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コロナウイルス連作短編その208「無償の愛」

 植木口津は居酒屋で会ったばかりの男に自分の考えを話し続けていた.
「僕の恋人が選挙行け選挙行けってうるさいんですよ.だから結局行きませんでしたね,はは」
 口津はその口にレモンサワーを有らん限りにブチ込んでいく.この居酒屋に来た時は毎回“超濃いめレモンサワー”を彼は頼んでいる.
「恋人もそうですが,ああいうネットで活動家気取りのやつらは選挙行け選挙行けと言うだけで,それで選挙行った人々が自分の支持政党に投票するとしか考えてないわけですよね.自民党や維新に投票するかもしれないってのを想定してない.そのクセ,こいつらが選挙で勝つとなると“これだからバカ大衆は”とばかりに選挙に行った人々を嘲るんですよ,だからムカつくんだ.結局こいつらは大衆よりも自分が優れていると言いたいがためだけに“選挙に行け!”と言ってるだけなんですよ」
 口津は脂にまみれにまみれた鶏皮にかぶりつき,それを串から勢いよく引き抜き,矯正した歯の群れによって磨り潰していく.
「そしてこの優越感を象徴するのが“VOTE”っていう言葉だ.この“VOTE”ってどういう意味だか知ってます? “選挙に行く”って英語ですよ.だけど何でわざわざ“Vote”なんて英語を使うんですかね.日本語の分からない人々や在日外国人に訴えるならまだ理解できますが,実際は日本語を解する日本人に対してこれを言ってますからね.この“VOTE”って言葉の意味を知ってる日本人ってどれほどいるんでしょうか.いやこれは別に悪いことじゃあないんですよ,英語にしろ外国語を学ぶってのは本当に難しいことですから.僕自身も中学英語くらいしか分からないし,最初“VOTE”って言葉を見た時は自分も検索しましたよ.問題はですよ,こういう日本人が全員知っているとは言えない外国の単語をわざわざ使ってくるところです.これに関してはインテリ……いや,横文字を使うのは止めましょう,こうすることで知的階級は大衆に対して知の優越を誇ろうとするって魂胆が見え見えでムカつくんだ.僕が思うに日本のケツは日本語で拭くべきでしょう,そう思いません?」
 口津は今度一気呵成に焦げた葱を喰らう.そしてレモンサワーを鯨飲した後に,店員に超濃いめレモンサワーのおかわりを頼む.
「“VOTE”という言葉を使って彼らが外国人にこそ目配せしているのは気に入りませんよ.この前数週間ぶりに東京へ行ったんですけどね,そこにいる外国人旅行客の姿ときたら酷いもんでしたよ.マスクをしていない.特に白人連中はマスクなしに息をブチ撒けまくってると来ている.政府は確かにマスクなしでオーケーと言いましたが,それでも特に白人観光客のマスクをする気もない厚顔無恥っぷりはムカつきますよ.まあ自分はコロナにかかってもいいって開き直りなんでしょう,だがここにおいてそれは周りの日本人がコロナにかかってもいいということと同義になるわけだ.こいつは新手の植民地主義じゃありませんか? そして“VOTE”って言葉は結局こういう人間へのケツ舐めでもあるんだ,真っ白な知へのケツ舐めなんですよ.ですが同時に気づいたこともあるんですよ.観光客とは逆に,日本人は多くの人が未だにマスクをしている.素晴らしい心掛けだと思いません? ああいう活動家は日本はクソ日本人はクソと言いますが,こうして他人にコロナをかけまいとする日本人の心意気はもっと評価されてもいい.そして“VOTE”って言葉は結局こういう大衆はどうでもいい,お前らは無知な邪魔者って言ってるようなものなんです.だからムカつくんです,吐き気がするんですよ」
 口津のもとに超濃いめレモンサワーが運ばれてくる.彼は女性店員に対して感謝の言葉とともに辞儀をし,そして名前も知らない客の方に向き直す.
「“吐き気を催す”って大袈裟なレトリックだと思います? いやいや実際に吐き気を催してるんですよ,レモンサワー飲みすぎましたね,ははは……なんて,いや,冗談ですよ.ということで,乾杯」

 口津は居酒屋を出た後,道の途中にあるセブンイレブンに入った.
 脳髄を締めつける酩酊感をほどくために,何か飲み物が買いたい.
 飲み物ブースに行き,目に入るのはやはりコカ・コーラだった.
 最上部に置いてあるのは500ml缶入りのコカ・コーラで値段は116円,消費税込では125円だった.3段ほど下に置いてあるのは500mlペットボトル入りのコカ・コーラで値段は160円,消費税込みで172円だった.
 口津は迷わずにペットボトルを手に取り,そのままレジに向かう.
 レジに立っているのは浅黒い肌をした若い男性で,名札にはカタカナで長い名前が書いてあった.キチンと読み取れないのだが,おそらく東南アジア出身なのだろうと口津は思う.
 彼はレジにペットボトルを置くと,それを掴んでいた右手をそのまま胸に当てながら「宜しくお願いします」と口にする.店員はそれに応えるように少し頭を下げた.
 口津は鞄から財布を取りだし,そのチャックを開く.そこには大量の小銭が入っているのだが迷うことなくそこから100円玉2枚を取り出し,レジの硬貨投入口に入れる.機械からちょっとした騒音が響いた後,10円玉2枚と5円玉1枚,そして1円玉3枚が出てきた.口津はこれを右手で取ったあと,間髪入れずにレジに置いてある募金用の箱にそれを投入した.
 実際,口津は自分が所有している金の全てを寄付したいとすら思っていた.
 それを実行しないのは,そうすると生活が成り立たないという理由からであり,そして理由はこれ1つしか存在していない.
 彼は毎月最低でも1万円を月始めに寄付することを己に求めている.今月は今月は特定非営利活動法人きみのそばにと公益財団法人アニマル・フューチャーという2つの動物愛護団体に寄付している.この2つの団体は寄付がどんな用途に使われているかの透明性をしっかりと保証しているがゆえ,彼としても安心して寄付ができる.
 だが彼はこうして寄付するよりも,政府によってこそもっと税を徴収されたいということを願っている.何故なら政府は税として徴収した金を最も効率的かつ大規模的に再分配できる唯一無二の存在であるからだ.それによって自分の所有していた金が例えば医療控除などの社会保障費や,町の図書館や道路といった不可欠なインフラの整備に使われるとするなら,それこそが最も素晴らしいことであり,誇りに思えるからだった.
 最近,印象的な出来事があった.恋人である海川白葉は海外文学が好きで,自分の少ない収入をやりくりして大量の海外文学を買っていた.彼女の家に泊まった際,口津は辞書のように分厚い本を見掛けて驚いた.白葉が風呂に入っている最中,彼は気まぐれにそのページを捲っていたのだが,ある1ページに目が止まる.そこでは登場人物が税を払うことの素晴らしさを語っていた.社会保障によって救われた人々や整備され見違えるようになった道路を見ると幸せな気分になるのだと,その人物は言っていた.
 正に自分と同じ思いを抱いている人間がそこにいるのを知り,口津は驚愕を覚えるとともに涙が込みあげてくるほどの感動を覚えた.だが思わず本から手を放したせいで,その分厚い本は完全に閉じられた.幾らあの文言を探しだそうとしても,見つけることができない.結局今でも再会することができていない.
 だがこの出来事から口津の思いはさらに強まった.
 自分がもしもっともっと金を稼ぐことができるなら,あの喜びを,あの幸福をさらに巨大かつ鮮烈な形でこそ味わうことができるだろう.
 そう,それこそ今自分に応対してくれる外国籍のコンビニ店員の方々の社会保障にも使われることにもなるかもしれない.そうして彼らが健やかに日本で生きていけるとするならば,それほど光栄なことはない.そして日本人の中にも様々な事情で税を払えない人々は多くいるだろう.その代わりに自分が税を払い,彼らの負担を肩代わりできるなら,自分が金を稼ぐ意味もあるというものだ.
 自分は金を稼ぎ続けよう,口津はそう改めて決意する.
 何故なら税は他者への無償の愛なのだから.

 口津はこのコカ・コーラ売買の手続きを完遂した後,ペットボトルを左手で掴み,右手を胸に当てながら「ありがとうございます」と店員に言った.彼は特にスーパーやコンビニの店員といった人々に対して,こうして感謝をすることを忘れることはなかった.
 これは己に強いているわけではない,感謝を言葉と身振りで示すことはもはや彼の日常に根付いていた.
 コンビニを出る際,彼はスーツの右ポケットにレシートを入れようとして,別の紙が入っているのに気づいた.
 それは投票用紙だった.淡い青い枠線が妙に印象に残る.
 口津はこれをゆっくりと折り畳んでいく.親指の腹ほどの大きさになった後,コンビニの外に備えつけてある燃えるゴミ用の箱にそれを投げこんだ.
 だがレシートを捨てるといったことはもちろんない.
 携帯のアプリで写真を撮り,今日の帳簿をつける必要があるからだ.

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。