見出し画像

#01 老犬の看取りと向き合う。

今私は16歳の老チワワと暮らしている。正確に云うえばこの8月初頭までは二頭いた。実は先住犬である17歳のパイセン(先輩)チワワを看取ったばかりである。

逝ってしまった時は本当にやるせなく、猛烈に悲しくて、2日間は涙が止まらなかった。でもそののち次第に気持ちが穏やかに収まってきたのは、いま一緒にいる16歳の存在のお陰。多頭飼いの賜物なのだろう。

でもこの16歳の後輩はパイセンが亡くなる少し前からてんかんを発症して以来性格が変わってしまい、認知機能に障害が出て今は自分で水も探し当てられなくなった。日を追ってリアルに老いが進行するのを見ていると、少なからずも居なくなるその日のことを考えねばならないのは確かだ。

いまそこに生きているものを前にそういう縁起でもないことは考えない事にしたい、という人もいる。少し前まで私もそうだった。
ただ私が先住パイセン犬の看取りを経験して思うのは、最期の見送りのときに比較的気持ちを落ち着けてある程度満足できるかたちで送ることができ、最後の最後、火葬の前のお別れの時にありったけの愛情と感謝の気持ちを伝えられたような感触があったこと。
そしてその時のことはビジュアルとしては今でも鮮明に記憶に残っている。少し赤みがかった黒い毛色に似合う、たくさんの黄色い花々と共に旅立ったちくわ。
その美しい記憶がまた、それがむしろ自らの癒しとなっているのにも気付いたことだ。
どう見送るか、そのクオリティーもとても大事な事なんだと改めて思う。

でも、てんかんつみれの介護生活はこれからが本番。そして20年近くも一緒にいた存在を二度も亡くすという事は経験がないし、いよいよの後輩の見送りのとき落ち着いて向き合えるのかとても不安である。でも黙っていてもその日は絶対に来るし、ちゃんとパイセン同様に後輩も立派に送り出してやりたい。

だから私は敢えて「その時」の想像を巡らせ、いかに自分が落ち着いて旅立ちに向き合えるかの心の準備をちゃんとしようと思う。そのために、死に目に逢えるか否か、その時が来るのが朝なのか夜なのか、穏やかなのか急変なのか、などの出来る限り色んな想定をする。それはとても怖くて胸が苦しくなるけれど、最期を看取るべき私がちゃんと為すべきことを遂行する。それが今までこんなに長く一緒に生きてくれたことへの最大限の感謝になるのだと思いながら。

有り難いことに今日も16歳は朝からモリモリ食べて、てんかん発作も落ち着いてくれている。どうかこんな日が1日でも長く続きますようにと、また願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?