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新しい時代の門をくぐり抜けるとき


随分、人生とはしんどいものだな、とは思った。

けれど、みんなそうなのだ、仕方がない、と飲み込んだ。
しかし上手くいかないもんだ、自分は、とも思った。

みんなはどうやら、もっとうまくやっているようなのに。
私だけ、どこか、おかしいのだろうか?



生まれて初めてカウンセリングというものを受けた時、私はカウンセラーの先生にこういった。
「こんなたいして問題もない人間が興味本位でやってきて、お時間を取らせてしまってすみません」、と。
そして1回きり、その1回しかもう、この先生のところには来ないつもりだった。

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先日、陣痛の痛みに耐えられず帝王切開に切り替え出産した女性が、
産後に看護師の言った、「本当に我慢できなかった?」という言葉が突き刺さって、毎日泣いているという記事を目にした。
痛みに耐えきらず、出産を頑張りきれなかった罪悪感に。

実は私も帝王切開で、子供を二人産んだ。
わかっていたことだが、子を授かれば日々、腹は否応なく膨れ上がり、身体は重くなり、呼吸が浅くなる。
天井を向いて眠れば、毎夜、金縛りにあったように苦しい。
苦しいが疲れているから、浅い呼吸のまま、気づけば泥のように眠り込んでしまう。
もう、ここまで膨れ上がった。あとは出してしまうしか選択肢などない。
全ては可愛いはずの、生まれてくる我が子のため。
陣痛が迫り、今以上に痛くなることは必定で、これがまだ序の口なのかと恐怖がだんだん迫ってくる。
向こうの分娩室からは、夜の闇も憚らず、私よりも先に出産に向かった女性の悲鳴が聞こえてくる。
ああ、自分も今にあのようになるのか。

24時間の陣痛の末、帝王切開に切り替えて最初の子供が生まれた時、確かに義母がやってきて、自分の出産はどのように大変だったか、暗に「頑張りが足りない」という話をされた時は嫌な気分がしたものだった。

しかし、結局カウンセリングを継続して受けるようになってみて次第に、
メンタルの回復のプロセスとは、この「我慢するのが当たり前」「我慢することが美徳」という観念を捨てることなのだと気がついた。
より辛い思いをした方が偉く、より苦しんだ方が高尚な経験である、という観念に私たちはずっと縛られている。
なぜ苦しみを我慢することが、偉いのか。
それを明確に説明できるものがあるだろうか。
それこそ、誰かにそう、思い込まされているだけではないのか。
本当は苦しかった、痛かった、嫌だったものを、みんなだってそうなのだからと飲み込み堪え切ってしまった幼き日の自分、
あるいは若き日の自分の感情を、正しく獲得し直しに行く過程、それが心の回復に至る道程なのだ。

他の人がどうかなんて、知ったことか。
誰がなんと言おうと、あの時、自分は本当に本当に本当に苦しかったのだ、ということを、ただもう一度、認めに行くこと。

ぶっすり切られた下腹を15箇所ホッチキスで止められ、病院のベッドで動けない産後間もない女に嫌味を言う義母。
それをニコニコと持ち上げ、随分大変だったんだねぇと同調する夫を、私は白けた気持ちで見上げていた。
でも私は、「少し黙れよ、クソババア」「おい、そこのすっとこどっこい、子供産んでもらってその態度はなんだ、フザケンナよ」
とは言わなかった。
そうして、その場をやり過ごした。
いつだってそうだ。それが正しいことなのだから。

不安や恐怖、、、怖いけど怖くなくなる「感情の法則」


愛先生のお話は、いつも胸に迫る。
私たちは、感情を押し殺し、理性で自分をコントロールすることを、正しいと思い込んできた。
社会も、教育も、それをずっと推奨してきた。
しかしそれは、自分が自分であろうとすることからは遠ざかる行為だ。

本来私たちは、自分であることを邪魔しようとするものには、立ち向かわなければならない。
人生とはそういう、プログラムを組んできているのだ。
「私は私であること以外に、なんの義務もない」

今、私たちがこんなにも苦しんで悶え、出口を探して彷徨うのは、個性を潰してきたからだ。自己を押し潰してきたからだ。
存在の苦しさが出てくるのは当たり前なのだ。

そもそもそうして嘘をついている、自分に最大の嘘をついている人間が、本来の本気の力など、発揮できるだろうか・・・?

私は私であること以外に何の義務もない


私がずっと探していた答え。
なぜ私は書けないのか。なぜ表現できないのか。なぜ感情を感じれないのか。
なぜ昔持っていたはずの力を、自由に発揮できなくなってしまったのか。

そう、私は私に、嘘をついている。
いつだって丸く収めようとしているし、今日だって穏便に無意味な1日が通り過ぎるのを待っている。
だからあるとき封印がかかったように、自分の根源的な源に、アクセスが許されなくなってしまった。


トランプ大統領は世界を救っていて、今、裏の世界では私たちの知らないところで大量逮捕が行われている。
バイデンは盛大な不正選挙を今も隠蔽しているが、必ず真実は明らかになる。
コロナやワクチンは、私たち羊を大量に間引き、自分たちの思い通りの管理社会を実現するために、DSに仕組まれていて・・・。



陰謀論の話をすると、カウンセラーは決まってそれを、柔和な笑顔で受け止める。
しかし同調はしない。
ヨガにハマってるんです、と言ったときも。
最近、瞑想しているんです、と言ったときも。
最近、こんなすごい人に出会ったんです、こんなすごいものを見つけたんです。。。

つまりは、依存するなと言うことなのだ。
自分の足で立つのだ、勇気を持て、と叱咤されている。
それを彼女は、「酔わせてたまるか」と表現する。

私たちはいつも、酔っ払っている。
怒りに、噂に、理不尽なニュースに、アルコールやタバコや、賭け事に、娯楽に。芸能人に、コメンテーターに、専門家に、宗教に、つよい言葉で導いてくれる誰かに。そして時に、陰謀論に。
そうやって、本来の自分に立ち返ることから逃げている。

のちに、カウンセラーの先生が初めてご自分のお師匠のところにカウンセリングに行った時、
「なんの悩みもないのですが、ちょっとカウンセリングを受けてみようかな、と思いまして」と第一声、挨拶をしたということを知った。
みんなそうなのだ。
自分は正常だと、自分など、カウンセラーの助けなど借りずとも、完璧ではないがなんとか上手くやれている、と思っている。
そこまで深刻じゃない、自分は大丈夫だ、と。


私たちが本来の自分であるならば必ず、自分が何をしたいのか、何をしたくないのかなんてことは、高名な専門家に確かめずとも、集団の多数決を待たずとも、自分で行くべき道を決められる。
誰かの助けを待たずとも、自分を救うための道を、自分の力で選んでゆける。
何に頼らずとも。
そう、トランプ大統領にすらも。


風の時代には、嘘がつけなくなると言う。
マドモワゼル愛先生も、動画の中でこう言った。
「対峙する時がくる」と。
しかし対峙する時とは、そこに至るまでに積み上げた苦しみを、気づきを、自らの地肉として、いよいよ自分の準備が整った時でもある。
時代が勝手にやってきて、私たちを勝手に快適な空間にさらってくれるわけではない。

誰かに言われた通りに生きると、決めた瞬間があった。
みんなが選びそうな、みんながいいと言ってくれそうな、無難な人生。
私は自分がそう決めたその時を覚えている。
そして今私たちが向かっているのは、嘘をつくのをやめる瞬間だ。
それを再び、決意し直す瞬間。


一人一人がその大きなプログラムに立ち向かい、本当の自分とは何者であるのかを扉に向かって叫ぶとき、私たちはようやく風の時代の風を全身に受け、美しい海を見る。

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アンティレッドさんのrumbleより。ツベでバンされた動画です。



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