自己肯定感を高める方法

 問題の解決を目指し、情報を集めよく考え努力もしているのに、なかなか前進できない。そういうときは、そもそもの段階にまで立ち戻ってみると好転のきっかけが掴める場合もある。

 その問題というのが自己肯定感の低さである場合は、たとえばこういったことを考えてみると、もしかしたらいいかもしれない。


「肯定する」とはどういうことか?

 自己に関するあれこれをいったん忘れて考えてみれば、誰でも答えはわかる。バカバカしいほど簡単だ。「肯定する」とは、「否定しない」ことだ。

 「肯定する」とは、「好きになる」ことではない。
 そのものはこうした存在なのだと、そのあり方をまるごと肯定できてはいるものの、そのものを好きかと問われると即座には首肯できない、そういう対象に心当たりはないだろうか。
 それはたとえば厄介者な家族であったり、付き合いの長い腐れ縁の友人であったり、たぶん定年まで居ることになるんだろうなと思う今の勤め先であったりだ。

 好きだから肯定する、肯定できるから好きになる。もちろんそういうことはある。肯定感と好感は親和性が高い。

『自分がもともと好きだからすんなりと肯定できた人』
『自分を肯定することで順調に自分を好きになれた人』
 自己肯定感が高い人のイメージはだいたいこの2つなので、自分のことがあまり好きでない人や、自分を客観的に見たときに否定的な感情が勝ってしまう人は、到底そんなふうにはなれないと感じてしまう。

 しかし実状はまったく違うのではないだろうか。自己肯定感は高いのだが自分のことがめちゃくちゃ好きかというとそれほどでもないという、まるでパラドックスのようなケースのほうが、実は圧倒的に多数派であるように思う。


毒になる自己

 欠点はなんにでもある。たとえば、「あの人はいい人なんだけど……アレさえなければねぇ」なんていう声は日常的によく聞かれる。
 その場合、「あの人」は他人であるので、じゃあ「あの人」の「アレ」な部分をどうこうしましょうよ! という発想には普通ならない。
 「あの人」の「アレ」な部分も、ひとまずは無批判に紐付けされ肯定され、それを踏まえたうえで付き合い方を工夫していく。それだけだ。そんなふうにみんなしている。

 なのに、それが他人のことではなく自分のこととなると、とたんに事情が変わってしまう。
 「アレ」な部分を変えようとしたり無くそうとしたり徹底的に無視したりする。反面、好きな部分だけは嬉々として肯定する。
 まるで毒親の手口そのものだ。


人は変われるのか?

 一人の人間をまるで、盆栽かなにかのように自分勝手にデザインしその通りに形づかせようとするのは洗脳あるいは虐待である。なのに、自分自身に対してはまったく無自覚なままそうしたことを繰り返している人が大勢いる。

 あるがままの自分を誰かから否定されることは人権の侵害である。なのに、あるがままの自分を自分自身で否定するということを日常的に行っている人も大勢いる。

 本当に誰もが、望んだ通りの自分を完璧にカスタマイズできるのならばそれでもよい。少なくとも自分は固くそう信じているのだ、というのならばあえて止めるようなこともすまい。
 言ってもムダということはよくある。自分が信じたとおりにとことんまでやってみなくては気がすまないのだという気持ちも理解できる。
 ただ、一つだけ考えてみてほしいことがある。それは、自分自身を尊重しないやり方で、本当に幸せになれると思うのかということだ。

 人は変われるのか、変われないのか。幸せになれるかどうかは生まれたときにすでに決定づけられているのか、そうではないのか。私もよくそういったことを考えた。

 面倒は抜きにして結論を言おう。もちろんあくまでも私見なので信じてもらえなくとも仕方ないが。
 人は変わることができる。ただし、どのように変わるかを選ぶことはできないのだ。

 あの人のようになりたい、こんな人になりたい、そう思っていくら真似をしてみても、その長所なり美徳なりがもともと自分に備わっていないものだった場合は、残念ながら後からそれを身につけることなどできない。
 何十年と続けようが所詮は演技、まねごとだ。いずれ疲れ果てて何もかも投げ出したくなるのがオチだ。

 人は一種類の変化しかできない。それは、偽りの自分を捨てて本当の自分を受け入れること、本来の自分をストレートに発揮して生きられるようになること。それだけだ。


自分との縁

 その、本来の自分とはいったいどんなものだろう。いつか本来の自分になれたとして、その自分を気に入ることはできるのだろうか?
 そう思って心配になるかもしれないが、ことはそういった話ではない。

 気に入るもなにも、そもそも選り好みなどできないのだ。本来の自分はすでに形づくられていて、表に出られるようになる日を心の奥底でじっと待っているのだ。
 その本来の自分をはっきりと目の当たりにしたときにできることは、ただ受け入れることだけなのだ。

 ただ受け入れること。それができるかどうかはひとえに、諦められるかどうかにかかっている。
 絆だとか縁だとかという言葉は過剰に理想化、美化されている。実際はそんなに綺麗なものじゃない。その本質は諦めなのだから。

 自分にとって完璧で理想的な相手が現れるまで待っていたら、誰かと太い絆や縁を結ぶことなんてたぶん一生できない。
 つまり、順序が逆なのだ。この絆や縁は断ち切りがたいものなのだということが身にしみてはっきりしたのなら、もう選り好みをすることは諦めて、相手のすべてをまるごと肯定するしかないのだ。
 厄介者な家族のように、付き合いの長い腐れ縁の友人のように、たぶん定年まで居ることになるんだろうなと思う今の勤め先のように。

 認めてしまうしかないのだ。自分自身との縁は生まれつきのもので、どうしたって一生断ち切れないものなのだという、考えてみれば至極当たり前の事実をどこかできっぱりと。


結論

 自己肯定感の正反対に位置する感覚のことを、おそらくは自己不全感という。
 不全とは、不完全であるということだ。しかしここで、「完全である」というのは「完璧である」ということなのだと考えてしまうとまた、新たな誤解をしてしまうのではないかと思う。自己不全感をなくすには完璧な自分にならなくてはいけないのだというような。
 ここでいう「完全」とは、「すべて、余すことなく」というほうの意味だ。

 ごく単純に考えてみよう。自己肯定感を「自己を否定していない感覚」であるとするなら、自己不全感は「自己を否定している感覚」であるということになる。

 自分を否定するのは本来つらいことであるはずだ。だが反面、自分の良くない部分は直していかなくてはいけないのでは、という強迫もつきまとう。
 自己不全感にさいなまれてしまう人というのは大概、まじめな人だ。まじめな人が自分自身の中に良くないと感じる部分を見つけたら、当たり前のようにそれを問題視し矯正しようとしてしまう。結果、自罰的になる。

 だが人というのは、長所と短所とどちらでもないものの複合物なのだ。そのうちの短所だけを選んで(意識のうえで)切り捨てたら、その人は人としてのバランスを失ってしまう。それが不全な状態なのだ。

 他人が持っていないものを持っている自分のことを認めるなら、他人が持っているものを持っていない自分のこともありのままに認めるべきだ。なぜなら、すべての人がそうなのだから。
 この世でたった一つの存在として自分がここにいる意味と、人間が誰かと関わり合うことなしには生きていけない理由はそこにある。
 おそらく人はどこかが欠けていなくてはいけないのだ。

 あるものは捨てられず、ないものは得られないのだと諦める。その一見不本意なようにも思える諦念が、自己肯定感を高めることにつながる。
 本来「諦める」とは、「明らめる(=明らかにする)」という意味を持つ言葉なのだ。

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