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コロナウイルス連作短編その211「Solarisの由来」

 舞花あさぎはLINEで友人の芳山笹と話している。外からは豪雨の音が聞こえてくる、鼓膜を無数の針で突き刺され続けるような心地だ。少し高揚を覚える。
 “昨日Bumbleで話してた男に”
 笹がそう言う。Bumbleとは笹が登録しているマッチングアプリのことだ。あさぎも笹に薦められ、実は登録している。
 “XGのCOCONAに似てるって言われたわ。どうよ?”
 そう尋ねられるが、その“XGのCOCONA”とやらを彼女は知らない。最近の音楽には疎いのだ。熱心に追っているのは映画くらいだ。
 Googleでその人物について調べると、写真が出てくる。いわゆる“ベビーフェイス”な人物だとあさぎは思った。中学生が背伸びをして、アメリカ人のようにキツいメイクを自分の顔面に施したとそんな印象だ。あさぎの価値観においてこれは“趣味が悪い”と単純にそう形容することが可能だ。
 そういえば韓国の女性アイドルってこういう日系アジア人かぶれの趣味悪いメイクしたやつらばっかりだよね。
 笹に返事を返そうとした時、そんな言葉が思いついた。さすがにこれをメッセージで送ることはできない。
 “韓国の女性アイドルってこういうメイクの人ばっかじゃない?”
 実際に送った文言はこういったものだった。検閲の跡が多く見てとれるものだった。外からの音はさらに喧しく響いてくる。
 “知らんけど”
 そんな言葉をつい追加で送信してしまう。
 “いや、XGって日本のガールズグループだけど”
 そんな返信が届き、少し居心地悪くなる。だが“知らんけど”という言葉を補足しておいたおかげで、自分の無知を少しだけ棚上げできたような気がした。
 “まあ、韓国のアイドルのメンバーがプロデューサーとかやってるじゃらそっち寄りっちゃそっち寄りだけど”
 であるからして、あさぎの無知ゆえの言葉もある程度は正当化される。
 そう笹から言われているような気分だった。
 しかしそこから会話が止まる。相手がまだ何か言ってきそうだったゆえにあさぎは何もメッセージを送らなかったが、笹としてはこの言葉で言うべきことはもうなくなったらしい。
 沈黙が続いた。いや、LINEの会話には機器の効果音やバイブ以外は沈黙も喧騒もないはずだ。だがあさぎは、耳でなくその網膜や頬骨に沈黙を感じた。
 “ねえ、じゃあさ”
 この雰囲気を帳消しにするため、あさぎは質問を送る。
 “私はどんな有名人に似てるよ?”
 その質問に、間髪いれずに“うーん”という返事が返る。
 だがしばらくその後が続かない。首筋に厭な汗がすっと流れるような感覚がある。なのに口からは能天気な欠伸が出た。目には生理的反応として涙が込みあげた。
 “何かSolaris Charlotteってドイツの歌手に似てる”
 笹からそんな返信が返ってきた。もちろん誰かは知らない。
 先のようにGoogleでSolaris Charlotteを調べる。
 インタビュー記事に記載された写真には、横分けの長い黒髪を持つ人物が写っている。真白い肌に穿たれたような瞳、そこから射抜くような視線が画面越しにこちらへと突き抜けてくる。あさぎはその視線に鋭さよりも威圧感を覚える。痺れるような格好よさすら感じた。
 一方でその輪郭は頗る逞しく、いわゆるエラが張ったという風な広がり方をしており、アゴも筋骨隆々たるハリウッド俳優さながら角張っている。ここには格好よさではなく、汗でベトついた手で肩をまさぐられるような違和感を抱いた。
 このSolaris Charlotteという歌手に自分は似ているらしい。
 光栄でありながら不服をも覚える、不思議な気分だった。
 加えて“Solaris”という言葉に、あさぎは胡散臭さすら感じていた。
 おそらくこの“Solaris”の由来はアンジェイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」だろうと彼女は確信している。タルコフスキー作品はどれも退屈だ。緩慢で、全く印象に残らない。特に「惑星ソラリス」は思春期の頃に、映画好きの母親にDVD版で見せられたが死ぬほど退屈で、観ている時間は拷問のようだった。当時のニュースでアメリカ軍によるアブグレイブ収容所における拷問が報道されていたが、その拷問者たちは捕虜に「惑星ソラリス」を見せたのだろうと不思議に思うほどだった。
 この反感は大学時代により深化する。上京した彼女は当時恋人だった矢野絢斗に半ば強引に連れられ、名画座でスティーブン・ソダーバーグの「ソラリス」を観た。
 そしてあさぎはこれほど映画で心揺さぶられたことはないというほど、号泣してしまったのだ。どこまでも薄味の、まるで噛みきった後の唾まみれのガムを引き伸ばしたようなタルコフスキー版に比べ、ソダーバーグ版が湛える濃密な寂寥感といえば同じ原作を映画化したとは思いがたいほどの優劣の差だった。
 これは例えば今においても、サイレント映画の巨匠であるアラン・ドワンの初期長編“The Half-Breed”や、子供の頃に観て衝撃を受けた「ブタがいた教室」に、さらにセリーヌ・シアマの官能的な傑作「燃ゆる女の肖像」と並ぶ人生におけるベストの1本と呼ぶべき立ち位置に、ソダーバーグ版の「ソラリス」は君臨している。
 だがこの偏愛を数年前不用意にTwitterに書いたところ、映画を観る目がないとバカにされたのだった。そのバカにした人間は、今は“タルコフスキーの作品がYoutubeで無料配信、しかも英語字幕つき!”というニュースに無邪気にはしゃいでいる。
 その記憶に胃を苛まれながらも、あさぎはSolaris Charlotteの日本語版インタビューを見つけたので何となしに読んでみる。
 “あなたはトランス女性であることを公言されていますが……”
 そんな文言が視界に入り、自分でも動揺した。この言葉に続いてSolaris Charlotteはトランス憎悪に対する憂慮や、日本のクィア当事者への労りについて語っていた。
 “私は彼らが迎え入れられてると感じてくれる、そんな曲が作りたいのよ”
 その語尾に胃のムカつきが加速するなか、画面に触れる指や震える眼球はSolaris Charlotteの写真を探していた。もう一度見るなら、その輪郭はかなり逞しく、顎も筋骨隆々のハリウッド男優並みに広いと分かる。違和感はこういうことかと納得するとともに、あさぎは驚くほど動揺した。
 トランス憎悪にはもちろん反対だ。TERFがあそこまで臆面もなくトランス当事者を排斥する様には怒りを覚える。だが自分がいざトランス女性に似ていると言われると自分でも動揺と、恥ずかしさを思えた。そしてこの一連の感情の動きをどこまでも自覚せざるを得ず、呼吸が異常に早くなった。
 おそらく笹は、純粋に自分がSolaris Charlotteに似ていると思ったゆえにそう言ったのだろうと思う。だがもしかするなら何らかの意趣返しなのではないかと疑心暗鬼になる。
 そういえばさっきも笹がLINEで“「ウーマン・トーキング」めっちゃ面白かったね、フェミニズム映画の傑作”と送ってきた際に、あさぎはこういった旨の返信を何回かに分けて返した。
 あれはボリビアのメノナイトの話と聞いた。なのだから実際はカナダの映画作家ではなくボリビアの映画作家が現地で、そしてメノナイトが使う高地ドイツ語や現地のスペイン語を使って作るべきではないか? LGBTQやPoCなどに関して当事者の俳優を使うべきということが盛んに言われているなかで、こういった当事者性が完全に無視されているのではないか。そもそも彼らメノナイトがカナダからボリビアなどに移住した理由は、カナダ政府から英語教育を強制されたことなのに、そんな彼らの物語を英語で語ること自体が暴力なのではないか?
 “いや、それは……”
 笹からの返信はそんな歯切れの悪いものだけだった。
 この一連の出来事への笹による意趣返しなのではないか?
 そんな疑念が、あさぎを苛んでいく。
 そして、ふと自分がスマートフォンでBumbleを開いているのに気づき驚いてしまう。さっきこれについて話していたゆえ開いてしまったのかもしれない。笹に影響を与えられていることを自覚するのは不愉快だったが、そもそも実際Bumbleをインストールしたのも彼女に薦められたゆえだ。このアプリを通じて出会った男女も何人かいる。だが束の間の関係は持つことがあってもその段階で終結を迎え、深い関係になることはない。
 周りの人々は同性愛者も異性愛者も関係なく堅実な関係を築いている者ばかりだが、あさぎ自身は全く以て安定した関係を築けないでいる。その状況においてバイセクシャルであることに関し、自然と自虐的な心地になっていくのが自分でも分かる。
 一方で笹もバイセクシャルでありながら、あさぎとは逆に安定した関係を求めていないゆえ、マッチングアプリでは気ままな遊びを繰り返している。笹の立ち回りは、男女を見境なく積極的に食い散らかすというバイセクシャルの固定観念を再生産するものだとしか思えない。笹は自身を“パンセクシャル”と呼称しているが“性やジェンダーという枠に囚われない”などという戯れ言は信じがたい。誰かを愛するに性は重要だ、依然変わりなく。
 こういうやつがいるから、こっちが変な偏見持たれるんだよ。
 これは被害妄想だと分かりながら、鬱屈が深奥でグツグツと煮えたぎる。
 一方でBumbleにおいては出てくる男女を機械的にスワイプしていた。ここでは考えこむのは無駄だ。直感的に気に入らなければ左にスワイプして消し去ればいい。直感的に気に入って初めて他の写真やプロフィールを読み、そして左か右かどっちにスワイプするか決めればいい。
 現在のところ、右にスワイプしたくなるほど気に入る人間は現れていない。
 だが唐突に、視界の死角から乗用車に追突されるがごとく、あさぎは美しい女性を発見する。ウェーブのかかった黒髪、蛾の触覚さながらに太い眉毛、風情あるレトロな喫茶店にある木目調のテーブルと同じく茶色い肌。その全体として濃厚な顔立ちからインド系の血が入っているのではないかと思った。凝視する時間が長くなれば長くなるほど、彼女の顔立ちはタイプだと思えてくる。
 プロフィールを確認するが空白だ。もう1枚の写真も似たような構図で、1枚目よりも柔らかな、仏陀的な慈愛の微笑みを湛えているという微かな違いしかそこには存在していない。
 だが、あさぎは見とれてしまった。こういう時は思考が馬鹿げた速度で先走るのをわざと楽しむ。待ち合わせ場所で初めて会い直接その笑顔を見る、オフィスビルに入った酒場でともにジントニックを楽しむ、人目のつかぬ公園の闇でキスを交わす……無論、実際にこうしてうまく展開することは多くない。だが何にしろ妄想は心行くまで楽しむべきだった。
 それでも、女性の顔に少し違和感を抱きはじめる。濃厚な顔立ちとは裏腹に、写真自体が不思議とぼやけているのだ。梅雨に満ちる霧、もしくは立ちこめ始める白煙が写真をぼんやりと覆っているかのようなのだ。それに意識が向くと、女性の顔の質感がどこか妙に感じられてくる。人の顔にしては滑らかすぎる。まるでAIが生成した顔のような……
 そしてあさぎは彼女の名前を確認する。そこには“調整済み”と記してあった。
 反射的に彼女を左にスワイプした後、スマートフォンを向こうにある座布団へと投げ捨てる。己の肉の内側で、心臓が膨らんでは萎むのを感じる。
 ピィンポン、パンポォン。
 外からサイレンが鳴るのが聞こえた。思わず窓の方を見てしまう。だがより意識せざるを得ないのは外に広がる荒々しい雨音だ。サイレンの後におそらく何らかの警報がアナウンスされているはずだが、雨音のせいで言葉が全く聞き取れない。ただボヤボヤした音の瘴気が耳のなかを這いずるばかりで不愉快なだけだ。
 前に視線を戻すと、自分の右手にスマートフォンが握られ、画面にはあの茶色い肌の女性が映っているのに気づく。全て放棄したはずだった。しかし確かに画面のなかには彼女がいた。ゾッとするほど美しい。今すぐ画面から彼女の顔が出てきてそのまま首筋をキスされると、そんな妄想まで湧きあがり、あさぎは自分自身が怖くなる。
 急いで画面を変えるが、現れたのはSolaris Charlotteのインタビュー記事だった。そこで彼女はSolarisの由来について話している。

おそらくみんな、この“Solaris”の由来はアンジェイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」って思ってるでしょうね。でも違う、タルコフスキー作品はどれも退屈よ。特に「惑星ソラリス」なんか、ボリビアに住んでる頃、映画好きの母親に海賊版のDVDで見せられたのを覚えてるけど、死ぬほど退屈だったわ。観ている時間は拷問のようだった! その時のニュースでアメリカ軍がアブグレイブ収容所で敵兵を拷問してたって報じられてたけど、アタシ、その拷問者たちってきっと捕虜に「惑星ソラリス」を見せたんだろうって思っちゃったもの。

“Solaris”の由来はね、そっちじゃなくてスティーブン・ソダーバーグが作った「ソラリス」のほう! ベルリンに留学した時にね、その時の恋人だった人に強引に連れられて、名画座で観たの。それで……これくらい映画で心揺さぶられたことはないってくらい、号泣しちゃって(笑) どこまでも薄味な、まるで噛みきった後の唾まみれのガムを、さらにさらに引き伸ばしたっていうタルコフスキーのに比べ、ソダーバーグ版の濃密な寂しさ切なさね。同じ原作を映画化したとは思えないほどの優劣の差だった。もうホントによ!

アタシのオールタイムベストは4本あるの。1本目はサイレント映画の巨匠っていうアラン・ドワンの初期の中編「善良なる悪人」ね。それから2本目は、子供の頃に観て爆笑だった「ベイブ/都会へ行く」っていう映画。で、3本目がセリーヌ・シアマの傑作「水のなかのつぼみ」ね。「燃ゆる女の肖像」に比べて過小評価されすぎてると思う。そして4本目がソダーバーグ版の「ソラリス」ってことで、多分一番好きよ。だからこの“Solaris”を名前につけてるの。

だけどこの偏愛を数年前不用意にTwitterに書いたら、どっかのシネフィルに映画を観る目がないとバカにされたの。そのバカにしたやつは、今は“タルコフスキーの作品がYoutubeで無料配信、しかも英語字幕つき!”ってニュースに無邪気にはしゃいでいるんだから、ホントムカついちゃうわよね?

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。