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コロナウイルス連作短編その210「明日もまた生きていく」

 真南茶織は自宅のトイレに籠り、ただ壁を見つめている。
 数年この部屋に住んでいるが、この黄ばんだ壁を真剣に見据えるたび、シミでできた不気味な顔面が新しく見つかる。今日は両目と口を構成する3つの茶色いシミが、過剰なまでに縦に伸びている。
 気味が悪い。そして誰かに似ている。だが分からない。
 今日は厭な1日だ。あのLGBT法案が国会で可決されてしまった。修正前の法案ならまだしも現法案が通ってしまった今、予想通りLGBT当事者がこの流れに怒り、より密接な団結が行われようとしている。茶織にはそう思えてならない。
 以前の法案なら“ないよりはマシ”といった内容に当事者がガス抜きを行い、同性婚法制化を目指す今の苛烈な姿勢から勢いが削がれるのではないかと、彼女は期待していた。
 だがあの“マジョリティへの配慮”を求める現法案は当事者の神経を逆撫でし、廃案を訴えさせるほどだった。それが可決されるとなれば、確かに短期的にはこちらに利があるかもしれないが、中期・長期的には当事者側の草の根運動が活発化し、世論が彼ら側になびくことで、むしろマジョリティの権利が狭まるかもしれない。国会でのうのうと証言をしていた弁護士らや彼らを招聘した国会議員の危機感のなさには虫酸が走る。
 ある程度の懐柔案を提供できなければマイノリティ側に不満が溜まり反動が起きてしまう、これが茶織の考えだった。それはディストピアSFにおいて子作りが制限されても影で子供を作るカップルが現れると、そんな光景にも似るはずだ。そして決まってそういったカップルこそが作品の主人公であり、希望の象徴として扱われる。これは避けるべきだ。
 きっと現実の歴史においても、マイノリティ側の権利を抑圧する方向に進みながら、これに反発して彼らの権利主張が喧しくなり、これが力を得て情勢が一転するといった流れが現れたことは少なくないだろう。ある程度マイノリティを満足させガス抜きをさせることこそが統治においては重要なはずなのに、今の流れはその真逆を行くようだ。
 LGBT当事者による現状へのバックラッシュが始まろうとしている今、私たちは歴史に学ばなくてはならない。茶織はトイレの壁を見据えながらそう思う。

 だが突如激烈な腹痛に襲われ、彼女は思わず体を九の字に曲げる。そして下痢便が尻から溢れだし、便器の底へと落ちる。
 痛みのなかで、ゆっくりと込みあげてくるものがある。
 茶織は消化器官に持病を抱えており、通勤中や仕事中など見境なくかつ頻繁に公共トイレに駆けこまざるを得ない状況が8年ほど続いている。だがここ最近、明らかに男性としか思えない存在が女子トイレにいるのを見掛けることが加速度的に増えた。背の高さ、顔の形、ガタイのよさ、そういったものから見抜けることはもちろんだが、何より匂いと雰囲気によって確実にその存在が男性と分かるとの自負が茶織にはあった。
 粉っぽさとは真逆の、どこか太陽光にも似た爽やかな匂い。
 そして頬に埋まった毛根を暴力的に引き抜かんとするような、不可視のあの重苦しい重力のような雰囲気。
 少なくともこの2つを同時に感じられる存在は、女子トイレにいようが男性だというのが茶織には分かった。
 今日、オフィスと同階にあるトイレに入った際、正にそんな存在に出会ってしまった。マスクの奥の鼻のその粘膜、そしてマスクの隙間から少し露出した頬の皮膚、そこに衝突してきた感触によって一瞬でその存在がここにいるべきではない存在だと感じた。
 こういったものは感覚のより深部で、本能的に感じ取らざるを得ない。
 茶織は一瞬気圧されるも、踵を返してトイレから這いだし、そこから上階へ急いだ。しかしその途上の記憶がほとんどない、まるで壁に張られたポスターを力任せに剥がされたかのように。
 そして記憶は既に個室トイレの便器に腰を下ろしている自分の姿と、足に引っ掛かった下着についた、なかなか派手な茶色いシミから再開する。
 惨めだった。
 難病を患いもう8年だ。その初期には確かに下痢便を下着に漏らしたことも何度もあった。難治性の痔瘻を手術した後の数ヶ月は漏らすどころの騒ぎではない、体液の氾濫による尊厳の汚損を味わった。
 これらを経て己の障害ある身体の御し方をある程度把握し、こういった恥は掻かないようになっていた。生理と同じくもはや馴れていた。
 それなのに今、泣きそうだった。そしてこの恥辱の裏側にはああいった存在がいるというわけだ。今までは先に感じたような恐怖を覚えることもほとんどなかった。
 どうして今、こんなことになっているの?
 こういった疑問には、明確な答えがある。だがこれを言葉にすることが躊躇われる、今や内心の自由さえも失われようとしているからだ。だが茶織は怖かった、もはや誰が男か女かすら判別できない世界が怖かった。 
 そして茶織は今、自宅のトイレにいる。
 もう涙を我慢する必要はない。それなのにどうしても涙が出ない。
 ふと、このまま壁を見据えるばかりではただ虚無感に打ちひしがれるだけだと、スマートフォンを起動し、情報の洪水に脳髄を投げこんでいく。
 LGBT法案の可決で当事者たちが怒りの言葉を呟いている、これが大いなるうねりになるのではないかと不気味でならない……「ドイツ基本法」という法学書の邦訳が出版されることを知る、もう少し私たちも基本的な法律の知識を身につける必要があるのかもしれない……決済システムの誕生と歴史的発展について呟き、こういった学術的な理論に容易に触れられるのがTwitterの利点だ……
 そんななか、茶織はSigur Rósが新アルバムを出したというニュースを見つけ、心を掴まれた。高校に通わず不登校だった頃、部屋に籠り、親の財布から盗みとった金で買ったヘッドホンを着け、ネットで違法ダウンロードしたSigur Rósのアルバムを聞いていた。どのアルバムを聞いてたかなど思いだせない、ただ様々な曲をむやみやたらに大音量で流し続けていた。
 あの空気の波動のような音楽を聴いていると、自分の心も体も世界に溶けていくような感覚があった。不思議と心地よく、死なないことを続けることができた。そして生きないということを止める決心がつき、社会復帰を果たして今に至っていた。
 復調した後、Sigur Rósからは不思議と遠ざかっていた。だが10年ぶりのニューアルバムという情報に少し懐かしくなり、茶織はSpotifyでその“ÁTTA”というアルバムを検索してみる。
 出てきたアルバムジャケットを見て、心臓を握り潰されるような思いがした。
 そこには激しく燃え盛る虹色の旗が写っていた。
 茶織はしばらく呼吸ができなかった。だがその後、自然と涙がブワッと溢れだしてきた。何故ならSigur Rósが自分の恐怖や不安を見抜いたと、そんな気がするからだ。
 大丈夫、虹臭いやつらはこのまま燃えつき細かな灰となって、そしてそのまま消えていく定めなんだと、そうSigur Rósがこちらに語りかけてくれる気がした。
 だがフロントマンのヨンシーはゲイだったのでは?という疑問が首をもたげた。それも、しかし年を経て若い世代の活動家が見せる無闇な過激さに危機感を抱いているということだろうと茶織は納得する。保守化とはつまり良心の優先でもあるのだと。
 そしてイヤホンもつけずに、スマートフォンで“ÁTTA”を再生する。
 下痢便のすえた匂いがこびりついた狭い個室に、あの不穏でありながら心地のよい音が溢れだす。その響きに鼓膜を、全身の皮膚を揺らされるがままになると、静かに浄化されるような感覚がある。ただただ懐かしい。
 あっという間に曲が終り、次の曲が流れ始め、そこからあの清らかな声が聞こえてくる。ただ目をつぶり、その感覚を味わう。臀部の穴から、もはや尿と変わりない便がとめどなく出るのも気にすることはない。Sigur Rósだけを味わう。
 明日からも、また生きていける。急に、茶織にはそう思えた。
 芸術はそうして誰かの生を救う、芸術には唯一無二の大いなる力がある。
 そのうち、茶織はその“Blóðberg”のアイスランド語だろう歌詞がどうしても気になってしまう。ネットで歌詞を検索すると既に書き起こしがあるので、それをコピーしGoogle翻訳に入れる。するとこういった日本語の翻訳が出てきた。

[その辺は?]黒い。
クロージングが来ました。
お辞儀をする時間です。
ホーキンパイ。
前に出てください。
[グリッド/グリッド?] そして死が伸びる

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。