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Mission 12 : 加害者としての共依存を紐解く。元農水次官の判決を受けて。

発達障害だったという息子を刺殺してしまった元農水次官に、懲役6年の実刑が下りました。
被告が高齢であることに加え、家庭内の凄惨な状況が明らかになるにつれ、世論は被告に同情的な方向に傾き、情状酌量を求める声が高まっていました。
おそらく判決に関わった方たちも、どこまで酌量するかという点に大変頭を悩まされたのではと推察します。

執行猶予にすべきだった、という声もあります。
ここに至るまでの親子の関わり、被告の苦悩や恐怖に想いを致すと、私も「執行猶予でいいのでは」という意見に傾きます。
しかしもし執行猶予になってしまったら、彼はどうやってこの息子を刺殺した瞬間の想像を絶する記憶と対峙するのでしょうか。
戦争に行った人が、その後PTSDの症状に苦しむのと同じようにです。
やはり、罪を認めて償った、という形は、この方のこれからの心の平安のためにも必要なのでは、という気もします。


そんな中、引きこもりは殺しても仕方ない、という世論に反論する意欲的な記事を読みました。

AERAdot.2019.12.16


これを読んで、ああ、そういうことかと改めて身につまされました。
ここで紹介されている元引きこもりの喜久井さんと言う青年は、当時、食事を一人で自室で取り、箸を取り忘れるともう一度家族の集まる場所に戻ることができずに皿を舐めて食べた、という記述にハッとしたのです。
喜久井さんの家族も、元農水次官の家族と同様、喜久井さんを怖れ日々、怯えていたことでしょう。
私たちは、引きこもり、社会のアウトサイダーを、自分とは反対側にいる他者として認識しています。
つまり、この得体の知れない、社会に適応できないものを、自分とは異なる異質な他者、理解し得ない排除されるべき存在として捉えています。
であれば、私たちにとって比較的簡単にその境遇を想像できるのは、元農水次官、引きこもりの子供を抱えて悩み苦しむ、家族の立場の方です。
しかし、ここに引用された引きこもり男性の例から見えてくるのは、家族から恐れられているはずの当事者が、一日一回家族に会うのすら苦痛に感じ、箸を取りに行くことさえできないほど、家族に怒り、嫌悪し、そして怯えていた姿です。

共依存は、支配と被支配に分かれます。
今まで私は、メンタルのケアをする経過をnoteにいくつか投稿してきたのですが、改めてそれらを読み返すと、まるで自分は完全な被支配者、被害者であるような書き方をしていることに気づきます。
しかし、おそらく共依存でアダルトチルドレンであろうと思われる私が、子育てもしているのに、完全な被害者であるはずはありません。

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共依存の中身を紐解いていきますと「憎みながら、軽蔑しながら、それでも離れられない」という定義が出てきます。

憎みながら=被支配者
軽蔑しながら=支配者

普通に考えたらこうですね。
しかし、自分の胸に手を当てて考えてみますと、私の周囲の共依存の共犯者に対して私が抱いている感情というのは、憎しみであり、軽蔑です。
そこに、感謝とか自己否定とか罪悪感とか恐怖がもう、ぐっちゃぐっちゃに絡みついて、中身がなんだかわからないように覆い隠している。
最近私は、共依存とは、この加害者と被害者、支配者と被支配者が立場を入れ替え、互いに補い合いながら成立しているのではないかと考えています。


もちろんまずは、自分がいま幸せではない、私は苦しんでいるのだ、と自覚することが第一歩です。
アダルトチルドレンや共依存の人間は、極端に自分の感情を感じることが苦手です。わかりやすい例を引けば、虐待にあっている子供が、自分が悪いから自分はこんな目にあっているのだ、と親をかばうようにです。
今の幸せはまやかしであって、自分はただコントロールされている、相手にとって便利に使われているだけなのだと気づく、反発を覚える、自分を守るために怒りを覚える。これは重大な気づきです。
私もつい最近まで、共依存やACなんて、自分とはかけ離れたどこか遠い世界の出来事だと思っていました。
そうやってまずは、自分が被害者であることに気づく。
しかしそれだけでは、この共依存を抜けることは残念ながらできません。
その次は多分、加害者であることを認めること。
もしかすると、これが共依存を抜ける一つのターニングポイントになるのではと考えています。


元農水次官が語った、引きこもりの息子との生活は、同情を禁じ得ないものでした。
しかし、亡くなった息子さんが、引きこもってしまうまでに何があったのか。
このような悲しい事件の解決の糸口を見つけたいなら、まずはそこに注目しなくてはならないと思います。
優秀な父親がいて、どんな態度で幼少期の息子に接していたのか。母親はどんなふうにこの子を躾け、導こうとしたのか。
自殺された妹さんがいて、そもそものもとの家族の関係は、どうだったのか。
少しずつ、何かが澱のようにたまっていったのです。そこに、学校でのいじめがあり、彼は外に出られなくなった。
考えるだけで胸が詰まりそうです。
それでも私たちは、私たちと同一の自身、つまり引きこもりを抱える家族の側、言い換えれば、引きこもりという理解し得ない他者に相対する私たちの中の、加害者という側面から目を背けてはいけないと思うのです。
もう一つ、記事を引きます。

Ailand gate(体験談)

つい昨日のことです。
知り合いがすごい形相で怒っているところを見たという友人が私に言うのです。
やだ、近づかないようにしようね、怖い怖い。

こういう日常会話、たまにありますよね。
でもその会話に参加しながら私は、自分の心臓がおかしな形の刃物にブスリと貫かれる感覚を覚えてゾッとします。


誰しもが自分を、正常な人間、その他大勢の側に入る一般的な人間だと思っています。
しかし誰かから突然お前はアウトロー側だ、異端者だとジャッジされるという思いを、どれほどの人が経験したことがあるでしょうか。
こっち側にいるのが正常な人、あっち側にいるのがヤバイ人。
この境界線は、生きて人間関係を紡いでいれば確かに感じるものです。
「あの人には近づかないほうがいい」
この感覚は、無傷で社会を渡っていくのに必要な感覚かもしれません。
でも、その境界ラインを決めているのは誰なのでしょうか?
私が聞きたいのは、あなたは自分がこちら側の人間だと、どうして確信できるのですか?ということです。
ある日突然、誰かからあっち側の人間だとレッテルを貼られ、境界から押し出される。
私たちはいつだって、この壮絶な恐怖と、隣り合わせにいます。
明日「あなたは頭がおかしいよ、近づかないようにするね」とジャッジされるのは、あなたかもしれないし、私かもしれません。

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実は私は最近、一つの、共依存関係から抜け出すことに成功しました。
私にとってこれは、お気に入りのシャツに出来たシミのように長くずっと心を悩ませてきた問題でしたから「抜けた!」と実感できたときはもう、ものすごい達成感がありました。


しかし、私がお世話になっている心理療法士の先生はこの相手を、”ダミー”という言葉で表現します。本丸は別にいて、もっと心の奥深くに隠れているからです。
まあ、”ダミー”と言われてしまうと、どんなに苦しい現実に直面していても、これは現実じゃなくてただの夢だよ、と言われているような気がして少し気が楽になります。
そして実は私たちは、いくつもいくつもこのダミーを抱えているのだそうです。
本丸、トラウマにたどり着くまで。
そして目の前のダミーを少しずつクリアしていくことによって、もっと深い、全く太刀打ちできなかった大ボス(トラウマ)と対峙するための力を身につけていくのです。
例えば、CP9と闘って新たな力を得たルフィーだからこそドフラミンゴとも戦えるようになり、ドフラミンゴとやりあったからこそカイドウとも戦える、みたいな感じです。


自分の加害者性を認めると言うのは、とても勇気のいることです。
私たちには、この心の傷を罰するのではなく、ケアする、癒す、という選択肢が残されています。
なぜ彼らは、そして私たちは、加害者になってしまうのか。
元農水次官の殺された引きこもりの息子さんが加害者であり被害者なら、精神的に追い詰めた側面があったかもしれないその家族もまた、加害者であり被害者です。
ここに、引きこもりのような深刻な問題を抱えている人にも示せる、希望があるのではないかと私は考えています。


相手をなんとかしよう、ではなくて、もしも私たちが己の傷と対峙する勇気を持ったら。
そう考えると、メンタルケアには、未来への大きな希望が詰まっている気がします。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

grenleeed


Albert Einstein 娘に宛てた最後の手紙(真偽不明)

私が相対性理論を提案したとき、
ごく少数の者しか私を理解しなかったが、
私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、
世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。

必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを
社会が受け容れられるほど進歩するまで、
お前にこの手紙を守ってもらいたい。


現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、
ある極めて強力な力がある。

それは他のすべてを含み、かつ支配する力であり、
宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、
しかも私たちによってまだ特定されていない。

この宇宙的な力は「愛」だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、
彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。


愛は光だ。

それは愛を与え、かつ受け取る者を啓発する。


愛は引力だ。

なぜなら、
ある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。


愛は力だ。

なぜなら、
それは私たちが持つ最善のものを増殖させ、
人類が盲目の身勝手さの中で絶滅するのを許さないからだ。


愛は展開し、開示する。

愛のために私たちは生き、また死ぬ。

愛は神であり、神は愛だ。


この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。

これこそが、私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。

それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを
学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、
私たちが愛を恐れているからだろう。


愛に視認性を与えるため、
私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。

「E=mc²」の代わりに、私たちは次のことを承認する。

※ E=mc²:エネルギー(E)= 質量(m)× 光の速度(c)の2乗
  アインシュタインが発表した特殊相対性理論の方程式。


世界を癒すエネルギーは、
光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、
愛には限界がないため、
愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に
人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで
自分たちを養うのは急を要する。


もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、
もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、
もし私たちがこの世界と
そこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、
愛こそが唯一のその答えだ。


恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと
身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、
愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分の中に小さな、
しかし強力な愛の発電機を持っており、
そのエネルギーは解放されるのを待っている。


私たちがこの宇宙的エネルギーを与え、
かつ受け取ることを学ぶとき、
愛しいリーゼル、
私たちは、愛がすべてに打ち勝ち、
愛には何もかもすべてを超越する能力があることを
確信しているだろう。

なぜなら、愛こそが生命の神髄だからだ。


私は自分のハートの中にあるものを
表現できなかったことを深く悔やんでおり、
それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。

恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、
私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに
到達したことを、お前に告げる必要があるのだ。


お前の父 アルベルト・アインシュタイン



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