは世界的に見て周回遅れの感が否めません。この分野においてプレゼンスを確保しなければ家電やスマホのように日本企業が下請けになる可能性も少なくないと思います。頑張れニッポン!

そして日本にはLittleが似合う

私は日本人が自動車での自由な移動という便利さを内面化してしまったことによって失ったものが大きいと考えています。ここでは詳しく述べませんが、経済評論家の藤井聡氏が著書「クルマを捨ててこそ地方はよみがえる」において述べているように、自動車の過剰性が地方都市の土地活用や、インフラの高コスト化、循環型経済システムの棄損などに顕著に表れてきています。

さらには維持コストが高いために、衣食住のための基本的な消費すら圧迫しているのではないでしょうか。しかし、マイカーがあこがれから当たり前になった今日において意外とそのことに気が付きません。
ほとんどの人は大きな荷物を載せることもなく、一人で車を使います。もちろん家族で出かけることもあるかもしれませんが、わが家がまさにそうであるように、大人の数だけ”5人乗り”の普通車(場合によっては8人乗りのワゴン車も含まれる)が必要でしょうか?そんなものは一家に一台もあれば十分であとは一人か二人乗ることができれば十分のはずです。

だいたい、一人の人間を運ぶために1トン以上もある鉄の塊を走らせ、そのために強靭な道路を維持していくことが一体いつまで可能だというのでしょうか?もっと小さく日常の使い勝手に合わせたクルマは電動化によって確実に可能になるはずなのです。そういうクルマが当たり前になれば高齢者の運転に対する不安や免許返納という残念な事態も回避されるはずなんです。

さらに言えば、小型化こそ日本のお家芸のはずで、ここに新しい産業の可能性があると私は確信しています。

PEELは”皮をむく”という意味

最後の文字をLittleのLにしたのはPEELという言葉が皮をむくという意味があるからです。発見を意味する英単語はdiscoverですが、これはdis(外す)cover(覆っているもの)という言葉の構成になっています。まさに一皮むいたら価値のあるものが中にあった!というような意味ではないでしょうか。
PEELにはそんな思いも込められています。

こんなところで書いていても、自動車メーカーのお偉いさんには届かないかもしれませんが、新しいクルマのカタチをPEELするっていうのはなかなかイケてるんじゃないかと自画自賛しているところです。

この分野のニーズが確実に存在することを証明するのが私の当面のミッションの一つです。どこかにこの声が届いたならばパートナーとなってくれる人をお待ちしています。

妄想を起点として地域の課題を解決しよう!そこからここまで来ました。事業化までもう少し。頑張っていきます~

新しいクルマのコンセプトとしてPEELという言葉を思いついた令和2年8月17日を記念してたわごとを書きました。
最後まで読んでくれた方にはお礼申し上げます。



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