なぜ人は子を生すのか

『洟(はな)をたらした神』 吉野せい
2015.09.24 (抜粋) 吉野せいの文章の凄さは多くの文化人が認めている。宮本輝もその一人で、だから読んでみる気になった。たしかに凄いと思う。本物だと思う。だが読み進められない、味わえない。
 何人もの子を育てながらのきつい、実入りの少ない農作業の日々。切り詰めた不安に満ちた毎日。常に無慈悲な自然や社会に脅かされ、ときに一人また一人誰かが巻き込まれ死んでいく。それでも地にかじりついて懸命に生きる、そういう話。まったく共感できない。
 生活が苦しいのはなぜか? 子供がいるからだ。貧しいくせに子供など持つからいつまでも豊かにならない。なのにつぎつぎ子を生し、苦しい苦しい! でも負けるもんか! と手前勝手に悲壮なつらをしている。呆れてものが言えないぐらいに馬鹿だ。そう思ってる自分がいる。
 子供をつくり育てる。生きものとしてのとてつもなく大きな流れ、さだめのようなもの。その中で生きている普通の人たちならきっと感動するんだろう。自己犠牲、滅私、家族愛。よくぞ書いてくれたと思うのだろう。
 まったく理解できない。蕎麦アレルギーなのに蕎麦がどれだけ美味いか説かれているようなものだ。苛立ったり柄にもなく憧れたりいろいろの反応をしてきたが今はもう諦めの心境だ。どうせいつまでたっても俺には分かるはずがない。他人が生まれ持っているものを学習によって取り入れようなんていう無駄な努力で何十年も棒に振った俺が一番の馬鹿だ。
 とりあえず別の本を読もうか。手付かずになってる本がまだ二冊ある。


 この本を読んだのは、ひたすら本を読んでは短い感想を記すということを日記代わりに続けていた頃だった。そのおかげで当時の気分や考え方を思い出すことができた。4年ぐらい前はこんな風だったらしい。

 自分の子を持ちたいと思う欲求や、持たねばならぬというほとんど強迫に近い観念には何という名前がつけられているのか、ネットでサラッと調べた程度では意外にも分からなかった。おそらくは流行りの承認欲求やなんかは絡んでいるだろう。社会の一部になりたい、そこへ大手を振って参入したいという欲求は大であろうと思う。結婚して子を生み育てて社会に送り出す、それが幸福に至る本道なのだという思い込みは根深い。そしてそれはおそらく正しいのだろうと、私も考えている。

 とはいえ私は、子ども好きではあるのだが、自身が父親になることはおそらくない。海外では養子を迎えて育てている同性婚夫婦の事例も多くあるが、そういったこともたぶんしないだろう。そんな私が子を持つということについて書いてもファンタジーにしかならないことは承知している。だが、なぜ「人は」子を生すのかと殊更に考えたとき、親や家族との関係で長く苦しんだこともある性的マイノリティ本人として、これは書いておかなくてはなぁと思っていることが一つある。


 たとえば地元の母校とか、子供の頃よく遊んだ場所などを目にしたとき、ある程度の年齢までは、当時の自分を思い出したり、あの頃に戻れたらなと夢想したりする。しかしそれが、個人差はあれどだいたい青年期が終わる頃合いになってくると変化してくる。その場所に、まだ見ぬ我が子を試みに置いてみるようになるのだ。

 どんな人生にも心残りはある。ということだろう。あのとき別の選択をしていたならどうなっていただろうとか、もっと勉強しておけばよかったなとか。人は、後悔まではいかなくとも、自分の人生にはまだまだもっとたくさんの見てない風景や場面や、感じてない気持ちや出会いが膨大にあったことをどこかで悟る。そしてもうそれを取り戻すことはできないんだなという諦念を同時に強くいだいたとき、「我が子を生す」という手段が、ひときわ魅力的に浮かび上がってくるのだ。

 人はおそらく、「一度きり」ではイヤなのだ。本当は何度も何度も生きてみたいのだ。でもそれは無理だから子を生すのだ。

 自分とどこか似た部分を持つ、少し前までは居なかった新しい存在、自分の手によって育てられて今ここにある存在、毎日成長を見守ってきた、自分の分身とさえ感じる存在が、しかし自分とはまったく違う人生を生きること。それが親の望みなのだ。

 だがそれは多くの場合無意識な望みであるのでその場合、「絶対にこうであってほしい」という過度の期待も抱きがちだ。であるならば「こうであってほしかったのに」という落胆もまた成立しうることになる。だがそこは、親のほうが大人になるべきだ。人はあくまでも擬似的にしか生き直すことはできないという事実を今さらであっても甘受せねばならない。子は他の、一個の「人」である。他人なのである。

 たとえ親と同じ家に住み親と同じ仕事に就いても、その人生はまったくの別物となるだろう。フィクションでしかないことだがもし当人が記憶を保持したまま精神だけを幼い自分に転送したとしても過去と同じ人生を歩むことはできまい。

 だから違っていていいし、むしろ違っていなくてはいけない。ただ自分で考え自分で選び生きればいい。それができないならただ生きてるだけでもいい。どうであれいま生きているあなたは、それだけで親の願いを日々叶えているのだ。

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