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コロナウイルス連作短編その203「玉出紫朗は山崎一子という少女が好きだった」

 であるからしてあるときに、廊下ですれちがった男子生徒たちが「4組の長髪デブス、キモいよな」と言ったのを聞いて、瞬間湯沸し器のように機械的かつ猛烈なかたちで、彼らにブチギれることになった。
「お前らさ、影でデブスだなんだグチグチ言ってて、男として恥ずかしくねえのかよ、なあ?」
 わざとマスクをずらしたうえで彼らに睨みを効かせてみせる。生徒たちは、足の裏に錆びた釘でも突き刺さったかのような、あわれもあわれな表情をあらわにし、そして早歩きで逃げさった。
 よりいっそうムカついたんだった。怒りのままポケットに手を突っこむけれども、掴みとったのはスマートフォンではなく量の減ったポケットティッシュだった。憂さ晴らしとして試しにそれを床へ叩きつけてみるが、少しばかりの勢いでヒュっと落下したかと思うと、驚くほど柔らかひえた廊下にペトと降り立ったので、憂さはむしろ曇りを増したんだった。
 なんにしろ、玉出紫朗は山崎一子という少女が好きだった。
 そのマスク越しにも輝いているテンシンランマンな笑顔が好きだった。
 コロナ禍が続いて陰りが初期設定と化した教室で、クラスのムードメーカーとして太陽のように燦々とみんなを照らす姿が好きだった。
 そんな輝きを見ていると、こっちまでほほえみがうかばざるをえなくてしょうがないんだ。
 だけども心配なこともあった。
 一子はたしかに相当な肥満体型だったのだ。
 昼食の時間には弁当も購買で買った菓子パンもすさまじい勢いで喰らっていく。授業中に近くのセブンイレブンで買ってきた期間限定のポテトチップスも喰らう。その喰らいっぷりは、大量のメシをほんとうに旨そうに喰らう韓国の人気Youtuberたちもかくやで、その爆発的なまでにほがらかな表情が見たくて、友達みんなが餌づけみたいなことをしはじめるんだった。
 “鯨飲馬食”なんていう四文字熟語を国語の教科書で見たことがある。“クジラのように飲んで、ウマのように食べる”なんて、コイツは確かに一子の堂々たる食べっぷりにソックリだと紫朗も思ったおぼえがある。
 ある程度までほほえましい、だけどある程度マジで心配させられる。
 実は紫朗の席は一子の後ろだったんだ。彼女のドデカい後ろ姿は抱きしめたのなら、その柔らかさがもう自分の体ぜんたいに伝わってくるんじゃないかと思えるほどだった。それもやはりほほえましいし、心配させられるわけだった。
「おいおい、マジで喰いすぎるなよ」
 実際、そんなことを彼女に言ったおぼえだってある。もちろんシリアスな感じではなく、もう完全にアカデミー賞の司会者って感じのケーハクなノリでだ。
「ご心配、痛み入りますわ」
 そんな高校生には似合わなすぎる口調で返事をしたかと思うと、一子はやはり目を糸もかくやに細めながら笑って、そうしてまた何らかのものを喰らうわけだった。
 実際、冗談ってトーンでなくマジトーンで“生活習慣病とかヤバいんじゃないのかよ?”とか言いたかったんだよ。だがそう言ったのなら一子に本気でキレられて嫌われるかもしれないと思うと、そこまで踏みこんでいけなかった。
 でも何でそこまで一子の肥満が気になるかといえば、そこには紫朗の叔母さんである玉出芽御子の存在があった。
 昔からずっと自分のことを母親以上にかわいいかわいいしてくれたのが芽御子おばさんだった。会うたびに自分で作ったという美味しいお菓子を持ってきてくれて、それを家族みんなで食べたものだ。ケーキ、クッキー、ドーナツ、大福。色々なお菓子を持ってきてくれたものだけども、どれもこれもむやみやたらに美味しくて、それでいて食べているといつもホッとしたんだった。
 親類のなかでは本当に、誰よりも料理のうまい人だった。本職は介護士で、レストランのシェフとかパティシエとかではない。だけど料理の腕は確実にプロもかくやのものだったのは紫朗自身の舌が保証している。そんな料理を毎回毎回食べていたので、ある時なんか紫朗は「ママのより芽御子おばさんの料理食べたい」と母親の前で口走り、ブチギレられたこともあった。
 それで、そんな美味しい料理をおそらく自分自身が一番たくさん食べていたからか、誰よりも太っていた。
 マジでデカかった。
 ダイマックスしたピカチュウのずんぼりな横幅と、ダイマックスしたニャースの不自然にもほどがある縦長っぷりをどっちも持ってるって、そういう感じのえげつないデカさだった。
 アメリカのドキュメンタリー番組によく出てくる度を越した肥満女性が実際そこにいるってくらいのインパクトを、彼女と会うたび毎回感じたんだった。
 でもそこに宿っているのは威圧感とかではなく、柔らかさだとか優しさだとかそういうあったかいものだったよ。
 いっかい、どういう流れかは忘れたんだけども、紫朗が芽御子おばさんのおなかを枕にしてすやすやと眠ってしまったなんてことがある。人のおなかを枕にするなんて、それはあまりよくないことかもしれないが、芽御子おばさんは紫朗が眠るがままにしてくれた。まるで天国にプカプカと浮かんでいる雲につつまれながら、サイコーに気持ちいいお昼寝をしているってそういう感じだった。それで起きたとき、横を見たらその芽御子おばさんまで寝ちゃっていて思わず爆笑してしまったんだった。
 だけど芽御子おばさんは43歳で突然死んだ。
 紫朗が小学校5年生の
 ときだ。
 その記憶は全てズタ
 ズタになった
 紙切れみた
 いになって
 断片的に
 しか思いだ
 せない。
 めちゃ
 くちゃ衝撃
 的だった。
 何で
 そん
 なな
 ったのか
 分からな
 かった。
 悲しか
 った。
 それでも唯一丸々覚えていることもある。
 悲しくて
 認めたくなくて
 絶対に
 お葬式なんかに行かないとごねて
 ひとりで
 子供部屋に
 引きこもって
 ずっとひとりで
 泣いていたんだった。
 本当にただ
 泣いてるしかしてなかった。
 それで
 泣き疲れて眠った。
 夢のなかに
 芽御子おばさんが
 出てきてくれた。
 そう
 その時にも
 おばさんのお腹で
 昼寝をしたのを
 思いだしたんだった。
 幸せだった。
 それで起きて
 暗い部屋のなかで
 また芽御子おばさんが
 死んだことを
 思いだして
 泣きわめく。
 結局、本当にお葬式には行かなかった。
 紫朗は時々、思っていたんだった。
 もしかすると自分は芽御子おばさんの面影を、一子のなかに見出だしてこの恋心を抱いているのかもしれないと。だからか、一子の姿を見ていると、彼女の笑顔を見ていると本当に幸せな気分になる。彼女は本当に太陽もかくやの輝きなんだった。
 だが同時に紫朗はどこかで恐怖すらも感じている。いくらまだ10代だと言えどもこのまま肥満が進行すれば、一子も体調を崩し、ともすれば芽御子おばさんのように突然死してしまうのではないか?と。
 ふとした瞬間、自分の目の前で地面へと倒れ伏す一子の姿が思い浮かんでしまう時がある。そしてその姿は、見たことのないはずの芽御子おばさんの惨めな死体と重なる。本当にそんなことが起こってしまったらと考えるだけで、体が震えた。
 紫朗は一子にお願いだから痩せてほしかったんだよ。
 だけど一子は自分のその肥満体型を恥とは思っていなかった。脂肪がたくさんついた天然の要塞のようなドデカい自分の体を誇りに思っていた。
 これこそが私なんだと。
 紫朗の見立てによれば、一子のその自信の根底にあるのはボディポジティブとかいう“アメリカ語”のよく分からない横文字概念だった。例えば“ボディポジティブ”とGoogleで検索すると最初に出てくる日本ノハム協会のホームページにはこういった定義が載っている。

“ボディポジティブとは、「痩せた体型=キレイ」という従来の美の定義から外れ、プラスサイズの体をありのままに愛そうというムーブメントのことです。また、サイズだけではなく、形、肌の色、障がいや傷跡など様々な身体的特徴に関係なく、すべての体を受け入れることに焦点を当てたムーブメントを包括して使用されます。”

 こういったものを読んでいると胃がムカムカしてくるのを感じる。“肥満”というのを“プラスサイズ”とまた“アメリカ語”で言いかえただけで何か言った気になるのがムカつくのだ。この言い換えによって隠されてしまうものがあると紫朗はいつだって確信している。
 そしてこの“ボディポジティブ”の震源地はモデル業界であり、先の“「痩せた体型=キレイ」”という価値観と戦う尖兵のような存在が、いわゆる“プラスサイズ・モデル”という輩だった。“肥満体型のモデル”なんてただの矛盾としか思えない。
 だけども一子がもっとも好きだっていうモデルこそが、クリステル・ウォンという中国系カナダ人のプラスサイズ・モデルだった。
 彼女は身長167cm、体重93kgという典型的なプラスサイズ・モデルで、どの写真のなかでもタトゥーのビッシリと刻まれた太ましい二の腕と太股を、挑発的なまでの威風堂々さで読者に見せつけている。一子は友人との会話のなかで事あるごとに彼女の名前を挙げまくり、スマートフォンの壁紙にも彼女の写真を使っている。クリステル・ウォンについて語るときの彼女の瞳は、苛つくくらいまばゆく輝いてしまっているんだ。
 しかし紫朗がGoogle検索でクリステル・ウォンの写真をまるで自傷行為でもするみたいに確認する時に、一番神経を紙ヤスリさながら削ってくるのはその笑みだ。
 見るたび毎回毎回、“大胆不敵”というあの四文字熟語が頭に浮かんでくるような、人を小馬鹿にしたような肉々しい笑みだ。
 たぶん“デブがモデルとか(笑)”という悪口を数えきれないほど浴びせられてきた果て、そうして身につけた“デブがモデルですけど何か?”という誇りみたいなものが、この笑みの裏側にはある。
 自分が今心に浮かべている彼女ひいてはプラスサイズ・モデルへの反感を、この笑みはたやすく見透かしていると紫朗は思わざるをえない。
 酸っぱさも甘さも経験してきたっていうクリステル・ウォンの大人な表情は、どこまでもペカーっと輝いている一子の子供っぽい笑顔とは真逆なものだった。
「私もあんな痺れる表情できたらカッコいいのにな」
 実際、一子がそんなことを言ってるのも聞いたことがある。そう、クリステル・ウォンは山崎一子にとって本当の意味で憧れの存在なのだ。
 それがムカつくんだよ。
 紫朗が考えるに、だけども現実的に考えて肥満であることには明らかに健康に悪影響があるっていうことだ。肥満についてネットで調べている時、紫朗はこういった文章を見つけたことがあった。

“肥満の方は、酸素や栄養分といった生命活動に不可欠な成分を、肥満ではない方に比べて余計に全身に届ける必要があります。なのでその分、心臓の動きもまた過剰となって、負担が大きくなってしまうのです。加えて過食や運動不足によって肥満状態になってしまうと高脂血症、高血圧、糖尿病などのリスクが著しく高くなります。そしてこれらのいわゆる生活習慣病が重なっていくと動脈硬化が進行しやすくなってしまい、さらには心筋梗塞といった虚血性心疾患に繋がり、これが命の危険に繋がるというわけです”

 読みながら、頭のなかに芽御子おばさんの死体が浮かぶ。それは布をかぶったただの巨大な肉の塊に見えた。床に完全にうつぶせになって表情などは隠されている。だけども紫朗には予感がした、それは見るも無惨にひしゃげて彼女のあったかな笑顔が浮かぶ余地はまったくないと。
 怖かったんだ、このままだと一子がそういう風になるんじゃないかと。
 “ありのままを受け入れて”
 “太っているあなたも美しい”
 そんなフワッとした言葉で少女をまどわして、もし肥満が原因で実際に体調を崩したらどうするのだろうか?
 確かに紫朗も聞いたことがある。特に欧米のモデル業界においては痩せすぎこそが問題であり、美の象徴が1本の針さながら痩せた肉体であるゆえに、思春期の少女に悪影響を与え、食べてから嘔吐するというのをくりかえす拒食症が社会問題になっていると。
 ここにおいては“太っていてもいい!”と肯定するのは重要なんだろう、紫朗も理解している。分かるんだけども、かといってクリステル・ウォンのような太りすぎも明らかに危ないだろう。
 本当に勧めるべきなのは痩せすぎでも太りすぎでもない“ちょうどよさ”みたいなものなんじゃないだろうか?
 いつしか紫朗はそんなことを常に考えるようになった。
 例えば朝に目覚めて、黄緑色のカーテンを勢いよく開けるとき。
 例えば歴史の授業で便覧に載っている仏像について学んでいるとき。
 例えばその合間に一子の大きな、とてもおおきな背中を見ながら幸福感と不安を同時に感じているとき。
 そして例えば友人たちと近くのショッピングモールを歩いている時にも、紫朗は何となしにそういうことを考えていた。みなでペチャクチャ喋りながら歩いていると、紫朗のすぐ横をよく分からない人物が走っていった。汚れたカーキ色のコートを着て、何かを熱心に抱えている中年男性が、明らかにぎこちないのに妙に残像すら見えてきそうな早さで、ドドドドドと走り去っていった。
 友人たちはその背中を見ながら大爆笑し、なかの1人はそのぎこちない走り方を真似して前を突き進んでいった。また爆笑がひびいた。
「もしかしてアイツ、あのガイジの親父じゃね?」
 そしてさらに爆笑する。“あのガイジ”と言えば誰を意味するか分かるくらい、みな仲がいい。
 だけども紫朗だけは彼らとまったく別の方向を見ていたんだった。とある服屋の通路に面した壁にはポスターが張ってあったんだけども、そこに写っていたのがクリステル・ウォンだったんだよ。そこでもあのいつもの大胆不敵な笑みをこっちに向けていて、かなりムカついた。
「お前、このモデル好きなん、趣味わる」
 友人の十時大が話しかけてきたので、思わずビクッとなった。
「別にこういうやつじゃなくて、金髪の白人モデルでもよくない? あっちの方が見てて興奮するし」
 彼はそう言った。
 大は確かに友達だった。他のやつらも友達だった。前はフードコートにできたステーキ屋で、みなで同じステーキを頼んですごい勢いで喰らいまくった。
 だがああいうクソみたいな偏見には我慢がならない。彼らがああいう適当なことを言う裏側で、女性たちがいかに傷ついてるかを知らないんだろう。こういうやつらがモデルも少女たちも拒食症に追いこむんだ、いい気なもんだと紫朗は思うのだ。
 それなのに大とクリステル・ウォンへの反感はシェアしちゃってることにも彼は気づいていた。むしろ彼女への嫌悪感は紫朗のほうが上なのだ。だとするなら、クソなのは紫朗も同じで、ともすればクソ度も上なのではないか。
 いや、紫朗は自分に言い聞かせる、
 こいつらとは絶対にちがう。
 おれの反感とかは、こう
 もっと
 “義憤”
 みたいな
 もんなんだよ
 健康被害とか
 そういうのを棚にあげて
 こういう
 肥満体型でも
 全然
 大丈夫だよとか
 なんか無責任に
 あおってんのが許せないんだよ
 おれは、それで一子になんか
 ヤバいことあったら
 どう責任とってくれんだよ!?
 紫朗はそう自分に言い聞かせるんだ。
「あーあ、こういうモデル、マジで死なねーかな」
 そう言ってから大はひとりで爆笑し始めた。
 紫朗は笑わないけども、頭のなかに“死なねーかな”って大のあっけらかんとした声が何度もこだましていた。
 その夜は風呂に入ってから、ベッドに寝転がってYoutubeを眺めていたら、まだ9時くらいなのにすぐに寝てしまった。
 そうしたら紫朗は遊園地にいて、歩いていた。メリーゴーランドとかジェットコースターとか色々なアトラクションが見えたわけだけども、色とりどりに飾りつけられていて、全部が何かのデザートみたいに見えた。
 そう思ったら、自分は独りじゃなくて誰かといっしょに歩いているのに気づいたんだよ。右手を引かれながら、ゆっくりと歩いてたんだった。それが誰かっていうのは右手が感じてるあったかさだけで分かった。叔母さんだ、芽御子おばさんだ。彼女の手は大きくて、柔らかくて、にぎっていて本当に気持ちいい。紫朗はとても幸せだった。
 だけど、ふとそれがほどけてしまった。
 あっ
 そう思ったから握りなおそうとしたんだけども、握れない。おかしいって思って顔をあげるんだけども、芽御子おばさんの体が初めて見えて、だけどそれがあっという間に小さくなっていくのだ。芽御子おばさんが影になっていくんだ。
「おばさん!」
 紫朗は思わずそう叫んでいた。
 目の前にはいつもの自分の部屋が広がっていた。
 全部夢だった。今は11時くらいだと、時計を見たら分かった。
 そして自分の目に涙がたまっているのに気づいた。それはあったかかった。
「男らしくなさすぎだろ……」
 思わずそう口にだしていた。だけども涙をこそぎおとしているうちに、何か別のものが心にきざした。
「おばさんが死んじゃったんだ」
 重苦しい息を全部吐きだす勢いで、そう言う。
「悲しいんだよ。男らしくないとかじゃねーだろ。おれ、寂しいんだよ」
 そう呟いたら、だいぶ大量の涙がブワっとあふれだしたんだった。
 翌日、帰り道、紫朗は久しぶりにひとりで家に帰る。だいぶ寒いのに、だいぶ眠い。家に帰ったら晩飯まで昼寝でもするかってそう思える。冬は嫌いだ。寒いと毎日無気力になってしまう。クマだとか色々な哺乳類が冬眠をするのは、無気力状態で生きるくらいならもういっそずっと眠って春に向けて気力を蓄えようってことなんだろう。頭がいい。冬眠用に作られていない人間の体を恨むよ。
 と思いながら、紫朗は信号で止まる。ぼーっと道の向こうにある、ガラス張りになった車の専門店をしばらく眺めてから、何となく顔を右のほうに向けてセブンイレブンを見る。デカい人影があった。そのドデカい球体のような影は、間違いない、一子だった。ゴミ箱が列になって並んでるところの前で、何かを喰らっていた。
 何か喰らっているって分かっただけでむかっ腹がたった。昨日俺がいだいた悩みはいったい何だったんだよって何となくバカにされてる気がした。
 自然と紫朗はコンビニの方に近づいていった。近づくうちに一子が何を食べているかもハッキリしてくる。チョコレートでコーティングされたドーナツだ。チョコレートの練りこまれた生地のドーナツではなく、チョコレートでコーティングされたドーナツだ。チョコの表面に浮かぶ白い光沢が毒々しいんだ。
「一子!」
 考えすぎると行動できなくなるので、勢いで名前を言ったら彼女は驚いたようにこっちを見てきた。叫びすぎだったか?
「ちょっと話がある、マジな話なんだよ」
 一子が目を白黒させる。何か言おうとして口の端からドーナツの破片がポロッポロこぼれおちるけども、それすら紫朗は気にしない。
「そんな何でもかんでもやたら喰うのはマジで止めたほうがいい」
 とうとう、とうとうこれをマジトーンで言うことができたと彼自身、心が震える。“嫌われるかも”なんて躊躇に絡めとられる前に、さらに言葉を撃ちだす。
「太りすぎると、絶対に健康じゃなくなる、マジで病気になるんだ。心臓発作とか心筋梗塞とか、そういうのがヤバいんだ。だからお願いだから、そんないっぱいもの喰ってブクブク太るのはやめて、ダイエットとかそういうのしてくれ」
 ここまで言って“言っちまった”とそんな後悔と、しかし妙な達成感までも感じていた。心に色々な圧すらかかって、何かの拍子にゲロまで吐いてしまいそうだった。
 ここで、不思議とやっと一子の顔が紫朗の網膜にちゃんと映った。ニヤニヤしていた、彼女はとにかくニヤニヤしながら彼のほうを見ていた。いつもの光輝くような笑顔とは真逆の、てんとう虫の群れが冬眠する石の裏側みたいに湿ってるかんじの厭らしいニヤつきだった。
「ふうん」
 一子が言った。
「やっぱ結局、紫朗もほかの男子とおなじく私のこと“デブス”とかそういう感じで思ってるんだね」
 耳を疑った。視界がパチパチと白く瞬くのを感じた。
「違う、そんなんじゃない!」
 反射的にそう叫んでいて、一子が大きな体をビクッと震わせるのを見て、やっとその叫びの恐ろしさに気づいた。急いで謝ろうとする。
「何が違うんだよ?!」
 その前に、より爆発的な一子の叫びに殴られて、紫朗は思わず後ずさった。
 そのまま一子は走るように去っていく。紫朗は追えるわけがなかった。
 家に帰っても結局、昼寝なんてすることができなかった。今日やらかした色々なことをテレビ見てても、夕食食べてても、コタツ入っててもずっと考えざるをえなかった。
 でもそれについて一番考えざるをえなかったのは風呂に入るときだった。
 風呂に入るまえに服を全部脱いで、習慣として全裸のままで歯ブラシをつかんでそこに歯みがき粉をつけている時、鏡にうつる自分の裸がなぜだかより迫ってきたんだった。
 紫朗は身長175cmで体重は63kgあたりと平均体型だった。だが体にあまり筋肉はなく、少々貧相な印象を受けることになる。運動神経は並みで、体育も人並みにできるのでこの状態でも別にいいと思っている。時々気まぐれに筋トレというものをしてみるのだけども、すぐに疲れはて翌日には筋肉痛の襲来をうけ、3日以上は続いたことがほとんどない。今までの人生を通じて、体つきは常に平均だった。大きな病気とも縁がなかった。一番ヤバかったのは幼稚園の頃にかかった水疱瘡で、コロナも数ヶ月まえにかかったけども軽症で済んだ。
 それが今、鏡に写っているイメージだった。
 実際に風呂に入って、歯みがきしながら40度の熱源にひたりきっている時、あの鏡の自分のイメージがふわふわと浮かんでくる。これはおそらく“中肉中背”って表現できるたぐいの体なんだろう。これくらいが一番ちょうどいいのだ。
 ひるがえって浮かぶのはあのクリステル・ウォンの肥大しきっただらしない体だ。そんな体をしているというのに、顔には大胆不敵な笑みが刻まれていて不愉快だ。そしてその笑みは、肥満によって健康が危機に瀕しているというのにそれに気づいていない無知をも表しているように思えた。
 死なねーかな。
 ふとそんな言葉が頭に響いてきて、驚いた。それは大がクリステル・ウォンに対して投げかけた言葉だった。
 死なねーかな、死なねーかな、マジで死なねーかな……
 そのうち何度も何度もそれが頭にこだまするようになる。さすがに居心地が悪くなって振り払おうとしながら、そうするとむしろどんどん強さを増していくんだ。
 死なねーかな
 死なねーかな
 死なねーかな……
 そして気づいた、いつの間にかその声が大のものじゃなくて、紫朗のものになっていると。
 ヤバいと思って、彼はお湯に顔をうずめて息をとめる。顔全体の皮膚がなかなか猛烈な熱におおわれるとなると、その刺激もまた激烈なものだった。息を止めているので、加速度的に苦しみみたいなものが膨張していく。そうすると不思議とあの声も小さくなっていく、苦しみに掻き消されていく。それで最後には全て消えてしまうので、勢いよく顔をお湯から引きあげてまた呼吸をはじめる。こういうのはむしろなかなか気持ちよかった。
 風呂から出ると、大からメッセージが届いていた。
 “あのデブモデル、マジで死んだぞ!!!”
 バッとそんな文字列が目に入って少しビビった。急いで大がはっつけてたニュース記事を読むと、本当にあのクリステル・ウォンが急死したと書いてあった。なんでも仕事現場で突然倒れ、そのまま近隣の病院へ緊急搬送、しかし治療のかいもなしに亡くなったのだという。享年28歳、死因に関してはまだ不明だっていう。
 現実味なんか全然なくて、しばらくはエサを求めてる鯉さながら口をパクパクさせて「えっ、えっ」なんていう呆けた声を露にしていた。
 死なねーかな
 そんなさっきの叫びが現実化してしまったみたいで、かなり後味が悪い。背中では産毛だとか汗だとかが静電気といっしょに震えていて、嫌な寒気すら感じてしまう。
 でも、別にいいんじゃね?
 まったく藪から棒って感じで、心にそんな声が響いた。
 どうせクリステル・ウォンは太りすぎで死んだんだ
 世界中の少女に
 “太ってるあなたもサイコー!”
 なんて無責任にあおって
 バチが当たったんだ
 普通に考えて、太りすぎは健康に
 悪影響なんだよ
 痩せすぎもダメだが太りすぎもダメ
 もっと現実的に考えろよ
 だけどきっとこれで
 一子だって考えを変えてくれるはず
 一子
 おれはお前に
 このクリステル・ウォンだとか
 あと……
 芽御子おばさんみたいに
 いきなり死んでほしくない
 紫朗の全身がどうしてか緊張する。
 ずっと生きていてほしいんだ 
 そしていつものように、また学校に行き、朝の教室で友人たちと色々話したりする。教室は初期設定の陰気さがあるけども、何だかんだでみんな適当に喋ったり色々やったりしている。
 だけども今日は欠けているものがあった。
 一子がいない。
 いつもは最速で教室に来て、筆頭ではしゃいでいるのに一子がいない。今まで学校を休んだっていうこともなかった、皆勤賞レベルのものだった。なのに一子がいない。
 昨日の今日なので紫朗は少しばかり不安になる。“珍しいこともあるもんだ”とあっけらかんとなれればいいんだけども、やっぱり不安になった。
 そして結局、教師の増田が来ても一子が来ない。必然的に前の席は空白になっていて、それを改めて確認した時、こんな光景を初めて見たという思いになってしまった。
 教師によって名前が呼ばれていく。そのうち自分の名前が呼ばれて、挙手をする。その時に、心臓の鼓動の鳴りかたがおかしいと気づいた。こんなんじゃ自分が心筋梗塞にでもなった感じだった。
 そして教師によって、山崎一子の名前が呼ばれた。
 と同時に、教室に一子が入ってきた。安心した。
 だけども様子が違った。姿自体は変わらないのに雰囲気が幽霊みたいだった。
「……大丈夫か?」
 教師の言葉はそのまま紫朗の本心だったので、それをいきなり彼に強奪されたような気がして動揺した。
「大丈夫です」
 そう言ってから音もなく教室を歩き、そして一子は紫朗の前に座った。
 その背中は小さかった。1日ですぐに痩せるとかそういうことなんて起こるわけないので、全ては錯覚だ。そんなこと簡単に分かる。なのに紫朗には一子のあの大きかった背中が、今ゾッとするほどに小さく見えた。
 何度も何度も目をこすってから、目の端をメスで切り裂くみたいに見開いてその背中を見るんだけども、それを何度繰り返したとしても、一子の背中は完全に小さく見えた。
 恐ろしくなって、紫朗は急いで目を伏せた。そして頭に今まで見ていたあの脂肪の塊みたいな大きな大きな一子の姿を思い浮かべる、執拗にその巨大さのイメージを脳髄から引き出していき、確固たる明確にして、どこまで鮮やかで質感すらも豊かな一子をそこに生み出す。
 そしてもう一度、現実世界の一子の姿を見る。
 大きかった、普通に大きかった。
 彼女のドデカい後ろ姿は抱きしめたのなら、その柔らかさがもう自分の体ぜんたいに伝わってくるんじゃないかと思えるほどの、そういう大きさがあった。安心したよ。
 そしてその日から、一子は実際に痩せていった。
 紫朗の幻想とかではなく、きちんと物理的に一子は痩せていって、彼女の友人はもちろんだけども、大すらも紫朗に対して「あいつ、マジで痩せてきたよな。どんなダイエット始めたんだ?」と言ってくるくらいだった。
 そのまま一子は淡々と痩せていった。
 そのうち周りの女子生徒と同じくらいの体型になった。
 不思議とそれを越えて病的に痩せるということもなく、紫朗から見て50-60kgあたりで異様な痩せは当然のように止まった。
 端から見れば標準体型という感じだった。
 いわゆる“太りすぎでも痩せすぎでもない”という、健康っていう観点からは願ったりかなったりのちょうどよい体型だった。
 でもあの日から、マスクごしにも見えるあの輝くような笑顔を見せることはなくなった。目をゆっくりと細めて、便覧の菩薩のように微笑むってそういう笑みしか浮かべなくなった。
 紫朗も一子と喋ることはなくなった。
 いつからか痩せゆく彼女を目にするのが怖くて、自分から彼女を視界に入れないようにしていた。
 どこかで破綻を目撃するのではないかと怖かった。
 だがそういうことはなかった。一子は学校生活に支障をきたさない形で、紫朗にとってちょうどいい体型になって、それで終わった。その頃には紫朗は一子が視界に入らない生活が普通になっていたので、2人のあいだで何か別の事件が起こるであるとかそういうこともなかった。
 いつしか2人の間には特に何もなくなった。そういう感じで時間が過ぎた。
 だけども大学入学共通テストの時に、紫朗は一子を見かけた。
 テストを終えて家に帰ろうとしたら、会場の出口付近で見かけたんだった。鼻をすすりながら顔をあげると、前の方にスラッとした姿の少女を見かけて、それが一子だとすぐ分かった。だがこうやって“見かけた”という感覚がかなり久しぶりなものだったので、紫朗は不思議に思った。同じ学校に通ってるはずなのに。
 話しかけるなどはない。彼女に近づくというのもない。
 いつもの速度で歩く。彼女はそれより少し早めに歩いているらしく、自然と距離は遠ざかる。
 玉出紫朗は山崎一子という少女が好きだった。
 そんな文章が、ふと頭に思い浮かんだ。
 でもそれは過去の事実なんだ。
 紫朗はそう他人事のように思った。
 おれの彼女への恋心なんてものは
 おばさんへの愛着を勝手に
 押しつけるようなもんだった
 実際に一子を見てるんじゃなくて
 おばさんを見てたんだ
 それは一子に対して全く誠実じゃない
 だからあんなものは消え去ってよかったんだ
 これでいいんだ
 それに彼女は実際にちゃんと前より
 確実に健康になったはずなんだ
 少なくとも生活習慣病のリスクとか
 将来心筋梗塞とか心臓発作になる確率は
 間違いなく減ったんだ
 一子の人生はこれから絶対すごくいいものになる
 芽御子おばさんみたいに惨めに死ぬことなんてなくなる
 これでよかったんだ
 これでよかったんだよ
 そうだ、これでよかった
 これでよかった、何の文句もない
 これでいいんだ、これでいいんだよ
 これでもういいんだ

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。