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コロナウイルス連作短編その91「ホテル・ポドゴリツァ」

 クララ・フジノ・コスタの傍らで、ダニェラ・カストラトヴィチはワインを飲む。肌理の粗い、力強い赤色の衝撃、それが壁に押しつけられる拳のように自身の感覚へ深く沈みこむ、これがダニェラには心地いい。馨しさのなかで、彼女は肩を微かに動かし、肩甲骨が身体を伸ばす様を幻視する。
「このワインはヒン・アレニってアルメニアのワインなんだけど、友人が近いうちに日本進出したいって言ってる。世界もアルメニアも色々と大変だけど、1歩1歩進んでいかなきゃね」
 クララもワインを飲み、ダニェラはその横顔を眺める。所作はおもむろに優雅で、静寂がそのまま人の肉体として現れるかのようだ。一番目を惹かれたのはグラスを持つ彼女の左手だ。掠れた白い肌を、半透明の紫の血管が駆ける。その幻影の色彩は、ワインの紫よりも魅力的で、決定的だ。
 何度か瞬きしてから、ダニェラはクララの部屋を眺める。柔らかな橙色の光が天井より拡散していき、赤茶色の滑らかな壁がそれを受けとめる。抱擁の後に解放され、ぼんやりとした輝きが粒子の終りなき流れとして部屋を満たしていく。部屋には黄昏の匂いが常に漂っていた。嗅いでいると、何だか気分が落ち着く。ワインの軽やかな酩酊とともに、ダニェラの身体をソファーの奥へゆっくりと沈める。何か、小さな隠れ家でも見つけた気分だった。
 彼女はその右手を、ソファーの上に置いている。そこにクララの左手が一瞬置かれ、しかし離れる。むず痒いような恥ずかしさを感じ、しばらく俯いてしまうが、自分が笑っていることにも気づいている。そうして視線を顔に向けると、それに気づいたクララが唇をぎこちなく笑みに緩ませる。その皺の微かな動きを愛おしいと、そう思う。クララは口を開きパクパクと動かすが、声は出ないまま、再び口は閉じられる。
「何か言いたかったんじゃないの?」
 ダニェラは大仰に唇を突き出す。
「言ったら怒るかも」
「いいよ、別に。そしたらこのワイン、床にブチ撒けるからね」
「止めてよ」
 クララは笑った。
「あなたの手に触った時、思った。何だか、心地よく乾いてるって。子供の頃、公園の砂場で遊ぶのが好きだった。砂場の砂に手を突っ込んでね、泥玉とかお城とか作ったり、そういうのが大好きで、全部終わった後に、10本の爪が砂ですっごく汚くなってるのを見ると、何だか自分を誇りに思えた。私、砂が好きなんだと思う。暖かい流れ、波。そういうのに包まれてるみたいな感覚。それにふと触れた時のこと、あなたの肌に触れた時に感じた」
「その比喩、なかなか良いかもね。最初は"人の肌に触って砂はねーだろ"って思ったけど」
「ごめんごめん」
 2人は笑いあう。
 ダニェラは何とはなしに最近の出来事を話す。
「東欧が大好きな日本人の友人がいるんだけど、最近はモンテネグロ、私の国に興味があるらしい。なかなか良い趣味してるよ。それで彼が1人のモンテネグロ人建築家について知ったらしくて。スヴェトラーナ・カナ・ラデヴィチっていう建築家で、ユーゴスラビア時代に活躍した、モンテネグロ初めての女性建築家って呼ばれてる。正直、私も知らなかったね、はは。で、彼がその建築家の紹介記事を読んでいたら"日本の建築家である黒川紀章の作品に感銘を受けた後に東京へ来訪、1970年代には彼のスタジオで建築計画に参加する"なんて記述を見つけて、驚いたって。彼、無駄に行動力があるから、ヴェネチアで彼女の作品の展覧会が今開催されてるのを知って、その責任者にこの東京時代についてのことを問い合わせたらしいの。彼女によると、この時代のことはまだ謎に包まれてるらしいって。実はその展覧会のために東京でも調査が行われるはずだったけど、コロナでダメになってしまって、それでもコロナ禍が終ったら調査を再開したいって。彼はぜひ協力したいなんて見切り発車の提案をして、しかも彼女に、東京に住んでて日本語ペラペラのモンテネグロ人な私を紹介してきたの」
 ダニェラは建築に興味があったが、それをどう突き詰めていいか分からず、知識も持たないままだった。だがこの突然降って湧いた機会に、心に蟠っていた興味から翼が生えてきたのを感じた。友人から連絡を受けた数日後、黒川紀章の建設した中銀カプセルタワービルへ衝動的に赴いた。怪獣のような巨大アメーバの剥製、そんな質量の圧力にまず圧倒された。円形の窓の付いた、無数の四角いカプセルが凝集し巨を形成し、ここに聳え立つ。これを見上げる時、自身の脳髄が縮みあがり、自分がいかにちっぽけな存在かを言葉でなく心で理解させられた。だが同時に哀れさを感じた。この建築は生き物であろうとしているのに、全てが静止していた。もしかすると実際は剥製ですらない。停止であり、断絶だった。このまま崩れ去ればいいのに、ダニェラはそう思った。このことをクララには話さない。
「そのスヴェトラーナって人はどんな建物を建てたの?」
 クララが尋ねるので、ダニェラは彼女が30歳で完成させたホテル・ポドゴリツァの写真を見せる。彼女は感嘆の表情を隠さない。ホテルは石造りの要塞さながら堅牢で、茶褐色の凍てつきには隔絶の感覚が濃厚に宿っている。外国人には典型的な共産主義建築と思えるかもしれないと、ダニェラはふと思う。
「ここ行ったことあるの?」
「うん、建築家については知らなかったけど、実は子供の頃に行ったことがある、正確にいつっては忘れたけど。遠くから初めてホテルを見た時、何と言うか子供ながらにオーラに圧倒された。不死の大蛇の広大さ、厳格さ、心がピリピリ震えるような感じだった。それでどんどん近づいていって、近くから見ると、当時はそんな言葉知らなかったけれど"前衛"って外観が鮮烈に網膜に聳えてきて、驚いた。そういう奇矯さと厳格さが今まで見たことない形で同居してた。私がそれに見惚れてたら母さんが言ったの、この建物はあなたが2歳の時に完成したのって。つまり私はこの建物のお姉さん、ホテル・ポドゴリツァは私の妹。何だか妙に誇らしかったのを覚えてる」
「中はどうだったの?」
「それがね、全然覚えてない」
 ダニェラは申し訳なさそうに笑う。
「何だか全然覚えてない、全部忘れちゃった、勿体ないね。でも曖昧な感覚だけは身体が覚えてる。迷宮に足を踏み入れるような、底知れない感覚だけ、私は覚えてる」
 ワインを飲み進めた2人は鮮やかな酩酊に包まれる。ダニェラがSpotifyで曲をかける。
「もし夕焼けが音を持ったら、ってそんな感じだね」
 クララが言った。
「クロアチア人の若い子から教えてもらったバンドの曲」
「若い子からはいつだって頭を下げて、学ばなきゃね」
「"Gledam nebo" この曲のクロアチア語の題名、どんな意味だと思う?」
「分かんないよ。日本語しか分からないもん。英語も、ブラジル・ポルトガル語も、アラビア語レバノン方言も、何も分かんない」
 クララはおどけながら言った。
「どういう意味?」
「"私は天国を探してる"」
 ダニェラはクララと抱きあい、ゆらゆらと空間を揺蕩う、ダンスとすら言えない、ただ親密な揺れ。クララの左手の手が、ダニェラの右の肩甲骨を包みこむ。ギターの、波紋のような旋律がその暖かみを祝福する。嬉しかった。
 親密さが2人を泥のように疲れ果てさせた。クララはダニェラの乾いた手を引いて、ベッドへ誘い、そのまま子供のように倒れこむ。ダニェラは右の親指と人差し指で自身の鼻を弄ってから、彼女の横に倒れこんだ。手を繋ぐ、20本の指は茹でたアスパラガスのように柔らかくなり、絡みあう。
「一緒に寝よう」
「うん」
「夢のなかで」
 クララは目を瞑りながら、笑う。
「ホテル・ポドゴリツァに連れてって」
「うん」
 ダニェラはクララの鼻先にキスをする。
「唇じゃないの?」
「それはホテルに行くまでとっておきましょう」
 クララは身体を転がして、喉からゴロゴロと音を立てる。
「おやすみなさい」
 ダニェラは言った。
「おやすみなさい」
 クララは言った。ダニェラは自分の耳がその言葉を、この静寂のなかで抱くことのできることが、嬉しい。目を閉じて、身体を闇に浸して、自分の手が今触れている暖かさを頼りに、全てが再び光に包まれるその時を待つ。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。