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コロナウイルス連作短編その212「狐の嫁入り」

 晴れたのだが,雨は未だに降り続けている.
 狐の嫁入りだな,政銅一木はこう思う.今年,8月に入って5回目のことである.
 太陽が燦々と殺人的に照りながら,雨もまた降り続けているというのは,少なくとも彼が子供時代には珍しい事象だった.虹が出るよりも,台風で木々が切り刻むよりも珍しかった.
 だが今は違う.一木にとって,この狐の嫁入りを網膜であったり,彼の剥き出しになった禿頭であったりに叩きつけられるのは,もはや蚊に刺されるよりも多い.
 一木ももう馴れている.最初は「狐の嫁入りだ」との言葉を実際に口に出し,折り畳み傘を鞄から慌ただしく取り出しながら,そうして空を見上げていた.見ながら短歌でもものせるのではないかすら思えた.だが回数を重ねるにあたって,その珍しい天候現象がどうということもない平凡な出来事として,その日常に根づくことを彼は感じている.
 今もそうだ.もう慌てることもない.傘も差す気分にならない.
 ただ歩く.雨のおかげで今は暑くない.元より雨に濡れ晒しているゆえ,首もとを透明な野良犬に舐め回されるような湿気を感じることもない.
 一方で尿意は催している.これで今日6回目であった.
 一木は1日1本コカ・コーラの700mlボトルを飲むことを止められないでいる.この習慣が1週間1ヶ月と続き,今は1年と5ヶ月ほどとなり,彼は糖尿予備軍となった.だが不思議と習慣は何事もないかのように続く.今日も2時間ほど前にコカ・コーラの700mlボトルを飲み,既に4回ほど排尿を行っている.
 そして再び尿意を催したので,一木はもうすぐで通りかかるだろうセブンイレブンで排尿を行おうとぼんやり思う.
 と,一木の網膜上で1人の通行人へ焦点が突然絞られる.見た目は特に特筆すべきところがない.ただその人物はスマートフォンを横に向けて何かを観ている.座りながら映画を鑑賞するような堂々とした佇まいだが,実際には目を液晶に向けながら歩いている.狐の嫁入りには目も向けない.
 その通行人も既に全てに馴れたのだと一木は思った.
 彼は何となく通行人をずっと見ている.一木は通行人側に歩いてくる,通行人は一木側に歩いてくる.ゆえに2人の距離は必然的に近づいていく.
 尿意というものは,何か塩辛いもののように一木には思えた.排泄された尿を戯れに舐めた経験はない.そして尿意はそもそも舐められない,股間で感じるだけだ.
 だが一木は確かに塩辛さをそこに感じている.舌でではなく,股間でだ.動物には舌以外にも触角や皮膚に味蕾があり,ゆえにそれらで味覚を感じられると聞いたことがある.そういった現象が,何らかの形で自身の股間で起こっていると一木はどうしてか感じるのだ.
 そして通行人と目があった.薄い目をしている.マスクはしていない.
 コンマ数秒の後に,通行人はスマートフォンに視線を戻す.
 だがまたコンマ数秒の後に,通行人は一木の顔に視線を戻す.
「何を観ているか気になります?」
 通行人はとても気さくに,まるでビールフェスタでビールを数杯も飲んで気分が乗った酔客さながら,一木に話しかけてきた.
「えっ,あっ」
 その咄嗟の言葉は,あの時に口に出した「狐の嫁入りだ」と同じ響きをしている.急に禿頭を打つ雨粒がより迫って感じられる.
「ポルノサイトですよ」
「えっ」
「だから,ポルノサイトです」
 一木は人並みに驚いた.いつの間に通行人は立ち止まっていた.そして自分も立ち止まっていることに彼はやっと気づいた.
「でも,別にポルノを観てるわけじゃないんですよ」
 通行人は人懐こい笑顔を浮かべながら言った.頬が少し赤らんでいる.実際にビールを飲んでいてもおかしくはなさそうだった.
「知ってますか? ポルノサイトってポルノ以外にも,たくさんの映画が違法アップロードされてるんですよ」
 通行人は少しばかり首を傾ける.律儀に左右と繰り返し傾ける.
「もちろんいわゆるポルノ映画もありますよ.でも他に,すごいレアな映画もアップロードされてるんですよ.ハルーン・ファロッキというドイツの実験映画作家であるとか,ジェームズ・ベニングという風景ばかり撮すアメリカの変な映画監督であるとかね.少なくとも日本では観られない映画がたくさんあって,世界の映画マニアは男女問わずポルノサイトでレア映画を探し求めてるんです.もしかしたら若い成人男性より,彼らの方が長い時間ポルノサイトに入り浸ってるかも」
 通行人は,はっはっは,そんな快活な笑い声をあげている.
「私もその一人で,ポルノサイトで色々とレア映画を探してて」
 通行人は少し恥ずかしげに,今度は左側にだけ首を傾ける.
「そこでね,ある映画を見つけたんです.“ピエロが泣いた日”っていう意味のタイトルなんですけどね」
 通行人はかすかに目を細める.
「この映画は,第2次世界大戦が舞台で,主人公はサーカスに勤めるピエロなんですけど,このピエロは演技が下手だわ素行不良だわで早々にクビになっちゃって,腹いせにヒトラーの物真似したらゲシュタポに捕まっちゃうんです.それで収容所にブチ込まれるんですが,その極限的な空間で初めてピエロとしての才能を開花させて,政治犯だったりユダヤ人の子供たちだったりみんなを笑わせることになるんです」
 通行人はまたさらに目を細める.
「でもそれをまた見咎められて,最後に連れていかれるのがアウシュヴィッツ収容所でした.そこでピエロはユダヤ人の子供たちがガス室に連れていかれるのを目撃します.ピエロはせめて彼らが苦痛を感じないよう芸を披露し,みんなも大爆笑します.そして子供たちはみんなガス室で虐殺されました」
 通行人は何度も瞬きをする.
「そしてドイツ兵たちはピエロのおかげで収容者が笑いながら抵抗なくガス室に入ってくれるのを喜んで,ピエロを殺す代わりに収容者を笑わせることを命じるんです.それからピエロはみんなを笑わせ,そのみんなはガス室で虐殺され,ピエロはまた別のみんなを笑わせ,その別のみんなはガス室で虐殺され……そしてアウシュヴィッツは死体が積みあがるにつれてむしろ笑い声はどんどん大きくなっていき,笑いが耐えない唯一無二の収容所になり,そこで泣いているのはピエロたった1人になりました,めでたしめでたし……」
 そう言う通行人の笑顔はとても柔らかい.
「でもこれ,主演兼監督の人が完成後にこれを封印しちゃったんですよ,あまりにも内容が陰惨だからって.その後は関係者が少しだけ証言を残す以外は情報もあまりないですね.監督はそのままフィルムを焼却してしまったとか,倉庫からオリジナルネガが発見されて2030年には解禁されるとか,色々噂はありますけど,杳として行方は知れず,そうして“ピエロが泣いた日”は幻の映画になってしまったと」
 通行人は髪から雨粒を勢いよく払う.まだ雨は降っている.
「で,あなたは……」
 一木は自身の禿頭を撫でる.
「その幻の映画をポルノサイトで見つけたと」
 その言葉に,通行人は目を輝かせる.
 だが通行人は何も言わなかった.「そうなんですよ!」とも「違いますよ」とも言わない.ただ輝いた目で一木を見るだけだ.
 一木もただ通行人の目を見るしかなかった.それでもその手元,そしてその両手が掴むスマートフォンが確かに視界にちらつく.
 液晶は見えない.完全に通行人の胸部を向いている.
 一木は動けない.
 それでも尿意というものは正直だった.いつものように大いなるうねりのように股間に渦巻き,決壊の時を迎えようとしている.
 ここからセブンイレブンはかなり近い.
 いや,一木は思う,それよりも近いのはカードショップだったか.そこのトイレはコンビニのトイレよりも清潔だ.おそらく店員に対する清掃指導が徹底されているからに違いない.
 ちなみに一木はそこでカードを買ったことは一度もない.カードには特に興味がないからだ.それでも投機目的に買ってみろと友人に薦められたことはある.まだ踏ん切りはつかない.だが確かに,トイレに行くついでに見るだけ見ても罰は当たらないだろう.それに,雨宿りにもちょうどいい.

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。