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コロナウイルス連作短編その93.5「都会の横顔、霧の音」

 空っぽになった東京という名の都市を、黒い馬が駆けぬける。イリス・コジェリはそんな風景を夢に見た。速度という言葉をめまいがするほど颯爽と体現する黒の色彩に、見とれてしまう。あの馬に乗って、東京という都市を、アルバニアの荒野を思うがままに疾走できたのならと願った。耳朶は蹄が大地をうがつ響きに揺れ、肩胛骨は馬の毛並みの微動に共鳴し、肉体の内部から音叉のようにしじまを発する。この夢をいつまでも見ていたい、そう祈る。だが突如、黒馬の前に灰塵色の巨塊が現れた。身体に衝突し、馬は憐れにも吹きとび、大地に倒れ、巨塊は音もなく消える。大地に横たわり、ブチブチという音を立てながら痙攣し、そうして馬は絶命した。動かなくなってから、唇の隙間から血と膿混じりの泡が這いずり出てくる。悲しかった。その悲しみに呼応するように、馬のかたわらにふと微かな人魂のような影が現れる。眼鏡をかけた子供だ。彼はおもむろにしゃがむと、その艶やかな毛並を撫でる。だが黒馬の命は完全に殲滅されている。

 悲しさのままに、イリスは目覚める。この悪夢を久しぶりに見た。
 廊下を歩く、排泄をする、顔を洗う、溜め息をつく。そうして朝の支度を行いながらも、脳裡にあの黒馬が勇壮の響きを伴いながら駆けるのを感じた。ふとタブレットで今日の日付を確認し、すこし気圧される。厩舎から馬が脱走し都心を暴走した挙げ句に、トラックに轢かれ非業の死を遂げたあの事故から、もうすぐで1年が経つことに気づいたのだ。右の肩胛骨が肉の深奥へと縮んでいくを感じる。イリスの心はその凄惨な事故を忘れようとしている、しかしイリスの脳髄にはあの光景が焼きついている。
 駅から大学へと歩く。1年前も同じ場所を歩き、そうして事故を見かけた。頸動脈を締めつける5月のぬるい大気、アスファルトを轢殺する車の群れ、密集しながら息を詰める建物たち、その真っ只中を質量を持った闇のような黒馬が疾走していくのを、イリスは呆然としながら眺め、だが少しだけ懐かしさすら感じた。その馬を小学生らしき少年たちが乗った、命知らずの自転車2台が猛追し、そのうちの1台に乗った眼鏡の少年が黒馬に触れようとした。だが黒い鬣を蜃気楼のように揺らしながら、馬はさらに速度をあげ、彼らの距離は容易く離れる。瞬間、銀色のトラックが馬に激突し、その身体は大地へと叩きつけられた。心臓を噛み砕かれるかのような衝撃に、イリスは思わず立ち止まる。
「何なんだコイツ、ふざけんなよ!」
 馬が痙攣し最後には微動だにしなくなった後、トラックの運転手が現れ、死骸の脇腹を蹴りあげる。そして逃げるように去っていく。残されたのは死骸と2人の少年だけだった。眼鏡の少年の許に電話がかかってきて、スマートフォンを耳に当てる。その時には居たたまれなくなり、イリスもまた逃げるようにその場を去る。大学には行けず、心に虚を抱いたまま部屋へ舞い戻り、黄昏の色彩がその空間を満たすまで泣きつづけた。
 事故現場の近くには、いつも色とりどりの花が置かれている。誰が置いているのかは分からないが、この前を通ると腐った肉のような辛辣な匂いに鼻の粘膜を焼かれるような感覚を味わう。それを味わうためにこそ、この前を通る。花を置いているのは自分と同じような目撃者かもしれない、もしくはあの自転車で馬を追跡し、その命が肉塊に果てるのを目撃した2人の少年かもしれない。もし後者ならば、あの眼鏡の少年だろうとイリスは思う。あの涙の粒のように脆く、蕩けるような姿をしていたあの少年。

 図書館で研究のための文献を読む必要がある。だがほとんど気乗りせず、イリスはただただノートに落書きを書くしかできない。惰性のように、指の関節や筋の存在をも忘れたまま、川の流れのように緩やかに手を動かす。描かれるのはあの黒馬と、そしてその背中で笑顔を浮かべる、イリスよりも若い女性だ。名前はマリエ・アゴリ、彼女の祖母であり、眠っている姿以外を一度も見たことがない女性だ。だが拙いシャーペンの筆致で、いつか祖父であるジミテルが見せてくれた写真を自分なりに再現していく時、心が落ち着く。世界は加速度的に不穏を増していくように思われる、自分の肉体すらも親指の先から腐っていくように思われる。その時に、祖母を想う。記憶のなかで静かに眠る、黄土色の皮膚に包まれた祖母を想う。
 スマートフォンにメッセージが届く。パリに住んでいるラウラ・シャナイというコソボ人の友人からだった。
 “ねえ、もうすぐパリのシネマテークで清水宏って日本の映画監督の特集がやるんだけど、この人ってイリスが研究している人じゃない?”
 それを彼女が覚えてくれているのが嬉しかった。
 自分が正確にいつ清水宏の作品と出会ったかは覚えていない。イリスの母であるジャンフィゼは無類の映画好きだった。彼女の熱意は相当なもので、幾らアルバニアが経済的に疲弊しようとも、持ち前の明朗さでそれを乗り越えながら、家族で映画を観ることで絆を確かめあった。小さな頃、ジャンフィゼが何処からかアーノルド・シュワルツェネッガー主演の『プレデター』のポスターをもらってきて、壁に張りつけた時の感動をイリスは今でも覚えている。迷彩柄の彼の顔と肉体は、これからの希望の象徴のように思えた。後に『粘土細工の鉛』というアルバニア映画で、同じくシュワルツェネッガー主演である作品『コマンドー』が、むしろアルバニアへの資本主義の流入と破滅をもたらす象徴として描かれているのを知った時は思わず苦笑したが、実際はこちらの方がまだ未来に肉薄していた。
 窮地を切り抜け、自身もまたジャンフィゼを受け継ぐシネフィルとなる頃、大学生になったイリスを迎えたのがYoutubeの時代だった。そこは宝の宝庫だった。世界中からどこの馬とも知れぬ人物が自分たちの国の映画を違法でアップロードし、著作権など完全に無視された真の無法地帯が出来上がっていた。イリスはその今まで経験したことのない壮大さに武者震いし、一時は途方に暮れながら、ネットの先輩シネフィルたちが刻む道標を辿りながら、世界中の国の映画を観ていった。
 しかしイリスが最も感銘を受けた作品は清水宏の“Z. Faleminderit”『有りがたうさん』だった。今まで日本映画といえば黒澤明か小津安二郎、それか物好きなポルトガルのシネフィルに薦められた佐藤寿保くらいしか観たことがなかった。当時はどちらかといえばイ・マニやユ・ヒョンモクなど韓国の映画作家にこそ耽溺していた。だが『有りがたうさん』が彼女の世界を全く違う形で切り開く。とあるバスの運転手、彼は朗らかな笑顔と雰囲気で乗客たちを迎えながら、伊豆の山道を走りつづける。乗客たちから親しみを込めて“有りがたうさん”と呼ばれるのは、道を譲ってくれた人々に「有りがたう!」と毎回言うからだ。後に上原謙という名と知るこの俳優の、奇妙なまでにとぼけて明るいこの声を聞いた時、最初は思わず怪訝さとともに笑ってしまった。だがこの言葉が劇中で何度も何度も繰り返されるうち、親しみが湧いてくる。乗客たちがこの言葉を彼のニックネームにした理由が、心で理解できるようになるのだ。この感謝の言葉が指し示すように、映画に満ちる空気感はとても優しい、運転手や乗客たちの間には親密なぬくもりが存在する。だがふとした瞬間に厭な、不穏な予感をも抱かされる。優しさのなかには、死の影すらも存在した。人生の裏側にある貧困、若い女性は売られもう戻ってこない、そして日本は戦争に突入していく。当時、そんな時の流れや歴史を読み取ることなどできなかったが、パソコンの液晶の前で全身の細胞がピリピリと火花を散らすのを感じた。その優しさに笑顔までこぼれる一方で、その残酷さに涙まで流れた。こんな経験は初めてだった。この映画に導かれ、イリスは映画の研究を志し、日本へと導かれ、そして今ここにいた。
 パリのシネマテークで清水宏作品の特集上映がされることを、研究者として当然知っていた。実は1年前の開催予定であり、イリスはこの時に旅行も兼ねてこの地で研究滞在を行う予定でもあった。ラウラたち友人にも会いたかった。だがコロナ禍によってこの未来予想図を根絶やしにされ、特集上映自体がうやむやになりながら、1年かけてこれを乗り越え、パリでとうとう上映が始まろうとしている。今度こそと意気込みながら、結局数々の障壁によってイリスは東京へ捨て置かれてしまった。歯痒さを感じながらも不幸中の幸いだったのが、特集上映のプログラマーである人物がコロナの合間を縫って東京へ留学を果たしており、彼から様々な話を聞くことができたことだ。特集上映の存在意義、清水宏作品のフランス受容などこれらを研究に組みこめたことを感謝せざるを得なかった。そして今後、このインタビュー記事の日本語訳はキネマ旬報に掲載され、友人であるミャンマー人映画批評家のマウンワナによってビルマ語訳された後に現地の3-ACTという批評誌に掲載される。なかなか悪くない、イリスはそう思う。
 “Perle éternelle”(『不壊の白珠』)
 “Un enfant dans le vent”(『風の中の子供』)
 “Une femme et son masseur”(『按摩と女』)
 “Pourquoi sont-elles devenues ainsi?”(『何故彼女等はそうなったか』)
 “Oublier même l'amour”(『恋も忘れて』)
 イリスはラウラにオススメ作品のリストを送る。

 結局、今日は研究を進めることができない。家に帰り夕食を取りながら、清水の“Masazhistët dhe një grua”『按摩と女』を観る。もう何十回目の鑑賞でありながら、他の作品と同じくその経験はいつであっても新鮮だ。今では英語字幕の助けも少しは借りながら、かなりの割合を日本語音声だけで理解できる。この領域に辿りついてイリスが気づいたのは、彼が演出する俳優たちの紡ぐ“語尾”がいかに豊かであるかだ。
 そうじゃありません“わよ”
 簡単でいい“んだよ”
 徳さん、お前の番だ“ぜ”
 変に気を回しちゃイヤ“あよ”
 さよならっつってかなくてもええか“ねえ“”
 清水作品の俳優陣は些か過剰なまでに間延びした形で台詞を紡ぐのだが、その影響が最も顕著に、そして印象的に表れるのが語尾だ。この語尾というものが耳に触れる時、イリスは清水宏の映画を観ているという心地よい驚きに晒される。この響きは意味というものを越えた、どこまでも純粋なニュアンスだと考える。だからこそ限りなく翻訳は不可能であり、下に出てくる英語字幕の滑稽なまでの空虚さには思わず笑ってしまう一方、こんな日本語を訳さなくてはならない翻訳家には同情してしまう。イリスは、自分もまた究極的にはこのニュアンスの大いなる塊の数々を理解しきることは一生できないと確信している。これを完璧に、自由に理解できるのは、何の因果か日本に生まれつきその大地で生かされた者たちだけだと。しかし理解しようと努力し続けることは自分にもできるとそう思う。そうして続けることを諦めないでいれば、超越的な何かに辿りつける、そんな妙な確信がイリスにはある。
 今日、特に印象に残ったのは、題名にもなっている目の見えない按摩と謎めいた女性の“かくれんぼ”のシーンだ。ある時、街中で按摩を見つけた女性は何か気まぐれに自身の存在を消そうとする。按摩は彼女の気配、それから匂いや音を感じながらも見つけることができずに奇妙に思う。そんな彼の様子を楽しげに観察しながら、女性は“かくれんぼ”を続ける。1930年代、日本は第2次世界大戦へと突入していくとそんな災厄の時代を迎え、この不穏は『有りがたうさん』などの清水作品にも節々に表れる。イリスがこの時代の邦画全体に感じるのは、その不穏が生み出す息苦しさや抑圧だった。だがこのかくれんぼの蒸せ返るような官能性は一体何なのだろうか。人間と人間の気まぐれな駆けひき、魂と魂が静かに触れあう美しさ。イリスにはこの場面が、1937年製作の“Harroje dashurinë për tani”『恋も忘れて』から清水作品に関わり始めた、撮影監督である斎藤正夫の眼差し、その真摯さが最も濃厚に浮かぶ一瞬とも思える。この場面では主観ショットが多く使われるが、目の見えない按摩の主観というものが堂々と映画を牽引するので驚かされる。この限りなく映画的としか言い様のない嘘が、2人の駆けひきに背筋が心地よく痺れるような官能をもたらす。イリスは思わず右の耳を引っ張ってしまう。
 映画を観ている最中、ヴェネラ・セルマジャイという人物からメッセージが届く。イリスの執筆した小説に、アルバニアの大衆新聞Në kërkimが高評価を与えたという内容だ。イリスは映画の研究者であると同時に、何の因果か小説家でもあったが、こうなることは全く未来予想図にはなかった。邦画の研究に行き詰まりを感じていた際、イリスは友人から何か全く別の文章を書くことを薦められた。彼女はイリスが日本で体験していることを、小説という形で読んでみたいと言ったんだった。日記やエッセイではなく、小説。これに興味を覚えたイリスは自身の体験を元にしながら、断片としての物語をいくつも紡いでいく。そうするうちに、自身の現実とは微妙にズレた虚構の美しい世界が立ち上がっていくのを感じ、興奮を覚えた。友人にもその熱気が伝わったのか、イリスの作品へのめりこむと同時に、熱心にそれを読むよう周囲に薦めていく。そしてこの文章が編集者であるヴェネラ・セルマジャイの目に留まったのだった。気づくとその文章が長大な物語となり、あまつさえ本として出版することが決定し、それが未だにイリスには信じられないでいる。題名は“Profili në qytet, tingujt e mjergullës”『都会の横顔、霧の音』で、当然清水宏の作品から引用したものだ。ここに描かれている、自分のなかのアルバニアの血に、日本や東京の文化が交わりあう過程を表現するに、これがうってつけのように思われた。実際の映画の内容と小説の内容はなかなか乖離があり、日本のシネフィルがこれを知れば反感を抱くかもしれない。その時は素直に謝ろうと思う。
 イリスは眠り、再び夢を見る。蜃気楼の世界であの黒馬が疾走を遂げている。前と違ったのはその背に何者かが乗っていることだ。艶やかな黒髪、黄土色に輝ける笑顔、祖母のマリエだと分からないはずはなかった。彼女の存在に奮い立つのか、黒馬の躍動は前よりも生き生きとして、蹄の響きも美しいまでに壮大だ。嬉しかった、しばらくは全てを忘れていた。
だが灰塵色の巨大物質が彼らを事も無げに轢殺する。祖母の身体の肉が吹き飛ぶ。瞬間、イリスは目覚め、無意識のうちに自分が涙を流していたことを知る。顔からその跡が消え去るように、皮膚を強く強く擦る。

 家に相渡萌香という高校生の友人がやってくる。
「ミラディタア」
 玄関にやってくるなり、アルバニア語を使うので何かむず痒さを覚える。Mirëditaは“こんにちは”という意味だ。マスク越しに聞こえた彼女の拙い発音が愛おしく思える。
 萌香はアルバニアの文化に相当な興味を持つ、なかなか珍しい少女だった。アメリカに住む友人のブレルタ・ハラディナイから彼女について聞いた時は、俄に信じることができなかった。悲しいが世界的にも見ても、アルバニアという国名を知っている人間、アルバニアの場所を地図で指し示すことのできる人間は完全な少数派だ。日本ではよくアルメニアと間違えられ、そのせいで最近はナゴルノ=カラバフ紛争についての心配をイリスは受けていたが、そのたび苦笑混じりに訂正する必要があった。だがだからこそ信じられずとも興味が湧く。ブレルタから連絡先を尋ね、イリスは彼女にメッセージを送ってみる。1時間経たないうちに返信が届き、驚かされる。
 “Mirëdita! Unë quhem Moeka Aito. Gëzohem që u njohëm!”
 “こんにちは! 私の名前は相渡萌香です。宜しくお願いします!”
 文頭には語学書の第1章に書かれている類いのアルバニア語が書かれ、ブレルタにアルバニア語を学んでいるのは本当なのだなと思う。その後から萌香は日本語で自分が何故アルバニアの文化が好きかを語っていく。
 “まずアルバニアの文化が何で好きかっていうのは、デュア・リパからです。ビリー・アイリッシュとかも好きだけど、一番好きなのはやっぱりデュア・リパで、昔と未来が混ざっているようなポップな音楽を聞いていると気分がワイワイするんです。それで色々調べていたらデュア・リパがコソボという国出身のアルバニア人であることを知りました。そしたら前から聞いてたビービー・レクサやリタ・オラという歌手もアルバニア人というのを知って驚きました。こんな世界を席巻する歌姫をいっぱい出すってアルバニアってすごいところなんだなあ、でもこの国のこと全然知らないなあ。そこから興味を持って、アルバニアについて調べ始めたんです”
 そんな萌香の言葉に驚くほど胸を打たれている自分に気づく。イリスはアルバニアに対してそこまで愛国的という訳ではない。そして国と個はいつであっても切り離して考えるべきであると、ユーゴスラビアにおけるアルバニア人の受難を鑑みればその考えに至らざるを得ない。それでも萌香のアルバニアとその文化へのひたむきな興味は心の琴線を揺らして止まなかった。アルバニアに興味を持つ存在との邂逅が初めてすぎて、全くこの事態に準備できていなかった。
 イリスはその興味に深く感謝した後、照れや嬉しさの勢いのままにアルバニア、コソボ、そして北マケドニアにまで股がるアルバニア人の文化を萌香について話し、特に気に入っている芸術を共有する。アルバニア文学の巨人イスマイル・カダレは勿論、2020年にEU文学賞を獲得したコソボ人小説家のシュペティム・セルマニ、北マケドニアのアルバニア人詩人ルルジム・ハジリ、コソボのポップ・バンドSytë(“瞳”という名のアルバニア語だ)……そうしてアルバニアの文化を羅列していくことの喜びに、イリスは深く浸った。
「私にはきょうだいが1人います」
「えーっと……ユナ・カム・ニャ……“きょうだい”って何だっけ、何でしたっけ」
「“Vëlla”だよ。Unë kam një vëlla」
「ユナ・カム・ニャ・ヴァッラ」
「ミラは夕食を食べにレストランへ行きます」
「ミラ……“行きます”って未来形ですよね……ミラ・ド・タ・シュコ・ポ・ダルカ・ナ・レストラントかな」
「動詞の活用と前置詞が間違ってるね。Mira do të “shkojë” “për” darkë në restorantって感じ」
 萌香は悔しげに唇を噛むが、その向上心と好奇心は眩しいし、頼りがいがある。アルバニア語のレッスンを終えた後、萌香が映画を一緒に観ようと誘ってきた。アルバニア映画アーカイヴに勤めるブレルタの友人がレストア作業を行った作品、それが期間限定で無料配信されるのだという。
「英語字幕つきだから一人でも観られます。でも横にイリスさんがいたら、もっといいなあって思って」
 そんな言葉に思わず頬が緩む。
 『ある馬の死』と名付けられたこの作品を、萌香は深い熱心さで以て眺めている。イリスは逐次作品に関する解説を加えるのだが、驚いたのは萌香がノートへと常に何かを書きつけていることだ。映画が促す思考やイリスの言葉を、紙の白さへとブチ撒けているようだ。砂粒のように細かい字が、加速度的に紙の余白を満たしていく。視線はパソコンの液晶とノートを行き交い、その真剣さに空気すらピリピリと震えるようだ。萌香の好奇心と好きという感情の深さを、イリスはまざまざと目撃する。
「本当にすごい映画でした」
 観賞後、萌香は濃密なまでに熱っぽい息を吐き出す。
「この映画を観て思ったんですけど、アルバニア人と馬の関係性ってすっごく深いんだなって。前に『霧の守護者』っていうコソボ映画を観たんです、多分イリスさんは知ってると思うんですけど。そこで冒頭、燃え盛る馬がコソボの大地を駆け抜けて、炎の一線を描きだしていくって風景に本当衝撃受けて。こんな風景見たことないって思いました。その後にこの映画じゃないですか。主人公が自分の人生を犠牲にしてまで愛馬を救おうとするあの深い絆、感動しました。撮影も何だか蜃気楼のなかに馬たちが影として浮かびあがるみたい。走馬灯ってこういうことを言うんじゃないかとか思ったり。あと……」
 それから萌香は唾を勢いよく飛ばしながら、いつまでも『ある馬の死』について喋り続けてイリスを困らせた。
 イリスはささやかな晩御飯を作り、萌香と一緒にテーブルを囲む。作ったのは鯛のムルフェ、最近イリスは韓国料理に嵌まっているが、これと白飯をいっしょに食べるのが好きだ。
「美味しいですね、これ」
「でしょ。ハ・ジョンウみたいにモリモリ貪ると、もっと美味しく感じるよ」
 イリスは買ってきていたほろ酔いを飲む。酒には弱いので、これくらいアルコール度数が低く甘いお酒がちょうど良かった。
「私も飲みたいっす」
 萌香がニヤニヤする。
「あなた、何歳」
「えーっと、81歳です」
「18歳でしょ、日本ではお酒は20歳になってから」
「そんなん、誰も守ってないですよお」
 萌香はイリスから気まぐれに缶を奪い取り、そのままお酒を飲んでしまう。ぷかぁと間抜けな声を唇から漏らし、本当に満足げな表情を浮かべる。軽い酩酊のなかで2人は他愛ない会話を繰り広げる。
「ちょっとゲスなこと、聞いていいですか」
「いいよ、もしかしたら苛ついて眼球に箸ブッ刺しちゃうかもしれないけど」
「イリスさん、こわあ……まあでも聞くんですけど、日本人と付き合ったことってあります?」
「ははぁ、今どきそういう質問は無神経ってアメリカや西欧諸国の方々に言われるよ」
「まあ、そうですよねえ」
「でも私は東欧諸国の人間だからね、答えましょう。日本人と付き合ったことはあるよ、2人ね」
「へええ」
「1人目が大学生、新宿武蔵野館でアルバイトしてた女の子。2人目が典型的な商社勤務男性って感じの人」
「へええ、あの、男の人も女の人も好きになる人なんですか」
「というか、そういう性別を意識してないというか。バイセクシャルっていうかパンセクシャル寄り。私自身にも性別みたいな認識はなくて、だからノンバイナリーって感じなのかな。ハッキリしないけど、唯一確かなのは私はそういう曖昧な感じってこと」
 鯛の刺身にデロデロとチョジャンをドロドロにつけて、食べる。頬が熱を帯びるほどに旨い。
「ねえさっき、あなたばっか話して私、映画について全然話せなかったよ」
「えっ、それはすんません……」
「だから今度はこっちが話させて」
「もちろん、もちろんです!」
「ファレミンデリト!」
 アルバニア語で“ありがとう”という意味の言葉を、わざと日本語訛りで言う。
「さっき解説でちょっと言った通り『ある馬の死』って映画は、クソ独裁者だったエンヴェル・ホッジャって独裁者の共産主義政権が崩壊して最初に作られたアルバニアの長編映画なんだけど、製作年は1992年、これ私が生まれた年なんだよね」
「へええ、マジですか」
「マジだよ。だからそういう意味で結構思い入れがある映画なんだけど、それ以上に興味深いことがあってね。この映画は実在の出来事に材を取っていて、だからあの主人公や彼の愛馬、潰されようとしていた厩舎にはモデルがあるんだけど、ジミテル・アゴリ、私のおじいちゃんが実際にそこに勤めてたんだよ」
「うっそお」
「ホント。そこで馬の飼育をする軍人の1人として働いていたの。ジミテルおじいちゃんはね……」
 イリスは言葉を紡ぎながら、思い出の世界へと埋没していく。

 ジミテル・アゴリという男は頗る物静かな人物だった。それが極まりすぎて取っつきにくい人みたいに扱われる時もありながら、イリスは本当に優しい人だという信頼を確かに抱いている。『ある馬の死』の主人公、そのモデルとなった人物にも信頼されていたと聞いたこともある。それでも彼が人間より動物を好み、心が通じあっていると彼自身が信じていたことは認めざるを得ない。特に馬たちへの愛情は海溝よりも深いものだった。寡黙に、静寂のなかで彼らが唇から息を漏らす響きに触れながら、馬たちを世話することを至上の喜びとしていた。乗馬の腕も一流であり、仕事の合間にも彼らの背中に乗り、ともに駆けることを忘れることはない。だがイリスが生まれる前に、共産政権によって厩舎は廃止されてしまい、妻であるマリエの故郷へと赴き、そこで家畜を育てながら後半生を生きている。逃走する雄鶏を機敏な動きで捕まえる、犬たちがわちゃわちゃと騒音を立てながらじゃれあうのを目を細め眺める、そして煉瓦色の馬に乗り黄土色の大地を駆け抜ける。そんな子供時代に見たジミテルの勇姿を、イリスは今でも覚えている。今後も忘れることはないだろう。
「だけど本当にカッコいいのはお前のおばあちゃんさ」
 馬を駆るジミテルに感嘆の声をあげるイリスに対し、彼の言った言葉だ。
 だがイリスの記憶には、目を閉じてこんこんと眠るマリエの姿しかない。
 ジミテルとともに故郷へ舞い戻った後、マリエはささやかな生活を送っていた。だが突然の心臓発作により昏睡状態に陥った彼女は、その時から20年以上もの間ただただ眠り続けている。イリスが物心のついた頃には既にベッドの護り手といった風な存在になっており、眠っている姿しか見たことがない。そんな彼女をジミテルは甲斐甲斐しく世話し続けていた。娘であるジャンフィゼにティラナへの移住を薦められながら、頑としてそれを拒み続ける。妻を彼女自身の故郷から外へと連れていく気は一切ないとでもいう風に、ジミテルは無言で娘を睨みつける。それを目撃してしまった時、イリスは心の臓を握り潰されるような痛みを感じた。ジミテルは来る日も来る日もマリエを世話する。だがいつ目を覚ますかなど誰が知るだろうか?
 ある時、イリスはマリエの傍らで本を読んでいた。何を読んでいたかは記憶にもうない。だが紙を視線で撫でていると、ふと物音がして顔をあげることになる。特に何か変わったところはない、どこから物音が響いたのか分からない。再び紙に瞳を向けながら、また響く。少しだけ恐怖を感じて、肩を回しながら周囲を見渡していると、視界の端で動くものがあった。シーツの上に置かれている祖母の手が動いていたと、イリスは思う。下唇を静かに噛む。窓からは紫色の夕陽が差しこんでくる。恐る恐る右手を伸ばし、マリエの黄土色の肌に触れる。瞬間に、彼女が柔らかな笑顔を浮かべ、唇を微かに開く。外へジミテルを呼びにいくと、彼は丸々太ったドナという黒斑の猫の喉を撫でていた。その手を引いて寝室に戻りながら、マリエは永遠の眠れる姫へと戻っている。表情というべきものは存在していない、大木にうがたれた穴のような虚無だけが広がっている。
「嘘をつくんじゃあないよ」
 ジミテルはイリスを叱りながら、顔には怒りでなく慈しみが浮かんでいる。彼は庭へと戻っていき、イリスは傷心で椅子にまた腰を据える。嘘じゃないのに、そう思いながら本を探すが、見つからない。気づくとそれはマリエの重ねられた掌の下にある。こんなところに本を置いた訳がなかった。何かささやかな異変を目撃したような気がした。嬉しかった。おばあちゃんと自分だけの秘密を持ったような気がしたからだ。
 この記憶はジミテルのある話と緩やかに繋がっていく。イリスはそれをホットミルクを飲みながら聞いた覚えがある。馬を自由に乗りこなし世界を駆け抜けていた若きマリエの勇姿。ジミテルとマリエが未だイリスの歳の頃、女性たちは勤勉に畑と家の世話をすることを求められ、そこから逸脱することは深く咎められた。そんな中でマリエは頭に輝くようなスカーフを巻き、水玉のシャツをサッパリと着こなしながら、溌剌の熱気を散らしながら生を謳歌していた。イリスは実際その風景を見たことはないが『タナ』という映画を観る時、題名にもなっている主人公のタナに幻影の面影を重ねてしまう。イリスがタナの姿を見て心を奮い立たせられるように、マリエの姿も農村の人々を、何より若いジミテルを魅了し、明日への活力をもたらした。
 そして女性が馬に乗ることはあまり歓迎されなかったが、マリエはそんな暗黙の了解など無視して馬とともに走った。ジミテルは“アルバニアのゴダイヴァ夫人”と彼女を形容する。イリスは、その姿が何より小さな少女たちに勇気を与えたのではないかと思われてならない。同じく乗馬を得意とした祖父は、他の村民たちよりも滑らかに彼女と親しみ、距離を近づけることができた。それでも共に馬で駆けることのできたのは深夜、月光だけが闇を彩る時間だけだった。密かに落ちあい、馬たちを小屋から解放し、早鐘をつく鼓動を共有しながら、彼らの背に乗る。自由に野原を駆けまわり、風を感じている時、ジミテルは本当に幸せでマリエもそう思ってくれていることを願った。一方で傍らで疾走するマリエが闇と一体となるような気がして、時々戦慄をも抱く。馬と闇に祝福されるマリエの姿は、燃え盛る黒い炎のようだったとジミテルはうっとりとイリスに語った。そうして彼は友人が描いてくれたという、馬上のマリエを綴った鉛筆画を見せてくる。若く輝ける笑み、頭上へと高く上げられた左手。鉛筆の高貴な黒は、マリエの魂の色だった。

 萌香が帰った後、何気なくインターネットを探索していると『都会の横顔、霧の音』のレビュー記事を見つけた。酷評だった。
 “確かに、異国趣味というのは時代遅れだ。だが芸術家が独善性を捨てて配慮を身につけた末にできるのがこういったぬるい芸術作品ならば、むしろ時代遅れである方がまだマシというものだ”
 イリスは、はははと笑った。思わず、でなく意図的に喉から笑いを発したが、これを続けていると機械的な笑いが止まらなくなり、破壊された人形さながらの哄笑を続けた。数分が経ってようやく笑いを押し留める頃、刹那に怒りが湧いてきて、自業自得の結果が目に見えていながら机の足を蹴った。痛かった。
 酷評を忘れるため眠ろうとするが、全然ダメだ。いつの間にか朝になっているので、イリスは驚く。もう眠れないと観念して、目薬をうち、シャワーを浴びる。鬱々とした心に共鳴するような、清水作品でも特に陰鬱な“Një grua qan në pranverë”『泣き濡れた春の女よ』を観る。イリスも大日方伝演じる炭鉱夫が雪道で上官にしたように、あの酷評記事を書いた記者を剥き身の暴力で以てボコボコに殴ってやりたかった。
 しばらく経っても鬱々は霧消しないので、研究のために大学へ行くのは止め、近くの街を散策することにする。インド株であるとかデルタ株であるとか、未だにコロナ禍は収まることなく、日本の日常を覆い尽くしている。もうすぐで夏も始まるのに、道行く人々は暑苦しいマスクで口を覆い、それに曖昧な不満を抱くイリス自身もまたマスクを外せない。マスクは自分がコロナに罹かるのを防ぐ以上に、誰かにコロナ含めウイルスを移さないためだと思い、自分を律している。それでも監獄にいるような不自由の感覚は抱かざるを得ない。
 パスタ屋で何となく食事を終えた後、イリスは思いきって近くの名画座へ映画を観にいく。コロナ以前は当然東京のあらゆる名画座をめぐる日々を送っていたが、今では“思いきって”でないと行くに行けない状況が広がっている。上映されていたのは成瀬巳喜男の『ひき逃げ』だった。高峰秀子の一人息子が何者かに轢殺される。この交通事故の謎を追ううち、彼女は自白した男でなく彼を雇っていた会社社長の妻が事故の当事者と知り、家政婦として彼女の家庭へ潜入する。成瀬の作品としては異様なまでに節度がなく、過剰な熱気を感じさせるノワール映画で違和感を抱く一方、今までにない技法を実験的に使う野心に感銘を受ける。彼は同年に『女の中にいる他人』を、1967年に『乱れ雲』を作った後にこの世を去るが、もしこの『ひき逃げ』が遺作となっていたら、成瀬の映画作家としての受容は今と全く異なる様相を呈していたのではないか?
 ロビーに行くと、偶然友人のマウンワナを見かける。彼も『ひき逃げ』観ていたらしい。イリスを認めるとマスクの位置を調整しながら、近づいてくる。
「いや、本当にあの作品は酷かったな」
 マウンワナは訛りの濃厚で、だからこそ優雅な英語を駆使して『ひき逃げ』がいかに成瀬の晩節を汚すような作品かを、のべつまくなしに語り続けた。この作品が遺作じゃなくてよかった、とその最後に深く安堵するように言った時、イリスは思わず吹き出し、彼は怪訝な表情を浮かべる。イリスは今作の時代背景、交通戦争という戦争よりも交通事故で日本人が息絶えていた“交通戦争”という名の時代について語った後、気まぐれに今作を観ながらふと思いだしたアルバニアの映画作家スパルタク・ペツァニについて語る。彼はアルバニア映画でも屈指のジャンル映画作家で、アルバニア映画界の伝統である子供映画とパルチザン映画を掛け合わせた1作『将軍が捕虜になる』や、レイプレベンジものやロジャー・コーマンが多く製作したバイカー映画のハイブリッド作品『強姦魔』など、ジャンルというものに意識的な作品を多数製作した。今ではイタリアのTVで流れていそうなダサいメロドラマばかり作るぬるい職人監督と見なされているが、彼女はペツァニはそれ以上の存在と確信していたし、この『ひき逃げ』という作品を彼が作っていてもおかしくはないとも思える。こうしてジャンルへの先鋭化した意識でペツァニと成瀬が繋がった事実に驚き、高揚を抱く。
「君からアルバニア映画について聞いたの、初めてな気がするな」
 マウンワナが頬を掻きながら言った。それから名残惜しげに2人は別れる。
 ファミリーマートで夕食を物色していると、突然、母のジャンフィゼからビデオ通話がかかってくる。液晶に映る彼女の顔は、涙と鼻水でもはやグチャグチャだった。彼女はマリエが息を引き取ったと語る。20数年間、目覚めることはなかった。彼女の瞳をイリスは観たことがない。

 マリエおばあちゃん、元気ですか。私は相変わらず日本で映画を研究する日々を送ってます。コロナでアルバニアに戻って、直接、私の毎日について話せないのは残念だけど、だから代わりにこの手紙を送ります。

 私は今、栃木県・那須塩原の畑下温泉というところにいます。前にも話した清水宏という映画監督、彼が1938年に『按摩と女』を撮影した場所です。多分、この映画については前に何度も話したよね、だって彼の作品でも1番好きな映画だから。でもロケ地である畑下温泉へ、時々旅行しに行ってるっていうのは初めて話すと思う。東京から結構近いから、何度も行ってます。最近はやっぱりコロナのせいで心も体も遠ざかっていたけれど、最近悲しいことがあり、思わず行きたくなったんでした。

 東京から列車で那須塩原へと向かい、駅からは歩いて旅館へ行きます。この歩いていく時間が私は大好き。清水宏くらい人が歩いていく姿を魅力的に、かけがえのない形で捉えられる映画監督はいないと思う。歩くことが人間にとって欠かせない営みなのだと、思わされるというか。おばあちゃんも乗馬と同じくらい散歩が好きだったとおじいちゃんから聞いてるので、彼の作品を観れば私の言うことを分かってくれるんじゃないかな。

 そして清水の捉え方が素晴らしいというのはただ綺麗だとか美しいだとかいうだけじゃないです。歩く人と空間の関係性というのかな、この2つが影響しあう様が複雑に捉えられているって。街中、路地裏、山道、闇。そういった空間を人が歩くことの意味、これを深く考えさせられます(この関係性を魅力的に描いたアルバニア映画はそう多くないけど、前に観たヨニ・シャナイという監督の『ファルマコン』は、正に歩くという行為とティラナの荒涼たる独特の街並みが密接に関係しあう作品だと思ったな)

『按摩と女』では、よく主人公たちが木造建築の素朴に立ち並ぶ道を歩きます。当時から80年が経った今、建築はコンクリートで建て直され、あの時代を感じさせる雰囲気は、悲しいけど薄いです。でも歩いてる途中、ふとした瞬間に残り香を感じる時があるの。何だか錆びて汚れたお店の看板、道にポツンと立っている小さな石碑、そういうものに"風情"を感じる。"風情"というのは"優雅さ"みたいな意味だけど、文字通りには"風の情感"という意味でもあるの。この言葉が好き。さっき昔を感じさせる雰囲気は薄いと書いたけれど、でもこの道には風情が溢れていて、私はここを歩くことでそれを思う存分味わってるような。

 今回泊まる枝の恵という旅館には何度もお世話になっていて、女将の坂下光里さんは日本のおふくろさんといった風な人。旅館に泊まる時は本当に深いおもてなしをしてくれるし、実はそれ以外でもメールを交換するくらいの仲です。今度も彼女は目を有難いくらいに細めて、私を迎えてくれたけど、口にはマスクを着けていて、その笑顔を全部見ることはできなかった、それが悲しかったな。

 部屋に通されてすぐ、私は畳に寝転がりました。畳の爽やかな匂いにはおじいちゃんの家の庭を想いだして懐かしくなるし、でもそこに外から響いてくる川のせせらぎ、涼風の音はこの場所にしかない響きで、2つが私の耳のうちで交わりあうのが何とも気持ちいいです。それから近くの山道へ散歩にも行きました。山道も『按摩と女』にはよく出てくる。だから散歩してる時は、映画のなかに迷いこんだ気分でワクワクする。しばらく歩いていると、着物を身に纏った女性の後ろ姿が見えました。高貴な紫の柔らかな着物に、結んだ艶やかな黒髪が映えていて、同じ艶やかさを持つおばあちゃんがもしこの着物を着たら、似合うだろうな、そんなこと思うと彼女は消えていました。

 マリエおばあちゃん。朝ご飯を終えた後に、光里さんが私をある場所に連れていってくれました。静かな中庭に面した広間、その壁の片隅にある小さな絵が飾られてました。そこにはある村の風景が描かれてるの。1番手前には黒みがかった幹を持つ木が根を張って、深緑の葉々を揺らしてる。おばあちゃんの肌をもう少し薄くした控えめな黄土色の大地では、その木が齎す影もまた揺れてる。その奥、日常に馴染んだ親密な服に包まれた人々の後ろ姿が見える。彼らは多分、安らかに笑顔を浮かべながら、赤茶色の屋根が美しい建物へ入っていく。
 おばあちゃんなら、この絵に覚えがあると思う。そう、ヴァンデュシュ・ミオのあの絵。おじいちゃんは彼の絵を"アルバニアの魂"って呼んでいて、おばあちゃんも好きだったって私に話してくれた。そんな絵にまさかここで出会えるなんてって、驚きとか嬉しさとかそれ以上のものを感じた。前にも話した通り光里さんとはずっとメールで話していたのだけど、その時にミオの話もしたの。ネットで彼の絵を見て、とても感動して、思わずその複製画を買ってしまったって、彼女ははにかみながら話してくれました。鮮やかな儚さ、そんな風に光里さんはミオの絵を表現してた。

 それから二度寝して12時に起きた後、私は近くの小川に行きました。近くでせせらぎの響きを聞きたかったから。妙に険しい川岸を歩いて、座るのに気持ちよさそうな場所を探していたけれど、そこで見覚えのあるあの紫色が視界に入りました。彼女だって、一瞬で分かった。泰然と釣り糸を川に晒しながら、私に引き締まった横顔を見せていて、少しドキドキしたな。重力に引きずられるみたいに、私は彼女の元に歩いていって、その途中で私の身体を受け入れてくれそうな形の岩を見つけたから、そこに座った。しばらく彼女が見据えている方向に、視線を重ねてました。モコモコとした濃緑の森が、柔らかな印象とは裏腹に不吉な形で広がっていて、心臓のドキドキがざわめきに変わるのを感じました。目薬を差したくなるほどの焦げつきを瞳に感じて、目を擦りながら首を振ると、彼女が私を見ているのに気づいたの。蛍の光のようなささやかな微笑を浮かべて、私を見てた。「こんにちは」って言ったら「こんにちは」と返事をしてくれた。
「釣れますか」
 私はそう聞いた。
「ここじゃ何も釣れないわ」
 彼女はそう言いました。
「じゃあ、何でここで釣りをしてるんですか?」
「こうしてるのが好きなの」
 食欲的な、ふっくらとした語尾に首筋を撫でられるみたいだった。一瞬視界が暴力的なまでにぼんやりして、私自身が蜃気楼になったような錯覚の後、また鮮烈に意識が戻って、私は思わず横を向いたの。彼女、またいなくなったと思った? 全然! 釣り糸を垂れたまま、仙人みたいな佇まいで微動だにしてなかった。

 私たちは日が暮れるまで川岸にいて、結局一緒に帰ることになりました。少し喋ると彼女も同じ旅館に泊まっていることが分かって、その時に皮膚がピリピリと火花を散らすのを感じたの。
「この後、あなた何するの」
「ああ、露天風呂に入ろうかって」
「じゃ、私も入ろうかしら」
 そんなことを言うので耳を疑ったな、彼女との距離感が掴めなくて翻弄される気分だった、でも悪くない心地でもあってね。
 部屋から洗面道具を持ってきて、私たちはお風呂の入り口で落ちあった。その時もまだ紫が彼女の身体と一体化して輝いてた。でも着替え場に入って、彼女はスルスルと着物を脱いで、裸になる。その軽やかさにむしろ私は恥ずかしさを感じて、物凄くモタモタと服を脱いでた。
「先、入ってますからねえ」
 また、彼女の後姿を見た。オーラみたいにあの紫が白皙の背中を包んでいて、綺麗だった。そして私も裸になって、ドアの前に立つ。でも本当にここに入っていいのかな、なんてすら思った。それで、本当に私は逃げてしまって、部屋に駆けこんで、畳に慰めてもらうことになってた。

 露天風呂に少しだって入ってないのに、既にのぼせたような気分で、私は木の目が波紋のように重なりあう天井を見てた。そこで、もし風呂に入ってたらどうなってたか考えたの。ドアを開いた瞬間に彼女の白と紫の交わる背中が、真っ先に目に入るって思う。でも本当に見てしまうのは、肩胛骨かもしれない。紫の着物の奥には、何故だか武骨で力強い、しなやかな骨と皮膚の織物があると思えた。それが月光に晒されて、夕暮れに光を解き放つ夕顔みたいに輝く。それに誘われて、私は風呂にまで歩いていく。光の、輝きの、湯の、そして骨の匂い。足で熱に触れて、少しずつ身体を浸していく、ゆっくり、ゆっくり。肩まで自分を流れる熱に浸した時、彼女が無言で横にいてくれる。
「やっと、また会えましたね」
 私の妄想のなかで彼女は笑ってた。私は幸せなのに、泣きたくなったの、マリエおばあちゃん。

 嘶きが聞こえて、目が覚めた。

 鼓膜以上に心臓が、右の肩甲骨が喘ぐように震えてた。そして皮膚を突き破ろうとするくらい切実に、肩胛骨が何かの重力に惹かれる。嘶きはそれを祝福するように外から響き続けてた。
 私は誘われるがまま部屋を出て、旅館から抜け出して、どこまでも暗澹の外へと出ていく。熱に魘されるように彷徨い、奥へ奥へと歩いていく。山の深淵へと踏み入っていると恐怖を抱くのに、歩みを止められない。

 闇はいつしか、墨を貪りつくした霧のような、奇妙な柔らかみを帯びた流れへと変わっている。そしてその先に見えるものがあった。闇より更に昏い塊、質量を持った幻のしなやかさ。それはもちろん、馬と、それからその背中に乗る誰か。肩甲骨の間から凍てのような恐怖が生まれて、少しずつ肉体へと広がっていく。それと同時に、あの幻影が私の方へと近づいてくる。恐怖が増幅して、なのに何故だか安堵へと心が開かれていくような感覚すらあった。
 私の身体は微動だにしなかった。

 私の目の前で、馬は立ち止まり、その背中から幻が音もなく地面に下りてくる。彼女、そう彼女は私の方に手を伸ばしてくる。黒い霧に撫でられて、その髪が艶めくように仄かな光を放つ。

 私は右手でそれを掴もうとして、途中で躊躇いとともに小指が一瞬痙攣する。でもその感覚が全身へと駆けた時、躊躇を突き抜けて手を掴んでいた。昼のうたたねのように、ぬるい感触へ右手が埋没していく。でも2つの手が触れあう部分から、紫と黄土の狭間の、息を呑むくらい美しい色彩が浮かびあがった時、私は手を放してた。そして幻に背を向けて、走っていた。
 

ごめんね、ごめんね。


 大学へと向かう。この日で、黒馬が轢殺されてからちょうど1年が経つ。自分がすれ違う、目許しか表情が確認できない人の群れが、もはや馬のことなど微塵も覚えていないだろうという事実がイリスの鎖骨を凍てつかせる。それは自然であり、コロナの残酷を考えればまた当然だが、イリスは割りきることができない。もうすぐで馬のために手向けられる花の場だ。そこに誰かがいて欲しいと思う。
 そして1つの小さな影が、確かに場の前に佇んでいるのをイリスは見かける。黄緑色のシャツを着た少年だ。肉薄していく最中、彼が眼鏡をかけていることに気づいた。あの少年だと、イリスは思う。自転車で猛烈な疾走を遂げ、黒馬に触れようとした挙げ句、馬を死に追いやった少年。下唇を噛みながら歩いていき、彼の横まで来ると立ち止まる。しばらく地面に供えられた花を眺める。赤い錆びに冒されたような花々、もうすぐで朽ち果て黒馬と同じ場所へと向かうのだろう。そう思った時、掠れた紫の花びらが1枚、地面に落ちる。
 イリスは鞄から薄青のノートを取り出す。ページを今一度開いて、自分が紡いだ字の流れを見据える。大きくて、大雑把で、拙いものだと自分で苦笑する。くぐもった息を吐きながら、おもむろにノートを閉じて、花の傍らにそれを置こうとする。
「それ、なに?」
 少年がそう尋ねてきたので、驚いた。そこで初めて、2人の視線が重なる。
「これは……」
 イリスは喉に言葉がつっかえるのを感じた。それでも吐瀉物を吐き出すような切実さで、言葉を絞り出す。
「おばあちゃんへのさよならの言葉」
 少年は何度も、何度も瞬きをし、最後には俯く。
「あの馬が死んだ後」
 少年は言った。
「電話がかかってきて、おばあちゃんがコロナで死んだって」
 少し沈黙がある。
「でも結局、ぼくが殺したんだよ」
 そう言って、少年はその場を去る。後ろから彼のことを抱きしめてあげたかった。だがイリスにはできなかった。誰にも彼にそうしてあげられる資格はなかった。

 いつもよりも鈍重で破壊的な生理痛のせいで、イリスはベッドに伏していざるを得ない。臓腑や肉、骨ごと痛みに身体を貪られていくような錯覚を覚え、呻きながら右の踵でベッドを何度も叩く。
 昼に萌香からメールが来たので、足をバタバタさせながら愚痴をブチ撒ける。“困ってるなら家に行きます”という返信。まさかと思うが、数時間後に学校が終ってから本当に彼女はやってきた。
 リビングのソファーで寝転がりながら、料理をする萌香の背中を眺める。
「プラス、カロタ、ミシュ・テェンヂィ、カラマレ、ミャルタ……」
 ネギ、ニンジン、羊肉、キャラメル、蜂蜜。そんな覚えたてらしいアルバニア語の単語を呟いている。彼女が作ってくれたのは、そうめんにトマトとアボガドを添えたアレンジ料理だった。
「パクチーも買ってくればよかったな」
 麺をズルズルと啜りながら、萌香が言った。
「パクチー苦手だから、助かったね」
 肉厚のトマトを噛み締めながら、イリスが笑う。
 膨れたお腹を擦りさすり、ソファーに腰を据えてネットフリックスの下らない映画を一緒に観ていると、チャイムが鳴る。イリスの代わりに萌香が応対し、そうして戻ってくる時、彼女は小包を抱えている。
「何か、外国からの荷物っぽい」
 小包を受け取ると、そこから不思議と豊かな草々の匂いを感じた。おもむろに封を破り、荷物を中から取り出す。それは長らく待っていた『都市の横顔、霧の音』の本だった。
「イリスさんの名前、書いてある」
「うん、私が書いた本」
 表紙にはイリス自身が撮影した写真が載っている。家の近くにある、草の匂いが濃厚な土手の夕方。
 そしてページを開く。真白いページに、数語の単語がささやかに並ぶ。
「パル・デュシェン・ティメ・タ・ダシュル」
 萌香が危なげに、しかし健気に単語を読んでいく。
「……ああ!」
「どうしたの」
「これ、意味分かります」
 萌香の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「本当に?」
「はい!」
 萌香はイリスの耳許で、他の誰にも聞かれないように言葉を紡ぐ。それに嬉しくなる。
「でも、どう発音するんですか?」
 萌香が唇をあれこれ動かしながら、言った。イリスも真似して唇をわちゃわちゃ動かし、しかし最後には真剣に、萌香の瞳を見据えながら、その言葉を大切に紡ぐ。

 Për gjyshen time të dashur 
 私の大切なおばあちゃんへ

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。