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「クソ喰らえ、クローン病!」第20話~病院で色々と考える

「クソ喰らえ、クローン病!」前話はこちらから

 もちろん、最近は病院に行きまくってる。今までデカい病院にお世話になるような肉体的大病を患ったことがなかったから、ある意味で新鮮な経験だ。ここの柔らかくない椅子に何度もケツを据える最中、色んなことを考えた。取り留めもなくなるだろうが、ちょっと振り返っていきたい気分だ。

 最初にこの病院に来たのは、血液の数値が異常で骨髄がヤバいかもと医者に脅された時だ。彼が紹介状を書き、母親に付き添われここに来た訳だよ。俺はかなり生ぬるい絶望感に包まれていた。1階の大広間には患者たちが犇めいてるんだけど、俺みたいに絶望にチンカスみたいに沈殿してるんじゃなくて、むしろ生命力の横溢を感じさせるくらいなんだよ。ウザッたくて胸焼けがした。皆自分は治るだろって思ってるって俺には感じられて、苛つくんだよ。早くここから出たくなったが、この考えはちょっと間違ってたと後に分かる。
 受付をした後は2階に行かされ、また待つ。その時に大声でわめくクソ老人に遭遇した。"いや、本当にこんな典型的なクレーマージジイっているんだな"と思った。喧嘩素人のむやみやたらな拳撃みたいな罵声を女性看護師に浴びせかけてやがる。弱い立場にある人物に自身の権威を誇示するって感じだった。こういう最低な耄碌にはやっぱなりたくないよな、まあ俺はその歳まで生きられるかすら分からないんだがね。
 そういえば病院へ来るたび、何度も何度も血液検査をさせられるな。別に痛い訳じゃないんだが、血を取られることへの精神的苦痛には全く慣れない。皮膚に針ブッ刺されてから、血を注射で吸われる。そして注射器から保管器に管を通じてそれが流れてく訳だが、あの赤黒い液が管を駆け抜けるのを見るのはゾッとする。しかもここじゃシリンダー5本分の量を採血されるからイヤだね。この量は実際そこまで多い訳じゃないんだろうけど、俺としては自分の身体に存在するとしてはこれですら多すぎると思える。人体の不思議だな。手術で全摘出された大腸の写真見て恐怖した時もそうだが、こんな俺がよくホラー映画観れるな。
 苦痛に関してはもう1つ書くべきものがある。胃カメラ検査だ。第9話と第10話で大腸の内視鏡検査について詳しく書いたが、この後クローン病の診断が既に確定していたのに、その絶望のなかで胃にもカメラをブチこまれる羽目になった。その日の調子は本当に今まで最悪くらいで、ベッドから起き上がれすらしなかった。両親に支えられて、タクシー乗って、それで何とか病院に行った。内視鏡室で喉用の麻酔を口に含まされたな。3分間クソ苦い粘液を含み続けなくちゃいけない時間、まるで実験動物になった気分だった。
 で、この後にカメラを口にブチこまれたが、これもひでえ苦しみだ。内視鏡検査は激痛で悶えまくったけど、胃カメラは吐き気が壮絶だった。カメラが肉を潜航するなか、餌付きまくってしょうがない。過去何年分の餌付きをブチ撒けたか分からない。口から涎がダラダラ垂れまくって、それはもう濡れそぼつってやつだよ。空前の苦しみだった。内視鏡検査のこと書いた時、海外に住んでるらしい読者が"こういう検査の時、日本では麻酔とかしないの?"ってコメントを書いてた。俺の場合、一応麻酔とかもできますよって看護師に言われたが"別にやんなくても大丈夫ですよ"ってニュアンスだった。これに騙されて、やらなかったらマジでこのザマだよ。マジで鎮痛剤とか全身麻酔とかそういうのもう義務にしてくれよ、本当。検査ってこれからも生きるためにやるやつだろ、でもむしろその間に生きること投げ出したくなっちゃうよ。
 そんな病院通いのなか、正に病院の柔らかくないソファーの上で読んだ本がある。安部公房の「けものたちは故郷をめざす」だ。安部公房はかなり好きだな。大学の卒論のテーマは、映画監督の勅使河原宏による安部作品の映画化作品、特に「燃えつきた地図」の演出法についてだったくらいだ。でも我が最愛の安部作品であり、日本文学オールタイムベストの1冊はこの「けものたちは故郷をめざす」だったんだ。
 1人の若い日本兵が満州から脱出し遥かな日本を目指すっていう物語だが、展開はそうスペクタクルなものじゃない。中心は主人公が荒涼と焦熱の氷土を彷徨い続ける壮絶な光景だ。飢餓、眩暈、虚無。そういった苦痛によって主人公の肉体が傷ついていく。この様は、クローン病に蹂躙される俺の肉体にとってあまりにも現実だった。病院で読みながら本当に泣けたよ。高校の時に読み衝撃を受けて以来、今まで何度も何度も読み返してきたけど、この先も必ず、何度だって俺はこの作品に帰ってくるんだろうな。

 印象に残っている風景がある。エレベーターに乗る時、妻らしき人物が乗った車椅子を押す男性に会った。エレベーターで彼を手助けすると、感謝の言葉を言ってくれた。その後、1階の受付に座ってたら、前の席に彼がやってきた。だが俺と話した訳じゃない。俺の前に座っていた中年女性が労わりの言葉を彼にかけ、会話が始まったんだった。男性の話はこうだ。今日は半身不随である妻が検査をするため病院に来た、検査結果は良好で嬉しい、だが自分も糖尿病と前立腺がんを患っていて、いつまで妻を介護できるか分からず不安だと。女性の話はこうだ。自分は糖尿病を患っておりその検査のために今日はやってきた、乳がんを克服した後に今度は糖尿病というのはまた辛い、去年は同じ病気で友人が亡くなってしまったと。ぶっちゃけ聞いてるだけで老いることに対し希望を抱けなくなる内容だが、彼らの口振りは驚くほど明るく、その苦痛への楽天主義っぷりが羨ましくなった。その後、俺は我が愛しの反哲学者E.M. シオランがこんなことを言っているの知った。

"病気を克服することができない以上、私たちのなすべきことは、病気を育て、病気を楽しむことである。こういう自己満足は、古代人には常軌逸脱と見えたであろう。彼らは、苦しまないという快楽にまさる快楽を認めていなかった。彼らよりも理性的でない私たちは、二千年後、異なった判断を下している"

 本当、シオランは良いこと言うよな。ここにおいてあの男女は"私たち"であり、俺は"古代人"だった。だって"苦しまない"方がいいに決まってるだろ。だがそんな俺はいつか"病気を育て、病気を楽しむ"ことのできる人間になれるだろうか。まあそれには、努力が必要だってことだな、飽くなき努力が。

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【済藤鉄腸のすぐに使わざるを得ないルーマニア語講座その19】
Ieri, am mers la spital pentru inspecția hemoroizilor. Un doctor a pus degetele în anusul meu în mod vehement. Acum, mă simt atât de căcăcios încât vreau să extermin oameni din toată lumea.
イエリ、アム・メルス・ラ・スピタル・ペントル・インスペクツィア・ヘモロイジロル。ウン・ドクトル・ア・プス。デジェテレ・ウン・アヌスル・メウ・ウン・モド・ヴェヘメント。アクム、マ・シムト・アトゥト・デ・カカチョス・ウンクット・ヴレアウ・サ・エクステルミネズ・オアメニ・ディン・トアタ・ルメア。

(昨日、痔の検査のため病院に行きました。医者がその指を私のケツ穴に壮絶なまでの勢いでブチこみました。今はマジに最低の気分ですね、世界中の人間を抹殺したい気分です)

☆ワンポイント・アドバイス☆
今回は単語を紹介していこうかな。"Hemoroizi"は"痔"という意味で、日本語とは違って常に複数形だ。今回使った"hemoroizilor"は属格形"痔の~"って感じだね。"Căcăcios"は"クソみたいな"という意味で、作者の偏愛する単語だからかなり使いまくってるよ。こういう単語ばっかり使ってるから、時々ルーマニアの人に"お前のルーマニア語は冒涜的だ、恥を知れ!"とか言われるけど、そういうのを聞く度に嬉しくなるね。自分の目指しているルーマニア語が"正しい"ルーマニア語ではない確信に1歩ずつ近づける。小説家としては、その"正しくなさ"こそが重要なんだからね。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。