見出し画像

洗脳オーケストラ。

YouTubeのカードリーディングが好きで、よくながらで聞いている。
先日もお気に入りの人のリーディングを聞いていたのだが、その方が突然、
「なんかあなた、なにかに洗脳されてませんか?陰謀論とか」
なんて言い出した。


ああ、この人も陰謀論なんて嘘だと思ってるんだな。それを、洗脳だと思うんだ。
具体的に彼女がどんなものを「陰謀論」と呼んでいるのかはわからないけれど、思わず動かしていた手を止めて画面を見つめた。
怒らないように。イラつかないように。深呼吸して自分の中の動揺を精査しながら彼女の言葉に耳を傾ける。
普段はキレキレのスピリチュアルな能力を発揮する彼女のリーディング。
頑張って聞いていたが、特に当たってないし途中で画面を閉じた。
そしてそっと、ずっと好きだった彼女のチャンネルの、登録を解除した。

以前は大好きでたまに買っていたパワーストーンのアクセサリーのお店でも、同じようなことがあった。
そこに所属しているヒーラーの方たちのストーンリーディングが秀逸で、それを聞くと急に小さな石の一つ一つが愛おしく思えて、それをけっこう信頼してた。
しかし今年の初頭、急にお店のHPにpray for Ukraineなんてアイコンが立ち上がった。
売り上げの数パーセントをウクライナに寄付します、とある。

ほんとスピリチュアルって、どうしてこんなに嘘ばっかりなのだろう。
ウクライナで何が起きていて、ゼレンスキーが世界の同情を集めるに値する人物かなんて、その卓越したスピリチュアルな能力を使えば簡単に探知できるんではないのか。
この前久しぶりにそのお店のサイトを見に行ったら、何も言わずにそっと、pray for Ukraineアイコンが消えていた。
まだ戦争は継続中のようですけど、いいんですか。
ロシア側にだって、かわいそうな死を遂げた方はたくさんいますけど、その方達には寄付しないんですか。
哲学なんてない、ふにゃふにゃで綺麗事ばっかりの偽善者たち。
そういうの、恥ずかしくないのかなって、どうしても怒りが湧いてしまう。


かくいう、私がこのnoteで度々触れてきた信頼しているカウンセラーの先生も実は、カウンセリングに伺うと未だにマスクして、私との間にプラスチックフィルムの衝立を置く。
どうして真性のエンパスで、集合意識のその奥まで読み取る卓越した能力の先生が、こんな簡単な茶番が見抜けないのだろう。
その事が、本当はずっと苦しかった。
わかっている人にはわかっている事だが、もう現状はそんな段階をとうに超えている。
あとはこれから出てくる情報に、ひたすらみんなでサンドバッグのように打たれてボコボコにされて耐えるのみ。
もう事態はそんなところまで逼迫してると、私は思う。

マドモワゼル・愛
「冬至にちなんだお話し」

この冬至の大きな意味とは。
占星術の星の上では、切り捨てるものは切り捨て、「すみませんが、私はお先に行かせていただきます」と気持ちの上でしっかりとケリをつけた人だけがこれからの幸運を享受できる時代に入ったと読める。
問題は、今このタイミングで一人一人が、精神的な切り替えを終えているかどうかだ。

藤原直哉
「立て分けは、かなり進んだ」

これから天国に行く人と地獄に行く人が別れる、という天の啓示は特定の宗教に伝わるものではない。
今回の選別は人類史上最大の、まさに「精神の立て分け」が行われていたと言えるのではないか。ここ数年起こっていた奇妙な出来事は、「悪」が喜ぶバブルを作って私たち一人一人の中にある悪を炙り出す大舞台だった。
しかしすでにバブルの崩壊は起こっている。ここ乗り越えたあとは、いよいよ選別を乗り越えた、明るく温かい心の人たちによる世界の再興が始まる。


これから陰謀論と言われていた事の真実が暴かれて行き、コロナの嘘やウクライナでのマネロンや生物兵器工場のことが出て来たら、
全て分かった上でうまく立ち回り金儲けしていた悪人どもは言わずもがな、
偉そうに自分の能力を誇ってた政治アナリストやら医療関係者やらスピ界の方たちは、どうするのかな。
どうするつもりなのよね。
どうしても湧き上がって来てしまう怒りがあって、
それについて考えているとぐるぐる思考が巡って、つい頭頂部が熱くなる。

先日、両親から絶縁状を叩きつけられたのだが、私の怒りは親に対しても、まるで何かをなぞるようにぴったり同じだ。
コロナについてもメールで何度も話したし、ウクライナについても自分なりに精一杯解説したつもりだ。
けれども彼らはそれを、陰謀論でしょ、で片付けてしまう。どうやっても届かない。


絶縁に至るまで親といろんな話をした中で、
「お前はこちらが何か言うと急に黙り込んでしまって、本心を言わない」
と言われた。
私ってそんなふうに見えていたんだって、少し意外な気がした。
だけど言われてみると、そうだったかもしれない。
頭が真っ白になって、今、何を話していたのか、何を言われていて今、なんと反論しようとしていたのか、ダルマ落としのダルマが突然、足元をスコンと抜かれて華麗に一段落っこちたように、急に記憶が飛んで分からなくなることがある。
それが心理学用語でいう「乖離」という現象なのだと、カウンセリングに通うようになって初めて知った。
心のキャパを超えるショックを経験すると、心はその瞬間、自動的に防衛反応を起こして感情と思考を分離させる。多くの人は、自分にその瞬間何かが起こったとは気がつかない。しかし後から考えると「あの瞬間、頭が真っ白になった」という微かな感覚だけが残る。

「乖離グセがついてますね」と、カウンセラーの先生にも言われた。乖離グセなんて脱臼みたいだが、これもこの数年、先生にケアしてもらっている部分だ。


大昔、大学入試のときに、私の時代は論文入試という選択肢があって、論文入試用の特別クラスがあった。
そのクラスの予備校講師が大変な人気で、いつの間にかその先生を慕う学生たちの間で連帯感ができて、仲良しのグループが出来た。
みんなで合宿なんかしたりして、先生の紹介してくれた本を読んだりアーティストを見たり、何か今まで見たことのない世界に心酔して行った。
アートの世界に没頭して、あちこちの美術館の特別展に通いまくるようになったのもあの頃だ。
なにかを一生懸命、掴みかけてた。もう少しで出口が見えそうな、初めての感覚。
だけどあるときなぜかそれが親の逆鱗に触れて、「お前は洗脳されてる」ってその先生もその世界も仲間も全否定、全部ぶち壊されてしまった。
あの頃のことはよく覚えてない。
多分、あの時も乖離していたんだと思う。

洗脳されてるのはどちらなのか、という争いに、今に至ってもあちこちで引っ張りこまれループにハマるのは、きっとこの心の傷に帰結している。
今回親が絶縁を言い出したのも、私が匿名でSNSに書き込んでいるコメントを無理やり探し出して、突然、「このハンドルネームはお前だろう、お前は洗脳されている」と絡んできたことがきっかけだった。

やっとたどり着いた自分の安息の地を、土足で踏み込んできて全否定され引き倒される。
自分の根幹はぐちゃぐちゃになって、信じれるものがなくなって孤独になって、急に全てが怖くなって立っていられなくなる。
今ならわかるのだ。そこには親の愛情なんて本当は欠片もなくて、ただ私を自分たちの都合のいい状態に縛り付けておく、自分たちにとって便利なカタチに当て込めておくためにやってただけなのだって。
それを彼らに指摘しても、絶対に理解できない。
本人たちは、娘の幸せのために、娘が間違った道に進まないために、愛情ゆえにやってやってるんだという鉄壁の殻の中から、絶対に出てこない。
間違った道、って一体なに?
認めたくないのだ。
だからどんなに話しても通じない。

予備校での仲間たちとの居場所を失ったあと、みんなと話し感じたことなんかを折々に書き込んでいた、分厚いピンク色のキャンパスノートだけが手元に残された。どんなに荷物が重い日も、家に置いておいてまた母に見つかるのが心配で、どこにいくのも常にそれを持ち歩いていた。
そのノートにびっしりと、自分の好きなアート作品や芸術家の、どんな学説にも属さない、自分なりの拙い分析を書き連ねていった。
ピカソのゲルニカに始まって、モネクレークリムトマークロスコからレンブラントフェルメールに行って、マグリットダリから今度はシュールレアリズムへ。
そこからマルセルデュシャンに発狂して、糸を辿るように次は彫刻に夢中になり、ギュスターブモローから教会美術、聖書を題材にしたアートに時代を遡ってはまっていって…

ターナーは、あんなに美しい、写真をも超えてしまうような緻密で神秘的な描写力を捨ててまで創り上げた新たな世界に、何を探し求めていたんだろう。
いろんな美術館に行ってはお土産のポストカードを買い集め、キャンパスのノートに一枚一枚コレクションした。
そこに、どこにも公開するつもりのない、中二病な哲学を並べていく。
それがいつか、まるで自分の心の臓と連結しているかのような、唯一無二の宝物になった。
大抵が孤独な人生を送る画家という人種の孤高の人生に、自分の苦しさを重ねては、何か答えのようなものを探してそれを言語化しようともがいていた。

モンドリアンの若い頃の作品は、枯れそうな花も水車も女性も、描写するものをいつも斜め三十度くらい下から描く。
彼があらゆる物質の、斜め三十度下から見た造形の美しさに魅了されていたのは確かなように思えるのに、
それがあのたどり着いた白いキャンパスに黒い線の境地の、どこに集約されたのだろう。

一緒に美術館に行った当時の彼氏にそんなことを夢中で話したら、
「アートを見ながらそういう蘊蓄をどうこう話すの、自分は好きじゃないんだよね」
と言われた。
で、また開きかけたノートを、自分の心を、パタンと閉じる。
あのノート、そういえばどうしただろう。
重なる引越しのどこかで捨ててしまったのだろうか。
だけど、あのページを開いたときの質感や自分の書きなぐった文字を思い出すと、今でも悲しくて心臓がチクチクする。

この数年、陰謀論にはまって調べまくっていた。
それでも、自分以外の羊たちを起こさなければと義憤に駆られてSNSで発信して、辛辣な言葉で世の中の是を問う活動に飛び込んでみたり、
デモに参加したり、マスクしてくださいって言われることに対していちいち反論して喧嘩売ったり、子供の学校に電凸したりしなかったのは、
この数年で急速に有名になっていったインフルエンサーの方達のような能力が自分にはなかったせいも大きいけれど、
やっぱり件のカウンセラーの先生の言葉に、どうしても反論することができなかったからなのだと思う。

マスクをするのもしないのも、自由。
ワクチン打つのも打たないのも、自由。
その境界を犯すのは、相手をコントロールしようとしていること。


自分が正しい情報を教えてあげることで、たとえ自分を罵った相手であっても相手を救ってやるんだという高尚な思い、世界を憂い思う熱い想いの裏にある、
どうしても否定し切ることの出来ない傲慢さ。
そういう立場の人間が、
「コロナの恐ろしさを教えてあげます、あなたは陰謀論に洗脳されていて頭がおかしくなっているからそれを正してあげます」という傲慢さと争っていても、
私たちはいつまでもこの、正しい正しくないの争いから抜けられない。
端くれの陰謀論者として言わせて貰えば、
この争いに巻き込んで私たちを三次元から抜けられなくすることこそ、為政者のもっと上にある巨大な黒幕の真の陰謀なんではないのか。
私自身のことで言えば、本当の心の傷はここにあるのに、それを見るのが恐ろしいから、目の前の人間関係が崩れていくのが苦しいから、
遠くの陰謀論で目をそらす、もっと簡単で怒りやすい相手に怒りや不安や恐怖を転化して、真の問題の解決から逃げようとする
しかしそれをやっている限り、私たちは閉じ込められたこのカゴから、出ることは出来ないのではないのか。
それこそが、この時代に用意された壮大な罠なのではないのか。

数年前に少しずつ自分の前世を知るようになってから、私の世界観は少し、変わってしまったのだと思う。
全ては経験なんだと、人生を、他者を、だいぶ俯瞰して見る癖がついた。
幸せになろうが、不幸せになろうが、
何を幸せと感じ、何を不幸と感じようが

幸せのカタチは一見すると正解のアウトラインがあるように見えて、実は外側からは誰にも決められない。

マスクをするしない、ワクチンを打つ打たない、その対立の苦しさから、正しさを押し付け合う樽の中から、少しずつ抜けられるようになった。
幸せのカタチが、世界共通、画一的なものであるはずがない。

先日、あと数週間しか生きられないと余命宣告を受けた方のツイートを見かけた。
小さなお子さんもいるらしく、あちこちに激しい痛みもあるようだ。きっと苦しいし辛いし、その方や家族の状況を想像すると胸が押しつぶされそうになる。
しかし、その方が療養中の病院に一時帰宅を直訴して、大好きな家族や駆けつけた友人たちに囲まれて、限られた、しかし幸せな時間を過ごしているのを見て、
私はそれを、本気で羨ましいと思った。
いつかは誰もが寿命を終える。
だが人生の意味とは長さだろうか。健康だろうか。稼いだお金の額だろうか。名誉だろうか。感謝された数だろうか。
自分の意思を貫いて家に帰り、家族や仲間に真剣に応援され、抱きしめられ、愛情を感じたその人の時間はきっといつか本当に天国に帰る日に、素晴らしいお土産になる。
魂が抜けて、自分の身体を天井から眺めるとき、その深い深い意味がきっと分かる。
これはなんていい人生だったんだろう。自分はなんて凄いことを成したんだろう。って、その人はきっと感謝と感動で涙が止まらなくなる。
それが容易に、想像できたからだ。
それは、自分の死を体験したことがある人ならば、きっとわかる。

おそらく第一次大戦頃のドイツだと思うのだが、私には、忘れられない前世がある。
極限に張り詰めた閉塞感と緊張感の中、誰もが自由に人生を生きることなんてままならなかった時代。
そこで私は、どこか片田舎の小都市に生まれたのだが、もともと裕福ではなかった家庭は戦火が広がるに従ってみるみる明日生きるか死ぬかの状態に傾いた。
私の住む町よりさらに田舎にある、由緒だけは正しい小さな貴族のような家があり、ある時、その家で奇跡的に徴兵を免れた男性と私に、縁談が降ってわいた。
そこはほとんど没落した名家だったが、それでもそのかすかな財産や土地にすがってその縁談に乗らなければもう、父も後妻も、後に残った弟たちもみんな、すでに立ち行かないところまで追い詰められていた。
微妙なラインではあるが、一応、玉の輿だ。
私は歯を食いしばって、私を小馬鹿にしきっているその男性に気に入られるよう努力し、周囲に言われるままその家に嫁いだ。
何をどんな風に頑張ったのかは全く覚えていないけれど、私の内助の功もあって徐々にその家は再興し、最終的に家柄という体裁を取り戻した。
その人生では結構、私は長生きをした。


死んだら天国にお金は持っていけない、なんて言うが、それは本当は物理的な意味で言われているのではないと思う。
いよいよ私の死が迫ったとき、この家に多大な貢献をした大祖母様の最後の看取りをしようと、子や孫やひ孫のような小さな子も、
堅苦しい衣装を着て私のベッドの周りに集まっていた。

静かに息を引き取り、死んで魂となり、天井から、大仰に飾り立てたベッドに寝ている老いて疲れきった自分の姿を眺める。
我が身を犠牲にして大切にして来たたくさんの家族に囲まれた、絵に描いたような優等生だった自分の人生の終焉を眺める。

生きている間は、これさえなくなれば自分は幸せになれるのにと思っていた悩みも怒りも、命よりも大切に思っているはずだった家族も、これだけは失いたくないと握りしめてたはずのものも、
死んだ途端、全てがウソのように融解し、昇華され、自分の中からほろほろと剥がれ落ちていく。
煙の彼方にいとも簡単に、今世でのただの設定として、意味を失って消えていく。

病気も怪我も事件もなく、ただ漫然と長生きすることが、人も羨む金持ちになることが、なんとか神様の力を借りて強運を身につけ生きることが、
ものすごい努力をして現世的な地位や名誉をえることが、そんなものが人生の最重要課題だなんて考えるのはまさに洗脳。
本当の命の価値は、そういう大きな流れのひだの中にこそある。

削ぎ落とされ、極限までシンプルになった自分の中に最後に残るのは、魂の本当の奥底のコア、核にあったもの。

私がその人生で天国に持ち帰れたものは、もう忘れかけていた、たった一冊のスクラップブックだけだった。

戦時中、当然ヨーロッパのあちこちで同時進行的に様々な戦闘があったわけだが、その中に、一時、一部の民衆たちを熱狂させた少数精鋭の部隊があった。
国を勝利に導くために、軍部は地図を睨み、絶対に落とせない激戦地にかける戦闘人数や武器の数、相手の戦闘能力と持久力、様々な分析を持って対局を見ている。
しかし前線で実際の戦闘に従事している人たちの見ている景色は、それとは違う。軍が見捨てる事やむなしと判断した小さな集落、負傷して助けを求める仲間の部隊。それを目の前で踏み越えて軍の指示に従っていくことは、
命をかけて国のために戦っている兵士にとって、地獄のような葛藤だ。

その少数精鋭部隊の彼らは、何か特別な訓練を受けた人たちのようだった。
軍の苦渋の決断に逆らって、圧倒的不利な局面を、短期間で、頭脳とアイディアと強靭な強さを持ってひっくり返してしまう。お国のために犠牲になるはずだった人たちを、鮮やかに助け出してしまう。
少しずつ彼らの驚くような活躍が小さく新聞に取り上げられるようになり、
私は田舎のお屋敷に閉じ込められた奥様をこなしながら、密かに彼らに熱狂した。
少数であるがゆえに、戦場での彼ら一人一人の個性や特性や活躍が、小さな新聞記事に詳報される。
私にはその中でも一人、どうしようもなく憧れの気持ちを抑えられない人がいて、その人の記事や写真を少しでも集めて、家族に隠れてスクラップしていた。
もし見つかれば、そんな危険な人たちに肩入れするなど、
「気が狂ってる、洗脳されてる」
とでも言われてスクラップブックなんてあっという間に破棄されていただろう。

そんな状況にあっても、彼らの生き様、チーム同士の信頼、勇気や信念、その活躍ぶりや精神性の高さに対する憧れの気持ちは止められなかった。
あんな風に、自分もなりたかった。そんな風に生きてみたかった。

大局から見れば、彼らの存在ははどうしても各地の激戦地区に必要な戦闘力。
しかし「どこどこの部隊に合流せよ」と言う命令にのらりくらり逆らっては現場の信念を貫き通してしまう彼らが、軍のお咎めを受けないわけがない。
とうとう彼らに、前線から戻って大都市にある軍本部に説明に来るようにと、命令が下ったというニュースが流れた。
軍部にとっては、鼻を明かされた以外のなにものでもない。
せっかくの精鋭部隊の解散は免れないだろう、あるいはそれ以上のどんな仕打ちが待っているか。様々な憶測が流れた。
自然発生的に大衆の中から、軍本部に帰還する彼らの花道を作ろうと、なけなしの道具を集めたパレードが計画された。
軍部なんて誰だって逆らうのは怖い。それでも彼らのために「大衆は彼らを支持している」その思いをどうしても伝えずにはいられなかったのだ。
これから彼らはどんな不遇な目に逢うのか。せめて、私たちはあなた方がやってくれたことに感謝していると、パレードで彼らを送り出したかった。

私は、その大都会で行われるパレードに、どうしても行きたかった。
それは当時の私にとっては、天地がひっくり返るほどぶっ飛んだ考えだった。
右も左も分からない田舎の小金持ちの女なんて、明日のパンにも困るような荒廃した都会の人たちから見れば、まさにカモがネギ背負って歩いてくる格好の餌でしかない。
唯一信頼できる女中さんの一人と相談し、なるべく簡素で都会で浮かない服を用意してもらい、家族に巧妙な嘘をついて準備し、
とうとうその女中さんと二人で小旅行、人生の大冒険に出発した。
初めて、人生のレールに真っ向から逆らった。
吹けば飛ぶような、誰かに誇るのも恥ずかしいような小さな信念、しかし私のその人生の中で、それが唯一最大の、精一杯の反逆だった。


パレードは思ったよりも大きく、おそらくこんな歓待を受けると思っていなかった彼らは気恥ずかしそうに馬に乗せられて、軍本部までの大通りを歩いていた。
私は自分の推しがいつ目の前を通るのか、ドキドキしながら必死に首を伸ばしていた。
もし彼が通りの反対側に行ってしまったら、せっかく苦労してここまでやってきたのに、馬に乗っている後頭部しか見えないかも知れない。
それでもその精鋭部隊全てに、みんなに混じって大声で叫んで、興奮する民衆に何度も押しつぶされそうになりながら必死で手を叩いた。
自分は、花道をゆく彼らには遠く及ばなくとも、軍や家族や時代の与える恐怖に負けずに、勇気を出してこうしてここに立ったのだ。
彼らに一歩でも近づいたと思うと、胸がはち切れそうだった。
ピンボケ写真でしか見たことのないその人が馬に乗って現れた時、私はそれが彼だとすぐにわかった。
運良く私のいる側を通ったその人と、涙を流して腰が抜けそうになりながら叫んでいる私と、一瞬、目があった。
もう、その場で気絶するほどの嬉しさだった。
来てよかった、来てよかった、来てよかった、来て、よかったんだ。

死の瞬間よみがえるのは、そういう魂が揺さぶられた情動だ。
本当はなりたかった自分に、必死に手を伸ばした瞬間
その思いが詰まったスクラップブック。
天国に持っていけるのは、まさにそんな全身を震わせた魂の躍動だけ。

ああ、つまんない人生をやってしまった。せっかく一生懸命生きたのに。
肉体から抜け出た私は、そんな後悔の気持ちでいっぱいだった。


今はその前世が、そのことを腹の底から学ぶための人生だったんだと理解できる。それを来世の自分に教えるための人生。そのバトンを、今を生きる私はしっかり受け取って走らなきゃいけない。
類は友を呼ぶ
本当の自分を抑え込めて正しいに生きている限り、自分に嘘をついて生きている限り、本当に好きなものや本当に好きな人と、本当の意味で時間を共有することは許されないという、宇宙のルール
この世はなんと深く、神秘に溢れているのだろう。

もし今世で、また勇気を振り絞りきれなくてやり残すことがあっても、未練が残っても、願いが叶わなかったとしても、
ただこの不思議な魂の謎を、自分という人間を、
どこまでも深く探求し、
寿命が尽きるまで、出来るところまで精一杯やって、
逆らって怒って勇気を出して、走って走って走って、
それでもダメだったらまた来世の自分に向かって、
「気づけ」って叫んで叫んで叫んで、このバトンをつなぐまでだ。

最近、出会い系アプリをやって、恋愛に奮闘している女性たちのYoutubeを見つけた。恋愛のやり方なんて、自分はもう久しく忘れてしまった。
っていうかこんな難しいこと、自分はかつてどうやってやりこなしてたんだろう。賢く聡く、仕事をしながら美しく自分を保ち、髪を巻き、自炊しながら部屋や生き方を整え、友人の方がキレイだとかうまくやれているとか言いながら悩みながら、それでも友達とうまく付き合い、お金のやりくりして習い事もして。
私なんかよりもずっとシュシュシュシュ動けるアクロバットな彼女たちが、恋愛に悪戦苦闘し悩んで迷う姿を見ていると、
自分みたいな奇妙な人間が、よくこんな結婚なんか出来たよなって、改めて信じられない気持ちになる。
何回も、アプリで「いいかな?」と思える人に会いに行ってみて、いろんな危険を回避しながら相性を確かめて。
好きになれそうか、上手く行きそうか、真面目に結婚まで考えてくれそうな相手か、自分のことをどれくらい好きなのか。

誰かがやってるのを見て無責任に応援するのは楽しいけれど、もう一度自分があれをやるのは完全にムリだな、とドン引きしてしまう。
あるべきシアワセのカタチに向かって、自分を麗しい箱に押し込めて細工して生きる苦しさが、私にはもう二度と触れられない遠くの世界の出来事に見える。



誰でも、誰かと繋がりたい。
私のように、普通の人のようには生きれなかった、なのに何かを為せるわけでもない変人だって、何度傷ついて絶望しても、やっぱりそれは変わらない。
陰謀論の世界を知ったとき、発信しているそれぞれのインフルエンサーを中心にして、この不自由な世の中に、まるでアラームが鳴って雨後の筍が土から顔を出すみたいに、自分と似た感性の人が次々に浮き上がってくるのを見た。
今まで一体、どこにどうやって隠れてたのと、不思議な気持ちだった。
そしてその絶対数の少なさに、だから今までリアルに彼らと出会えなかったのだと妙な合点がいった。

のに、私は今、せっかく出来たこの居場所からもまた、背中を向けて出て行こうとしている。
ついこの間までは日々最先端の陰謀論の進捗を追っていなければ落ち着かなかったのに、いつの間にか大きな流れさえ信頼すればなんと言うことはないと、どんと構えられる自分がいることに気がついた。
命を左右するとかじりついていた時事刻々の情報が、私の時間からどんどん遠のいて行く。今ではそのほとんどが、ほんの瑣末なことにしか思えない。

そしてこのまま、陰謀論からも家族からも、悩みからも自己否定からも、怒りからも執着からもこだわりからも、握りしめていた大切なものからも、
あの死の瞬間のように簡単に、スーッと遠ざかっていくことは出来ないものだろうかと、思い始めている。

私は一人になろうとしているのか。それとも仲間を探しているのか。
そんな私の背中を、またあの乱暴な呪詛が追いかけてくる。

「お前は狂ってる。誰かに洗脳されている。
正しいのは多勢の私たちの方だ。ほら、いつものように可愛い奴隷になって。
意固地にならないで。今までお世話になった人にちゃんと感謝と恩返しするのが、まともな人間ってものだよ。さあ、こっちに戻っておいで」

中学受験をして、私が私立の中学に通うことになったとき、母は言った。
これからはあなたはレベルの違う人間関係の中で生きるのだから、公立の小学校なんかで知り合った子達とは、もう付き合ってはいけない。あんな子たちにいつまでも肩入れしていたら、あの子たちと同じ不良になって、社会の底辺を生きることになってしまう、と。
泣きながら母を何度も怒鳴りつけたけれど、分かってくれることはなかったし、父や他の家族はいつもの通りフルシカトで、別の視点からそのやりとりを諌めてくれることはなかった。
結局、昨日まで仲良しで卒業式でも何度も何度も別れを惜しんだ友人たちに、自分でお別れを言いにいった。「もう会えないんだ」って。
帰り道、自分がとても汚いものになったような気がした。

ワクチン接種が始まったときも、たしか世間では同じ論法が使われていた。
陰謀論なんかに引っかってワクチン未接種者になるのはみんな、低学歴で低所得層の人間だ。分かっている人はみんな、大切な人のため、周囲の人のためにワクチンを接種していますよ、と。

さあさあ、こちらの高級な棺桶に入って寿命まで安全な列車旅行をする方が得策ですよ。
みんなこの列車を選んでいますよ。もっともっと高級な列車を目指す方もいますよ。少なくとも今、この列車を逃したらもう、あなたは社会の除け者です。

一体、何回同じ手を使うんだろう。もしかしてバカなのかな。
悪魔にとって、自分が脅かした人間の恐怖心こそが最大の嗜好品だ。
私は鼻白んだ気持ちで彼らを眺める。
以前のように、そんな言い分に動揺して怒らされて乖離して自分軸を見失って、自分の意思とは反対の道を選ばされてしまっていた私は、もういない。

地球には、レムリアアトランティス時代といった太古の歴史というものがあるのだという。それらの時代に生きた記憶を持つ人たちというのが存在する。
真偽なんて私には分からないが、私の前世の記憶と同じように、覚えている人にとってみれば、思い出してしまったものはどうしようもないのだろう。
彼らの話をざっくりまとめると、レムリア、アトランティスは、ちょうど現代の私たちと同じように3次元世界から5次元世界への上昇を試み、その過程でなぜか滅んだ。
それがもしも歴史であるならば、私たちはそこからきっと、学ぶべきことがある。

 以前からフォローしているALAE PHOENICISさんという方が、最近、レムリア時代の記憶を持つという、ロビンカイザーさんの物語の翻訳を載せたのだが、その内容に、想像以上に引き込まれた。
その中で語られていたのは、最終的には、私たちの中で5次元に向かうと決めた全ての人が、この各々のトラウマにチャレンジしなくてはいけない、ということ。
レムリアが次元上昇に失敗したのは結局は、個々人がその怒りや、自分と違う意見の人を互いに改心せようとコントロールしようとする対立から抜けられなかったからなのだ、とロビンさんは語っていた。
思わず私は前のめりになり、堪らずその投稿にコメントを書き込んだ。

必死でワクチンの注意喚起をしている方たちを、社会が危うい方向に向かおうとしていることに警鐘を鳴らしている方々を、否定するつもりは毛頭ない。
誰よりも先んじてその場所にたどり着き、あえてその場所にとどまり、突出した能力を使って声を上げ続けている彼らに、私だって道の途中で何度励まされ、学び救われたかわからない。
これからきっと、彼らが積み上げた証拠や言論やコミュニティが、時代を前に動かす鍵になる。
人類の助けとなる。

しかし今の私には、彼らの貫いてきた信念に励まされること以外に、できることは何もない。
私にあるのはただ、恐怖も怒りも洗脳も振り払って削ぎ落とし、幼少期やそのもっと奥まで続いているかもしれないトラウマを解除し、極限までシンプルになった自分の魂の底には何があるのかを、知りたいという個人的な欲求だけだ。
私はどうしても、思い出したいのだ。
自分の中に眠る嘘のない真実を、私は見たくてたまらない。
その真実と、本当に一緒に生きていける人に、話の通じる誰かに、出会いたくてたまらない。

そしてそれに従って生きたとき初めて、私にも自分に出来る何かが見えてくるのではないか。彼らに恩返しできるほどの何かがもし私に出来るとしてそれは、唯一そこにたどり着いたときだけなんじゃないのか。

私のコメントに対して、ALAEさんから丁寧な返信がついた。
彼女の文章を私の書いた駄文に並べるのは、本当は恥ずかしいことこの上ないのだが、ご本人の許可をいただいたのでここに引用する。

まさに、そうだと思います。
注意をそらされている、とよく言われていますが、何から目を逸らされているのか?
本当に見つめるべきことは何なのか?ですよね。
時事ネタを追うことも、エレナ•ダナーンの「闇側はもう倒れている、良い世界が来る」とか、
サイモン•パークスたちの「QFSはもう裏で構築されている」といったポジティブな予告を追うことも、
実はどれも「自分自身」から注意を逸しているという点で、「同等」であることに気づいたのです。

私も、この人生で魂に深く刻まれていた「トラウマ」を、ひとつずつ手放してきました。振り返ると、
まるでもぎ取られるかのように手放さざるを得ない状況に追い詰められる事がほとんどでした。
その時その時は必死なだけでしたが、少しずつ、重荷を軽くしながら生きてきたことが、
今は良く分かるんです。

だから、チャンネルの方向性を、私が本来向けたかった方向に変えました。
それをすると、まだ、外の世界がどうなるかで自分の行く末が決まるという感覚が強い人は、
散っていくかもしれませんが、敢えて。

皆さんが気になっていることを無理やり手放させるつもりはなく。
時事ネタも、宇宙からのニュースネタも見に行っていいし、誰がどういつもりなのかとか、
いつQFSが来るのかとか、選挙で誰が勝つのかとか、不正選挙やワクチン詐欺はいつ暴かれるのか…等々、
全然見ていい。
ただ、変化を起こせる「何か」に自分の力を注ぎたいのなら、やはり
「自分のトラウマを自覚して、手放す」、これしかないと思っています。
何度も何度も、思い浮かべ直すべきは「現象界は、私たちの意識の反映」だということ。

レムリア時代の豊かな自然に抱かれた生活を描いたお話は素晴らしかったです。
懐かしく、優しく、暖かく、穏やかで、涙がこみ上げてきました。
では、今その生活様式を導入出来るのか?というと出来ないのです。
なぜなら、今の地球上の自然は気候も含め厳しく、私達は生き延びられない。
でも、それは今の気候、自然、草木森のあり方が「今の私達の意識の反映だから」、とロビンさん。
この「視点の転換(自分自身の意識の浄化に向けること)」自体が、大きな"手放し"なのだ、
と気付いている人は、今の時点ではそんなに多くないかもしれないのが現状です。

grenleeedさんが、感じていることは、多分私が感じていることとすごく近いです。
そう、トゥルーサー活動をしている多くのコミュニティが、まだ半覚醒状態で、
まあ「途中」なのは私もなのですが、「自分はもう覚醒めた存在だ」と自負してしまうと、
そこで止まっている状態ですね。

真実(歴史も含め)まだ分からないことだらけ。何を基準に「自分は覚醒めた」としているのか?
他人と比べて「自分の方が覚醒めている」のでしょうか?
それも、ロビンさんのいう「傲慢さ」につながる気がしてしまう。

みんながオーケストラの一員なのです。それぞれに役割があり、どれも尊い。
コンサートマスターのバイオリニストも、たった一度しか鳴らないシンバルやトライアングルの係も、
存在価値は変わらない。
私達は皆で、一つの音楽を奏でています。



ALAEさんの翻訳によるロビンカイザーの物語。

ALAEさんのチャンネルはこちら。


自分の意識こそが外側の世界を作っている
この事実を腑に落とすのは力がいる。
始めにそのことを私に教えてくれたのは、アメブロをやっていた天寿さんという方で、もう何年も前のことになる。
そこから今に至るまで、飾りをつける前のデコレーションケーキの表面をなめすように、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。
それでもまだ時折、その何かを外側の、誰かの責任にしたくなる。
頭が痛いのは自分の内側の問題なのに、そこに向き合わずに薬を飲んでさっさとなんとかしてしまいたくなる。

洗脳されているのがどちらかなんて、本当にどうでもいいことだ。
だって私たちは全員、漏れなく全て、洗脳されているのだから。
今だって、この不可思議な旅を100パーセントを理解して満点が取れる人なんてきっと、本当は一人もいないのだから。


私はもしかしたら、オーケストラの最終楽章の、最後の最後にたった一音、Cをコンと鳴らすのを待っているグロッケン奏者なのかもしれない。
それでもいつかその時が来たら、誰かの心に響くような美しいCを、きっと高らかに鳴らしてみせると決めている。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?