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水面に写るあれは。

こんなことを、noteに書いて、本当に大丈夫なんだろうか。
今も体が震えている。

昨日、親に絶縁された。


きっかけは、あるYouTubeの動画に、コメントを書いたこと。
そのYouTuberの方の配信が以前から好きで、時々感動するとコメントを書いていた。
その際に私が使った、家族にしか言ってないある独特の単語と私のハンドルネームから、母はその書き込み主が自分の娘なのではないかと疑って、ずっと追いかけていたらしい。

私はSNSに自分の名前を使わない。
いつでも、いつかこういうことになるのが、怖いからだ。

母はそこに、娘と思しき陰謀論者が、
「わかる人と分からない人は、はっきりと分かれてしまった。分からない人はもうどんどんおいて、新しい時代にいくしかない」
というコメントを書き込むのを見た。
わかる人=娘、分からない人=自分。
陰謀論に狂った娘が、頭がおかしくなって自分のことを置き去りにするつもりだ。
ショックのあまり瞬間、自分と同年代の怪しいYouTuberになんか肩入れして、その人に自分の悪口を吹聴している、
というストーリーが頭の中で出来上がってしまったらしい。

で、このハンドルネームで書き込みしているのはお前だろう、
お前は自分がその配信者の方や、そこに書き込みをしている人たちに、どれほど不快感を与えているのわかっているのか、
少しは態度を改めろ、というものすごいメールがきた。

私はもう何年も、カウンセリングに通っている。
カウンセリングに通うということは、ただ優しい先生に日頃の愚痴を聞いてもらうのとは違う。
カウンセリングを続け自身の治癒が進めばこうやって、今まで目をそらしていた自分の中の矛盾、ギリギリのこらえていた歪んだ現実が噴出する。
強制的にそれと向き合わなければならないターンが、繰り返しやって来る。

確かにメールを見た瞬間は震え上がったけれど、私は少し、嬉しかった。
だって頑張っても頑張っても、凪のような時間だけが過ぎていく。気持ちは焦るが進めない。
誰かがこうやって私に何かをけしかけてくれて初めて、本当の治癒がまた一段階進むのだ。
確かに苦しい。地獄のようだ。しかしバッターボックスがいつまでも回ってこない時間もまた、苦しいことに変わりない。
私をこんな状態に陥れたのは母だが、私自身を治癒するために、私の強烈な思いを受け止める役を引き受けるのもまた母だ。
私は今までの思いを、渾身の力を込めて送った。
もはや反論するすべなどないほど、コテンパンに。

私の兄は、10人が聞けば10人が黙るような立場のある人間だ。
立場上、職域接種を実施し、たくさんの人にワクチンを打たせることに加担し、自分自身も接種した。
兄はなぜこんな選択をしたのか。
それは、私がされたのと同じように、兄もそのような人間になるよう親から虐待されて育ったからだ。
どんなに止めても止まらない社会的な接種を見ていて、私のような陰謀論者は皆、出来れば、ワクチンが有毒であることなど妄想であって欲しいと願ったはずだ。
陰謀論者が騙されただけだった、杞憂だった、と言う結論になって欲しかった。
しかし接種が8割を超えた今、薬害はひたひたと明らかになりつつあり、人口動態統計の死者数は不気味な上昇線を描いている。
これが今後、どのようなことになるのか。

私が「わからない人はどんどん置いていくしかない」と書いたのは、
分かる人だけで生き残って、新しい時代を楽しく生きよう!という意味じゃない。
コロナは存在しない、という人もいる。そうかも知れない。
だけどじゃあ、発熱して辛い症状になるあれは一体何なのか。
そしてあのワクチンには一体何が入っていて、コロナの感染拡大を防止する効果がないばかりか、有害事象が出る人がいる、たとえ少数でも、苦しんでいるその人たちからそれを取り除くにはどうしたらいいのか。
こんなものを世界中に打たせている目的は、一体何なのか。誰の意思なのか。
もしかしたらもうすぐ、助けてくれと手を伸ばしてくる人が、医療も科学も何もわからない私のような人間にすら、目の前に現れるかも知れないのだ。
もう、推ワクと反ワクに別れて、SNSで罵り合ってる、そんなフェーズは超えている。
だから、わからないことばかりだからこそ、気がついている人間はとっとと先に行って、本当は何が起こっているのか、問題があるならそれをどうすればいいのか、それを探さなくては、って言ってるのだ。
兄を、みんなを、子供たちを、助けたいから。
だけどそこに至るまでには、兄はもちろん、私の両親も、すべての人が、自分の間違いを認めなくてはいけなくなる。自分が馬鹿だったことを。騙されていたことを。加害者に加担していたことを。その、弱さを。
母についていえば、自分では一生懸命子供を幸せにするために子育てをしてきたと満足し総括してきた全てが、実はストレス発散のただの虐待だったと、認めなくてはいけなくなる。
その醜悪な本性を、暴かれることになる。
今まで築いてきた価値が、一瞬にして崩壊するのを、突きつけらることになる。


「親子の縁を切る」という短絡的な結論が、本心でないことなど容易にわかっている。
しかし向こうがそう言うならば私も、本気で覚悟を決めなければ、と思った。
これで私は、天涯孤独の身になる。

私は、離婚したくてもう5年間も口を聞いていない夫に、おずおずと話がしたいと申し出た。
陰謀論者の端くれとして、私は今後、この世界がどうなっていくと考えているのかということ。
どのような矛盾と、全ての人がこれから向き合わなければならなくなると考えているのかということ。
母との会話。幼少期からの思い。
そしてこのたび絶縁されることになり、書類上の手続きも進める、と言われたので、今後何かご迷惑をおかけすることがあるかもしれませんがすみません、と話した。
どんな迷惑をかけることになるのかは知らない。
少なくとも夫にも関係するかもしれなかった遺産相続はもらえないし、何かの手続きの時には、何か煩雑になることもあるのかも知れない。
親から戸籍を抜かれた人間が離婚したら、親の旧姓に戻ることは出来ないし、どうなるのだろう。家を借りることは?クレジットカードを作ることは?
私は苗字のない、宙ぶらりんの宇宙人みたいな人間になるのだろうか。

子供の頃からずっと、この世界は何かがおかしいと思ってきた。
例えば、ランドセル。
あんなに硬くて重くて不恰好なカバンを小さな1年生の子供にまで背負わせて使わせる理由は、その頑強なカバンを、壊さず6年間使い通すためだと言う。
最近の子供は、5、6年生にもなれば背の小さい私なんかより背が高くなる体躯のいい子がたくさんいる。
なぜあんな体の小さな時に使っていたのと同じカバンを、6年使い通すことにこだわらなくてはいけないのだろう。
どうしてそれぞれが好きなカバンじゃ、いけないのだろう。
私は小学生の時、あまりにランドセルに頭にきて、引越しをきっかけに壊れたと嘘をついて、それを捨ててしまったことがある。
だから今でも、被災した場所から逃げ出す戦時中の母親のように、重たそうなランドセルの上からさらに右からも左からも✖︎にクロスした大荷物を抱えて夏休みに入っていく小さな子を見るたびに、
窮屈そうに恥ずかしそうに、小さなランドセルに肩を押し込んで背負っている大人顔負けの大きな小学生を見るたびに、
きゅうと、気の毒な気持ちがこみ上げて苦しくなる。
わかっている。
私のような意見は少数派。少数派は、少数派であると言うだけで頭のおかしい人になり、社会の不適合者になってしまう。
だけど私は、自分の言っていることが間違っているとはどうしても思えない。

経緯を説明し、絶縁すると言われたというと、夫は静かに「脅迫だね」と言った。
反論があるなら家まで話しに来なさい、と言われたが、私はどうしても「申し訳ありませんでした自分が間違っていました」と頭を下げる気持ちにはなれない、自分が間違っているとはどうしても思えない、だから、
わかりました、書類上の手続きを進めてくださいと返事を書きたい、と伝えた。
夫は頷いて、それでいいよと言った。

母方の祖母が死んだ時、母が妙に明るく親戚のみんなと楽しく話しているのを見て、
「もう、おばあの顔は見てきたの?」と声をかけた。
すると母は急に子供のように顔をくしゃくしゃにして涙を浮かべた。
「見れないの」
甘えたような声で、母は言った。
祖母は自殺だった。
もう大往生と言える年齢だったし、病気もあったから、みんな心のどこかではほっとした反面、
じっとそこに留まれば発狂しそうなほどの罪悪感に、誰もが静かに包まれていた。
そこから逃げ出したくて、これでいいんだって繰り返し頭の中で唱えながら、敢えてみんなで明るく振る舞う。
なんだか奇妙な、お葬式だった。
母は、自分も死ぬときはその祖母と同じように死にたいのだと言う。
病気になったりボケたりして子供に迷惑をかけたくないから、その時が来たら、祖母のやり方を習って死ぬのだと、
孫や子供たちが集まった楽しい席で、そう話した。
私は母への返事でそのことに触れ、今度またあんな話を子供たちにまでしたら、その時は容赦しない、よく覚えておけよ、クソババア、と言った。

「そういうことを親に言われたとき、普通の人はどう感じるんですか」と私は夫に尋ねた。
そりゃあみんなに迷惑かけないで死ぬほうが偉いですよね、ぜひ頑張ってください、って、そう言うの?と。
本当に親が精一杯楽しく人生を頑張って生きて、納得して天寿を全うしたのなら、子供は、
「頑張ったね、偉かったね、ありがとうね」って労って、親の顔を撫でてあげられるんじゃないのか。
あんな小さな子供のように娘の私に助けを求め、親の死に顔も見に行かれないのはなぜなのか。
自分でも認められないほどの強烈な罪悪感に苛まれているくせに、それをまた孫にまで植え付けようとする。
私はそれが、どうしても許せなかった。

私は前世で、母に自殺されている。
その時も私の母親は今の母で、父親は今の、夫だった。
自分の母と自分の夫が夫婦だなんて、気持ち悪いことこの上ないが、前世を追体験するとそれが何の違和感もなく理解できるようになる。
そして現世での二人の関係性が、妙に腑に落ちる。
その家は、親戚一同で大きな家業を営んでいた。
家族中がその仕事に追われていて、年長の子供である私は、小さい妹弟の世話から裏方の全ての家事を一手に任せられていた。
大好きだった人がいて、その人は、少し大人になった私をその家から救い出そうと、結婚相手として認めてもらうためにあらゆる努力をしてくれた。
でも、裏方の大黒柱、別の言い方をすれば、便利で有能な無料の奴隷である私を、親族が手放すことはなかった。
それで彼は、駆け落ちするしかないと言う結論になって、私を説得し二人で家を出た。
とても幸せだった。だけど、どんなに離れてももう二度と会わなくても、目の前の幸せよりも、頭の中から家族を犠牲にしてきた罪悪感が払えない。
しばらくして、恐怖はあっという間に現実のものになった。
母が、残してきた私の大切な妹たちを巻き込んで、無理心中したのだ。
私は親族に、無理やり家に引きずり戻された。
お前のやったことを見ろ。お前のせいで、お前が一人だけ幸せになろうとしたせいで、お母さんは死んだんだ。
ざまーみろとでも思っているか、この悪魔め。
もともとあった家業に加えて、私がいなくなった激務の穴埋めをしなくてはならなかったのが辛かったのか、それとも何かがあったのか。
家にいなかった私に、本当の原因はよくわからない。
だけど、私はそれ以来もう、大好きだった旦那さんになってくれた人のところには戻らなかった。どうしても、帰れなかった。
もっともっと不幸になるための生き方を探して、贖罪のために修道院に入り、神様とだけ話し祈り、出来るだけ孤独に、出来るだけ不幸に、出来るだけ身体を壊して早く死ぬために生きた。
美味しそうなトマト一つ買うのも苦しいほどの罪悪感で、本当は何度も死にたいと思った。でも、私をこんなふうにした母と同じ場所には、どうしても行きたくなくて、自死を踏みとどまった。
心の中の疑問は、最後まで解消されなかった。
母や妹が死んだのは、私のせいなのか?
死んだ者たちの、夫であり父親だった父(夫)には何の責任もなくて、娘である私の責任なのか?
そして父(夫)が、こんなふうに成り果てた修道院にいる娘のところに会いに来ることは、ついになかった。

陰謀論に加えて前世の話まで始めれば流石に夫も混乱し、精神病院の予約を取り始めるかも知れない。
前世の話は端折ったが、私の話を黙って聞いていた夫は、うーん深く考えなかったけど、と前置きして、ポツンと、
「あなたの方が、愛が深いんだ」
と言った。
思わず何かが、喉の奥からこみ上げる。

実は、母からのメールを見て震え上がっていた時、ラインがきた。
先日、それもまたYouTubeで見つけたあるワークに参加してきたのだが、そこで同じチームになった人たちとラインを交換したのだ。
しばらく更新が途絶えていたそのグループラインに、まるで私の悲鳴に気がついてくれたように
「その後、皆さん頑張っていますか、どんな変化が起きたか、よかったら共有しましょう」
とラインが入った。
嬉しくて、一緒に頑張っている仲間がいる、って急に実感が湧いて、涙が出た。

さらに、母がストーキングしていた件のYouTuberの方が同じ日、なぜかこんな動画を投稿した。

不思議だ。
どうして何度もお話しされているこの話を、今日、また話そうと思われたのだろうか。
大事な娘を洗脳した、曰く付きの怪しいYouTuberの新着動画を、母も見たのか。
感謝のコメントを入れたかったけれど、それもまた母が見ていると思うと恐ろしくてとても書き込む気持ちにはなれなかった。
だけど、どうしてこんな不思議なことが起きるのかと、何か不思議な神仏に、救われたような気持ちになった。

どうしてだろう。
親に勘当されて天涯孤独の身になった途端、
今までどんなにあがいても叫んでもひとりぼっちだったのに、
突然何かがやって来たように、足元から小さな光がポツポツと光り始める。
夫にこんなふうに、するりと話が通じたのは初めてだった。
陰謀論の部分は確かに首を捻りたくなる部分もあるけど、あなたを社会の不適合者だと思ったことはない、と夫はいった。

私が今までの人生で一番辛かったことはなんだか、知ってますか。
ついでにずっと言いたかったことを、夫に言う。
途端に夫は、緊張で体を強張らせる。
ここで正解を外せば、今度こそ本当に離婚されてしまう。その緊張感が伝わる。
私は思わず笑って、どうせ知らないことぐらい知ってるから別に正解する期待なんかしてないよ、と言った。
私が一番辛かった事件があった日、家に帰ってきて思わずあなたにその話をした。その時、あなたは私にどんな心ない言葉を浴びせたか。
私は、一緒に生きている家族なら、そういう出来事をちゃんと共有してほしかった、と言った。

「それは本当に、申し訳なかった」

夫の謝罪は、私の深いところに浸透する。
ずっと拭えなかった夫に対する生理的嫌悪が、声を聞くだけで虫酸が走るようだった感覚が、少しだけ溶けていく。


子供たちにも経緯を話して、このようなことになり申し訳ありません、と謝罪した。
子供たちにとっては今後、大好きな従姉妹に会えなくなるのは大問題だ。
「えー、●ちゃんに、もう一生会えないの?」
不安そうに私を見上げる娘に、夫がすかさず、いやあ、それはないな、と呟く。
鋭い、さすが前世の夫。
あの強烈な母が、こんなことで諦めるはずがない。
案の定、絶縁宣言の4時間後には、母から電話がかかってきた。
この電話に出て、今までと同じように取り繕って仲直りすれば、子供達は今冬も無事に、大好きな従姉妹に会うことができる。
でも、私は電話を取らなかった。
留守電も入っていたけど、再生していない。
何が吹き込まれているのか。
罵詈雑言の続きか、謝罪か、それとも自殺してやるとかそんなことか。
内側からえもいわれぬ恐怖がせり上がってくる。
だけど、もう振り回されるのは疲れた。
生まれて初めてあの母親から解放されたのだ。
せめてあと数週間か数ヶ月、この感覚を、味わってみたい。

ずっと一人だった。
どんなに一人で戦っても抗っても叫んでも、父や兄が私の話に耳を傾け共感してくれることは一度もなかった。
今回、いよいよ親子の縁を切ろうという段になっても、父からは何の反応もない。
カウンセラーの先生には、悪目立ちしている方はダミーです、
大ボスは、優しそうな顔をして、その悪目立ちに隠れて悪目立ちをコントロールしている、と言われた。
悪目立ち、と言う呼び名には思わず爆笑したが、そうだろうなと今ならよく分かる。
何ヶ月後か、何年後かは分からないけれど、きっといつか、この父にも対峙する時がくる。
私はどんなに疲れていても、きっとまた立ち上がって戦うんだろう。
今度こそ、ここをすべて、乗り越え切るために。
前世で失敗した、リベンジを果たすために。
だから今は、つかの間の休息を。

天涯孤独とは、なんて軽いんだろう。
もう母の気に入るような洋服を着る必要もないし、母の気に入る化粧をする必要もない。
SNSに何を書こうが、どのような人生を選択しようが、離婚しようが路頭に迷おうが、私の自由だ。
24時間365日、頭の中に鳴り響く「母ならこう思うだろう」「こんなことをすれば母に何をいわれるだろう」
という呪いの思考に、怯えなくていい。

次は母はどんな手に出るだろう。
考えないようにしていても、ふと油断すると恐怖が内からせり上がる。
きっと次は自殺未遂だ。父方の祖母も、自分の叶えられない要求を押し通すために自殺未遂をした。
あるいは、夫を呼び出して、味方に引き入れようとするだろうか。
そっちの方が現実的にありそうだ。
私の絶縁に同意するメールを書きたい、と言う言葉に、「それでいいよ」と言ってくれた、一瞬ほんの少しだけ男らしく見えた夫も、あの母にかかれば催眠にかかったように一瞬で陥落してしまうだろう。
母はいつもそうやって、どうしても言い負かせない私をやりこめるために味方を集め、少数派は意見を慎め、と強引に抑え込もうとする。
わかっているのだ。
どちらが正しくてどちらが正しくないのか、このこだわりを手放さなければ、私はいつまでも母に怒らされ、母に執着させられ、このループを抜けられない。
みんなに陰謀論者になってほしいなんて思っていない。私と同じ真実に目覚めてほしいなんて思っていない。
みんなに私が正しかったと認めてほしいなんて思っていない。
だけど母に、お前は間違っているからその考えを正せとあらゆる言葉で罵倒されると、それを聞き流すのがこんなにも苦しいのはなぜなんだろう。
母が自殺をしようがワクチンを打とうが、兄がどんな人生を歩もうが、それはそれぞれの選択なのだ、自由なのだと、達観して悟ってしまうことができないのはなぜなんだろう。
嫌な想像が膨らみそうになる度、深呼吸して、何度も心の中で母にエールを送る。
頑張れ、頑張れ、頑張れ、今度こそこの苦しみを乗り越えろ、と。


今日は娘のお迎えの合間をぬって、大好きな公園に来た。
最近の東京は、お天気がいいと気温も高く、見たこともないような雲ひとつない快晴になる。
紅葉がきれいだ。

日本人は、古来からいつも美しいものを水に写す。
紅葉も、花火も、庭園も、そして富士山も。
どうして水の中に揺れる紅葉は、こんなに美しいのだろう。
水面の風景は、なぜか心の奥深くに染み入る日本人の原風景だ。
なぜ日本人は、水に写すのか。
美しいものをダイレクトに見るのは無粋であり、一度水に写してこそ、その本当の美しさがわかる。

もしかするとそれは、人間もそうなのかもしれない。
幼少期の親への恨みを、こんないい歳になってまでも執拗に手放さず、
いまだに優秀だった兄へのコンプレックスにまみれたお前は何と醜い子か。

私の言葉は、母にはこんなふうにしか届かない。
しかし、怒りに燃える母の眼に映る私は強く、その愛はかくも深い。
私はその水面に写る自分の姿を、ただじっと見つめる。

別に10人が10人、わかってくれなかったとしてもいい。
自分が少数派でも変人でも陰謀論者でも構わない。
私はこの、ややこしくて感じやすくて強すぎる自分を、持て余しながら試行錯誤しながら、生きていくしかないのだから。

生まれて初めて今、私はそんな自分を、「このままでも大丈夫」と思えるそのヒントの欠けらが、掴めそうな気がしている。




追記(28.11.22)
備忘録として。

前日の動画でお部屋から見える富士山の姿を映してくださったのにも感動したが、
この動画の後半で語られている、言語化するのではなく「抽象力」を使って思考する、というテクニックのお話。とても参考になる。

こうして私の好きなものを並べていくと、母にこのnoteも見つかったときに、また私のこころの支えを一網打尽に捕まえられて罵倒されそうで怖くなる。
だけど、載せずにいられない。このメッセージもまた、私の中の確信と、どうしようもないほどつながっている。

どうして自分と同じように苦しむ人に、ネットでしか出会うことができないのだろう。私の勇気が足りないからか。まだ声が小さいからか。
それでも、いつかきっとって、こうやって勇気を拾い集める。





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