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コロナウイルス連作短編その98「ルーマニアの大工」

 右の人差し指と中指の付け根がいやに乾いている、ヨアキム・ソンステヴォルはそう思う。指を広げると皮膚が、漠砂でできたゴムのように伸びる感覚を味わう。皮膚に目を向けると、マグロの刺身に刻まれる類いの白い筋がうっすらと浮かんでいるように見えた。事あるごとにボディクリームを入念に擦りこむのだが、乾きは癒し難く、ここから去ることはない。命に別状などある訳もなく、範囲は本当に小さなものでありながら、この乾きをふとした瞬間に認識する時、グリッチのような不快感を脳裡によぎる。そんな時、ヨアキムは眉間を掻きむしることで、不愉快な濁りを霧消させようとする。この日、待ち合わせ場所で立ちずさんでいる時も、そんな時間がやってくる。実際に眉間を掻くと、一時しのぎにはなる。
 ドラゴシュが時間の5分前にやってくる。デーティング・アプリで知り合った男性だった。自分が3歳ほど年上ゆえに、背筋を伸ばして相応の度量を演出する。マスクが外され露になる、彼の笑顔からは何か複雑な印象を受ける。前の恋人とクロアチアに旅行に行った際、奇妙な記念碑を見た。カモメの翼と名付けられたそれは、長い鉄の棒をグイと曲げたような形状をしていたが、片方の端は蒼天へと手を伸ばすような切実さを伴い、だがもう片方はそれに寄り添うように、もしくはそれを枕とでもするかのいうに、更に折れ曲がり艶かしい曲線を描いている。ヨアキムは像と対面して、困惑を覚えた。今もそうだった。ドラゴシュの笑顔は奇妙だ。

 彼とともに、高田馬場駅近くにある、大という焼肉屋へと赴く。橙色の照明と、濃厚な闇がしのぎを削るような大胆な光暗が広がっている。雰囲気がある、芸術として見るには楽しめる、だが生きられていない、ヨアキムはそう思った。生きられていない建築は嫌いだ。だがテーブルにつくと、まずドラゴシュは照明の形が気に入ったと言う。
「あの曲線がいいよ。そのおかげで光が柔らかく拡散するみたいで、それを浴びると心地がいい。でも好きな理由がもう1つある。あれ、明らかにそういう拡散っていう機能ありきで出来ている印象があって、デザインはそこから逆算されてるなと思うんだ。それなのにああいう……いや、この言葉は人間中心主義みたいな響きでそんな好きじゃないけど、人間味がある。曲線があるから人間味なんて、そんな短絡的なものじゃない。機能とデザインが理想的な形で共鳴してる、アルヴァ・アアルトのデザインする家具みたいな」
 ドラゴシュの英語の響きは、どこまでも丸く武骨だ。石の群れが坂道を転げ回る風景が思い浮かぶ。全体的にスラブ系の人間の英語はそんな印象を受ける、ポーランドやロシア、セルビアといった国から来る人間。ルーマニア、彼は自分の出身国をそう言っていた気がする。こういうものをヨアキムは気にしない、少なくとも気にしないフリをしている。ルーマニア、確かセルビアやハンガリーに近い。だがスラブ系だったか、そんな疑問がふと浮かんだ。実際はイタリア人やスペイン人と同じラテン系だったかもしれない。だが東欧の人間だ、ヨアキムは思う、とりあえず東欧には違いない。
「えっと、君、スウェーデン人だったっけ」
 ヨアキムはドラゴシュの冗談に笑ってみせる。自分がノルウェー人であることはプロフィールに明記してあるので、わざとだというのは分かった。
「ノルウェー人とスウェーデン人を見分ける方法、教えようか」
「ああ、聞きたいね」
「昼食に暖かいものを食べる賢いやつらがスウェーデン人、昼食に冷たいものしか食べない間抜けがノルウェー人だ。俺たちはこの間抜けさを理解していて、彼らを手本に今度はちゃんと暖かいものを食べようと思うが、習慣として根づかない。その間に彼らは自分らと同じく昼食に暖かいものを食べるベトナム人と仲良くなって、一緒にスープを飲んでる。だからベトナム人と一緒にいるのがスウェーデン人、そうじゃないのがノルウェー人とも言える。見分けるの、簡単だろ」
 ドラゴシュは左頬を掻いた。
 焼肉が運ばれてくるので、彼らは次々と肉を焼いていく。
「EUROカップのおかげで、周りの国のやつらがどんどんコロナにかかってくのを見るのは悪くない気分だ。こいつらも俺たちと同じくらい馬鹿だったんだなって慰めになる、特に対岸の火事として眺めてるとね。そっちはどうだい」
「いい状況とは言えないよ。ハンガリーで開催された試合見たかい、観客を目一杯入れて、コロナに対する勝利宣言って風だった。オルバーンの戦略に、良いように愛国心を煽られてる。しかもハンガリーチームは過去にない快進撃、大統領様は笑いが止まらないだろうね。大学からは自治を奪い、LGBTQからは教育の権利を奪い、それでもEUROカップのおかげで支持率は鰻登り、少子高齢化を止めるために膨大な予算を注ぎ込んで、富国強兵ってやつだね。次はなんだ、ルーマニアからトランシルヴァニアを奪還する? ぶっちゃけ空論とかじゃなくマジに危機感はあるよ。ルーマニア内部でも極右のAURって政党がガンガン来て、双方で大何ちゃら主義者たちが攻撃準備を着々と整えてる、そんな風だ」
 ドラゴシュは笑う。
「そう、サッカー関連で面白いことがあった。会社の同僚が話してたんだ、彼はスポーツやらオリンピックやらが嫌いなかなりリベラルな人間、どっちかと言えば僕もそっち側だけど、彼がこんなことを言う。日本人はスポーツ選手が勝利したり賞を獲ったりすると、自分のことのように喜ぶ。まるで自分がそれを成し遂げたかのように狂喜して、自慢する。つまりはスポーツを個の競技として見られない、“ヨーロッパの国”みたいにってね。僕はこれを盗み聞きしてた訳で、彼は僕に対して話してた訳じゃない、それで思ったんだよ、その“ヨーロッパの国”にルーマニアは入ってるかなってね。思うに日本人とルーマニア人の、実は共通点だと思うよ。スポーツを個の競技として見れない、選手の勝利を我が事と思い、あまつさえ選手を越え、国自体が素晴らしいことを成してるって思い、自分を国とすら一体化させる。つまりさ」
 ドラゴシュは肉を噛み砕いていく。
「彼らが“ヨーロッパの国”っていう時、日本人は君を見てるんだよ」
 ノルウェー人であるヨアキムは彼に、全く以て大袈裟な挙動を以て指を差される。
「一気に論理が飛躍したな、自分でもそう思うだろ」
「でも事実だ。彼らが“ヨーロッパの国”っていう時、日本人は僕を見てない、僕らを見てないんだよ」
 ははは、ヨアキムは笑った。コブクロをレモンに浸けてから何個か一気に喰らう。コリコリした感触が旨かった。
「それより、もっと楽しい話しよう。俺、実は君より前にもルーマニア人に会った事がある。小さな頃だけどね」
 ふとあの乾燥した皮膚が手元で蠢く。反射的にヨアキムは眉間を掻いた。

 ヨアキムが10歳の頃、彼の父は家を増築することを決める。そこでしばらく建築業者を吟味した後、見積もり額が最も廉い代理店を選んだ。大工たちが群れを成して家にやってきて、その寡黙な技術によって空間そのものを変貌させていく。幼いながらにこの聖なる職人気質に、ヨアキムは感銘を受けた。中でも彼が惹かれたのはマリウスという男だった。野獣のように濃厚な茶の髭、大学教授を彷彿とさせる眼鏡越しの理知的な目付き。この相反する2つの要素が溶けあってできる雰囲気は、他の大工たちとは一線を画していた。マリウスも他の移民の大工たち、例えばラトビア人、ポーランド人、ウクライナ人たちと同じくノルウェー語は片言であったが、彼らが自身の言語に拘泥し寡黙を貫く一方で、マリウスは身振り手振りを以て饒舌に物事を語った。当然、それはルーマニアで培われた身体言語であり、片言のノルウェー語と同じく他者には伝わりづらいものだったが、その奥にある感情というものにヨアキムは感応した。外で彼が煙草を吸っている時、ヨアキムはわざと一切ノルウェー語を喋らずに、わちゃわちゃと身体を動かして彼と話そうとした。マリウスは笑いながら、やはりわちゃわちゃと身体を動かし、彼らは会話をしたんだった。意味という領域になかった。
 鮮明に覚えているのは、彼が作業している現場に、好奇心から誰の許可も取らずに忍びこんだ時のことだ。まず空間に身を委ねた時、埃の匂いが濃厚なまでに自身の鼻に流れこんでくるのを実感した。埃で呼吸が乱れるかと思うが、実際はなかなか良い心地だ。埃のヴェールが鼻の皮膚にゆらっと重なり、愛撫の感覚を味わう。太陽の差しこむ寝室で、掃除に来た母がベッドシーツをゆらとはためかせる、そんな風景が思い浮かぶ。だが限度があったようで、いつかヨアキムは激しく咳きこんでしまう。マリウスが彼の許にやってくる。防護用の手袋を外そうとしながら、結局は外さずにそのままヨアキムの頭を撫でた。これが好きだと彼が知っていたからだ。マリウスは壁を設営している最中だった。しかし今度はきちんと手袋を外してから、石膏の欠片を持つと、その壁に絵を描いていく。彼が描いているのは、家の近くに立っている大木だった。驚くべきはその繊細さだ。石膏という大雑把な塗料で以て、書きこみは最小限に抑えながら、しかし葉々の揺らめきや幹の武骨さ、大地に露出した根のうねり、そういったものが鮮やかに綴られる。速さ、繊細さ、おおらかさ、それが魔術のように見えた。だがそれ以上に魅力的だったのは、石膏を持つ彼の左手だった。手は黒々しい毛並に覆われて、野性的で荒々しいものだ。皮膚も輝かしい黄土色を誇り、その奥にはどこまでも赤い血の潮が流れているのだろうなとヨアキムは確信していた。その手は肉、皮膚、毛、血、そして骨の複合としての崇高な芸術作品だった。さらにこれがまた、壁に新たな絵画芸術を紡ぎだす。こうしてマリウス自身がヨアキムにとっての魔術になる。木を描き終わり、彼は石膏の欠片をヨアキムに渡す。真似して絵を描いてみるが、できた作品はただの白いヘドロだった。不甲斐なさに機嫌が悪くなるが、そんなヨアキムの頭をマリウスが撫でる。埃臭く、重い。
 ヨアキムは抑えられないほどにマリウスを恋慕していた。今振り返るならこれが初恋だったように思えてならない。だが仕事が全て成された後、彼は別の現場に行ってもう戻ってこなかった。道端で会うということもなかった。父は増築された家を友人に自慢する際「安い買い物だった」と言った。その時からもう既に20数年が経っている。

 ヨアキムはドラゴシュを部屋に迎える。いつにしろ、この部屋に帰ってきたなら彼は誰となしに心で呟く。これが生きられた空間だ、これが生きられた空間なんだ。しばらく前戯の前戯という風に会話をした後、キスをして、セックスを始める。ドラゴシュは広いベッドより、狭い紺色のソファー上でのセックスを求めた。ヨアキムはそのソファーごと彼を抱きしめ、鎖骨についた肉を貪る。
「手、舐めてくれよ」
 脳髄が熱くなるのを感じながら、右手の、あの乾いた皮膚を差し出す。柔らかい、赤い唇でドラゴシュは肉に触れ、さらに彼の舌が乾きを覆った時、ヨアキムは思わず身体を痙攣させる。乾きが粘った潤いによって弄ばれるうち、ぺニスが膨張を遂げ、堪らなくなり左手でしごき始める。
「我慢できない? 舐めてほしい?」
 彼の上目遣いに、ヨアキムは激しく頷くしかできない。その唾で満たされた口にぺニスを咥えられ、快感に骨抜きにされる。呼吸が思わず激しくなり、そうしてあられもなく感じる姿を彼に見られるのが恥ずかしい。自分の肉体がソファーにどんどん沈みこんでいくのが分かる。気持ちがよかった、気持ちがよくてどうかなりそうだった。
 だが、ふと、自身のぺニスを舐めているのがドラゴシュでなくマリウスだったらと思う。もしあの頃に実際セックスをしたなら、それは年齢差という権力勾配が生む性的暴力だと分かりながら、自分が少年に戻ったような危うい心地で、マリウスに満たされる自分を妄想する。目をつぶり、彼の耳を触る、彼の頬を触る、彼の鼻を触る、彼の首を触る、彼の髪を触る。
「う、ああ」
 ヨアキムは我慢できずに射精する。幸福だった。だがその幸福は、ドラゴシュの激しい咳こみによって切り裂かれる。射精した精液によって、彼の口や喉が苦痛に苛まれていた。咳を収めた後、彼がこちらを見る。酷薄な苦笑、唇の端にわだかまる白濁した粘液、首の薄皮を突き破ろうとする喉仏。
「ちゃんと言ってよ、“ガンシャ”するなら」
 その言葉だけ、彼は日本語で言った。

 ドラゴシュの横で眠るうち、夢を見る。
 ヨアキムは10歳の少年だった。遠くから家が工事される様を眺めている。屋根ではマリウスが作業をしており、こちらに背を向ける彼に視線を移してから何かを叫ぶ。何を叫んだか分からない、だがマリウスがこちらを向いた。そこで彼がマリウスでなくドラゴシュだと気づく。いや、顔だけがドラゴシュで身体はマリウスなのか、ヨアキムは奇妙な心地になる。
 そのルーマニア人は彼に手を振ると、すぐに作業へ戻る。だがそのルーマニア人はバランスを崩してそのまま屋根から落ちた。グボギィイという強烈な音が、そのルーマニア人の身体から響く。しばらく激しく痙攣したかと思うと、そのルーマニア人はすぐ微動だにしなくなった。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。