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虫とゴリラ 山極寿一と養老孟司

ゴリラの誘惑には勝てない(笑)

いつものように書店をぶらぶらしていると、一冊の本が目に留まる。竹取物語の一説にある「もと光る竹なむ一筋ありける」の状態で、私の眼には光を放って見える一冊があるではないか。それがこの本「虫とゴリラ」。
ゴリラとあれば反応してしまうのが私の悪い癖。かって就職面接で「自分を動物に問えると何ですか?」と聞かれ、「犬です」とか応えてた他の人には「なんで犬なの?」質問していたのに、私が「ゴリラです」と応えたら「あ、なるほど~」で片づけられて次の質問に進んでしまった経験がそうさせるのか(笑)

そんなゴリラ的な私が好きなのは二人の著者のうちの一人である山極寿一。霊長類学者にしてゴリラ研究の第一人者で京都大学総長(総長ってかっこいい響きでこれまたゴリラっぽい)。もしも”日本ゴリラ”という種が存在するなら、山極寿一はここにカテゴリーされるような男である。あ、私もか。

そんなわけでゴリラ+山極寿一とくれば買うしかない!
ゴリラワールドへ飛び込んできました~

この本の面白を伝えるのは難しい

この本において二人の著者は現代社会に住む私たちが失ってしまったことについて、虫やゴリラの生態やそれらと向き合うための作法を例にして様々なアプローチで掘り下げている。この本を読めば、私たちが現代社会に適応すべく努力すればするほどに焦燥感を募らせてしまう理由がおぼろげながらにもわかるだろう。意外かもしれないけど、結婚したての夫婦がパートナーと一緒に読んだりするとよいかもしれない。ゴリラのスキンシップこそ夫婦円満の秘訣かもしれないと私は思ったりする。
そのほかにこの本に書いてあることを具体的な状況に当てはめてみれば、たくさんのヒントを得ることができるだろう。子育てなんかについてもヒントがちりばめられている。
しかし、この本にはどんなことが書かれていて、どこが面白いのかということを伝えるのは実は容易ではない。それは二人が”情報化”できるのはこの世界の一部に過ぎず、それだけを手掛かりにしていては本質に近づくことは出来ないということを根っこにもって対話しているからだろう。それゆえに二人が伝えたいことを情報化して伝えることはなかなか困難なのだ。

情報化できないものが持つ価値に気が付かない

旅が好きな私だが、旅するときは右手に地図を左手には図鑑(情報)を携えるというのが当たり前になってしまっている。今ではその両者はスマホということだろう。おそらく二人はそれは旅行であっても旅ではない。まして冒険なんかでは絶対ない!と指摘するだろう。美しい自然や美味しい食べ物、ときには素敵な異性(最近は同性でもいい)に出会ったときの感動は、私たちの感覚器官が脳や心に心地よさとでもいうべきものをもたらしてくれる。しかし、それを情報化した途端にその人が受け取った”生の感覚”のようなものは失われてしまう。でも本当に大切なことは情報化して言葉にしたとたんに零れ落ちてしまうことのほうにあるんじゃないかということなんだろう。

確かにそうだ。その時の感動はあくまでも私だけのものだ。その感動や心地よさを誰かに伝えたいがゆえに言葉にしてSNSで発信しても、その感動や心地よさの本質は伝わらない。

情報化したい。だけど情報化してしまうと大切なことが零れ落ちてしまう。

このことに無自覚なまま高度情報化社会を快適なものとして志向している私を虫やゴリラは滑稽な奴らだと思って見ているに違いない。

情報化という不完全な営みの弊害として二人は二つのことを挙げている。
一つ目として、疑似共感はできても共感やさらには共鳴はできないということだ。視覚や聴覚から入ってくるものは情報化しやすいのに対して、触覚や味覚や嗅覚によるものは情報化しにくい。スマホやタブレットで伝えることができるのは前者に(いまのところ)限定されている。したがってその場で起きていることを共感するためには情報化できないことも含めて一緒にその場で共有する必要がある。また、本当の感動は対象との共鳴によって起きるとするならば、その時に必要なのは目を閉じていても感じることにちゃんと触れている感覚ではないだろうか。アートに触れているとき以外で「あー、いいなぁ~」と感じるときあなたは目を閉じているはずだ。その感動を写真にとって文章をしたためてSNSにアップしても、そこにあるのは疑似共感に過ぎない。でもそれで満足してしまっているということを二人は指摘している。
二つ目として、意味のないものに耐えられないということがある。私は地は一般的に対象を情報化できて初めて意味を付与することができると考えている。しかし、情報化できないことの方が圧倒的に多い世界において、情報化されたものにしか価値を見出すことができず、情報化できないものを無意味な存在として捨象したり恐れたりしていては自分の世界は広がっていかない。このことについて赤ちゃんが触覚や味覚や嗅覚を最大限に活用して世界を認識し広げていくことの重要性とともに二人は語っている。無菌室で完全管理された状況下で赤ちゃんを育てるよりも、多少ハラハラするぐらいで丁度いいらしい。赤ちゃんのみならず子どもというのはハラハラする体験からのほうが学ぶことが多いのは事実だろう。

理解できないものにとけ込む

ここで少し山極寿一の言葉を紹介したい

僕はフィールドワーカーですから、「個別の経験をもとにして語れ」っていうことをよく言われました。「お前何を体験してきたんだ」と。「何を聞いてきたんだ」じゃないんですね。聞くことっていうのは「情報」ですから、そうでないものを語れというんです。
自然の中に入っていって、サルやゴリラを見て、個別に体験したことを、自分で情報に変えて、人に伝えるのは、大変苦労するわけです。見たこと、聞いたこと、感じたこと、特に見たことは情報になりやすいけれども、「感じたこと」は情報になりにくい。だけど、その中にやはり普遍的なものを見つけたいと思うからこそ、フィールドに行くわけですね。

まちづくりとかをしていると大学生の「フィールドワーク」に関わることがある。まとめの時に「なにを見聞きしてきたか」を中心に理路整然と語る学生よりも、「何を感じてきたか」を大切にしてそれを言葉にできずに苦悩している学生を見るとついつい応援したくなるのはこういうことなんだなと思わされた。大学生の経験やそこから導かれる解決策、いわば成果や結論はほとんどの場合において陳腐なものでしかない。それが短期の滞在ならばなおさらである。僕が期待するのはすでに僕たちが理解して(理解したつもりで)いる現場について無理解な彼らが素で身を委ねたときに感じるものを私も味わいたいということなのかもしれない。だから私ができるお手伝いは、自分がうまいと思うものを一緒に食べて、適当に話をするぐらいだ。あとは心の赴くままに訪ね歩くといいとアドバイスする。ただ、遊びとは違うのは「目的」があること。その目的設定がフィールドワークを主宰する側の力量なんだろう。

単にフィールドワークと言っているが山極寿一のそれは半端ではない。ジャングルに分け入ってゴリラと一緒に生活するのだから並大抵のことではない。ジャングルというだけで何が起きるかわからないところなのに、言葉も通じないし機嫌を損ねたら命の危険すらあるゴリラと暮らすというのだから、いくらゴリラを自称する私でも不可能だ。

虫にしても、動物にしても、小さいころから自然に接していないと、付き合い方もわからない、つまり、自分でコントロールできるものばかりと付き合っていると、「共鳴」が生まれないんですよね。これは予想できない動き方をするものに対して、呼応できる体をつくる重要なトレーニングです。(中略)
自然の中に自分の身体を置いて、その世界に自分をとけ込ませていく。その中で自分が受け取るものがあるんですね。そういう覚え方をしないと、自分の身体や心を使って、自然と遊ぶようにはならないんじゃないかって気がします。

山極寿一ほどのハードフィールドでなくても、せっかく自然に囲まれた地域で子育てが可能なのに、学校と塾とスポーツクラブでしか時間を過ごさない子どもばかりということになっていないか、塾人の私が言うのも変だがあらためて反省が必要だ。自然でも社会でも理解できないものにとけ込むトレーニングは今後一層重要になるだろう。

このあたりのことについては、”雀鬼”桜井章一も同じことを言っているのが面白い。とけ込むことは桜井章一の言う「自然体」に近いかもしれない。

最後に学びについて

本書の100ページから少しだけ学校教育についてのやり取りがある。

養老孟司が「学校教育の場合、結論的に言うと、学ぶというのは『独学』ですよね。それ、京都大学もそうじゃないですか、違いますか?」と言うのに対して、山極寿一は西田幾多郎を例に出して言う「一見、京大は本当に冷たい教育なんですよ。誰も教えないっていう。「お前ら勝手に学べ」というのは京大の伝統である。」と。

さらに養老孟司が「学校って、何かを教わる場所だと皆さん思っていませんかね。学習というのはようするに『自習』なんですよ。」と言い、山極寿一は「京大の先生は、議論を吹っかけられたら『受けて立たなければならない』っていうのが必ずあって、だから、わざわざ質問に来る学生に対しては非常に親切だったですね。」と応え、続けてゼミで『食い下がる』ことの重要性や、学習とは『自習』と『対話』であると述べる。

「答え」「意味」「成果や結果」を求めすぎて与えるだけの教育では、真の成長は望めないということを繰り返し二人は主張している。

「親切に教えてほしいならばうちの塾ではダメだと思います。」と最初にお伝えするGRIPのスタイルもここにある。私が大切にしたいものを明らかにしつつ、それについてすら懐疑的精神で批判を向ける生徒を育てたい。そのためには、目と耳と筆記用具でなく、肌で教室全体の空気やペンの書き味やインクのにおいさえも感じながら、全身を使ってリズムよく学んでほしい。
本当なら忙しすぎる学校生活から解放してやりたいけど、それは私にはできないので、せめて大学に進んでから本物の自由な学びと向き合う構えとはどんなものなのかについて少しばかり伝えたい。
そんなことを考えながら読むことができた、なかなかに楽しい本だった。

繰り返しになるけれど、この本の面白さを伝えるのは難しくて不器用な私には手に余るものだった。でもこれを読んで、少しでも興味がわいたら是非読んでみてほしい。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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