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コロナウイルス連作短編その97「オスガキ、メスガキ」

「ワクチン2回打ったよお」
 目の前の老婆が、レジを打つ店員にそう言うのを、安納礼香は聞いた。2人は顔見知りのようで、店員の中年女性は、マスクの上からでも分かるほど肥えた両頬を柔らかく緩ませる。老婆は財布からカードか何かを取ろうとして、財布ごと落とし、小銭すら散らばる。礼香は小銭を拾い、彼女に渡す。
「ありがとうございますねえ」
 礼香の母である安納佳津は、数か月前にコロナウイルスで亡くなった。葬式も満足に行えないまま、彼女は灰になった。母が死んで、こんな鈍磨な人間が生きている、少なくともワクチンを打てた現実が信じられない。
 アンタが死ねばよかったのに。
 例え心のなかででも、この言葉を躊躇なく紡げた自分に驚く。

 荷物を抱えて、家に帰る。玄関に散らばった靴で息子である安納和弥が帰ってきているのを知る。リビングへ向かう。途中のトイレのドアが半開きになっており、そこから立ったまま排尿を行う和弥の姿が見える。何度注意してもそうだ、便器に座って排尿するということを覚えない。それで何が起こるか、床が薄汚い尿で汚染される。
 だが今はキレては駄目だと思う。憤激を解放してしまえば収拾がつかなくなる予感がある。荷物を片しているうちに、怒りは小さくなっている筈とリビングに行く。買った商品の数々を冷蔵庫へ収納していく。ブロッコリーを手に持った時「うわあ!」という、和弥の間抜けな叫びが聞こえてくる。自分を嘲笑うものだと何故だか思え、このふとした思惟が意味もなく加速度的に膨張する。ブロッコリーの細かな突起が乾いた皮膚に刺さるような感覚が鮮やかになる。思惟に共鳴して、ブロッコリーまでもが膨張した。これを握り潰してやりたい、これを握り潰してやりたい。その勢いのままに、何か強烈な言葉で和弥を叱責してやりたい。ゆっくりと身体を動かし、ブロッコリーを野菜室に収納しながら、それについて考える。
 こんなのはどうだろ。"このクソオスガキ、チンポ切り落としてメスガキにするぞ、ボケ"とかね。
 あまりに不自然で下品な響き、気に入った。礼香は軽く握った右手を唇に当てながら、クスクス笑った。

 片付けが終った後、根室に住む妹の杏から送られてきたオランダせんべいを食べる。礼香はオランダせんべいが好きだった、愛していた。味、感触、余韻、全てが完璧なせんべいだった。恋人である詠歌清音という女性とも苛烈な奪いあいになる。送ってくれる妹、流通を担ってくれる人々、製造してくれている工場の人々に感謝しながら、袋を開き、せんべいに歯を通す。梅雨の時期に食べるオランダせんべいのいいところは、少し湿気った感触を味わえることだ。いつもは素直で、心地よい硬さがあるが、湿気はせんべいに独特の粘りを与えてくれる。このいつもと少し違う粘り腰の硬さ、そこに重なるいつものほのかな黒砂糖の甘さ、2つが口のなかへ広がっていく時間は、全く豊穣としか言い様がない。美味しかった。思わずボリボリとせんべいを貪ってしまう。素晴らしい時間だった。
「ウンコ漏らした!」
 その素晴らしい時間を、和弥の叫びが撃滅した。
「もう、は、何してんの?」
「我慢してるときもちいから我慢してたら、漏らした! パンツヤバい!」
 和弥は爆笑した。意味が分からなかった。
 洗面台に放置されていたトランクスには、糞便の否定し難い跡があった。口のなかのせんべいの甘みが吐き気に変わる。礼香はトランクスを洗い始める。アリエール・イオンパワージェルを少し垂らした後、大量の湯をブチ撒ける。激烈な勢いと泡に晒しながら、生地を揉み洗いしていき、汚れがこの世から抹殺されることを願う。数分間執拗にこれを続け、次は泡を濯いでいく。いつもより妙に泡が多い、洗剤を入れ過ぎたかと自分の失態にウンザリする。お湯で泡を流し、また泡を流し、いつしか妥協してお湯を止め、雑巾さながら水分を絞っていく。生地と皮膚が擦れあい、熱い鮮烈な痛みが肌に染み渡る。我慢は簡単にできながら、脳髄や神経を紙鑢でこそがれるような気分に陥る。この積み重ねの先に腐爛が待っていると、礼香には思えた。

 異様に疲れ果て、リビングでYoutubeの動画を垂れ流す。Youtuberがヘラヘラと大きな声を出しながら、特段際立って面白くない訳ではないことを、しかし全力でやってみせる様を見ていると、そのこと以外には何も考えずに済む。だがこの日に限って、頭に浮かぶものがある。彼女はYoutubeで"メスガキ"と検索した。驚いたのは、そこには挑発的な表情をした少女たちがサムネの動画が大量にあったからだ。悍ましさを感じながら"メスガキ妹が可愛すぎて激シコ! 良い年したオッサンが性癖を馬鹿にされ、蹂躙&敗北♡"という動画を再生した。そこでは少女が兄を延々と罵倒していた。雑魚、雑魚、クソザコおじさん、あたしみたいなちっちゃい子に馬鹿にされるのが好きなの、それで勃起してんの、変態じゃん。死ぬほど甲高い嬌声が礼香の鼓膜に突き刺さる。昔、野良猫の爪が実家の障子を切り裂くのを見たことがある。後日、その野良猫の死体と通学路の途中で出会った。
 礼香は思わずトイレに駆けこむ。吐こうとしたが吐けない。この社会で"メスガキ"として生きていかなくてもよかった人間の気楽さを軽蔑する、いい気なものだと憎悪する。
 お前ら一度生きてみろよ、その"メスガキ"とやらとして。
 ふと我に返ると、床が和弥の尿で汚染されているのに気づいた。瞳に熱いものが溜まる。ティッシュペーパーを過剰に使いながら、床を拭いた。

 リビングに戻ると、和弥が1.5Lボトルから直接コーラを鯨飲しているのを目撃する。そしてダダダと足音を響かせながらリビングから出ていく。礼香がついていく。和弥は立ちながらトイレで排尿をしていた。小さなペニスから、奇妙な捻じれを伴いながら、濃厚なまでに黄色い尿が排出されている。それを数秒間眺め、突然肉体が勝手に動き始める。風呂場の乾燥機能を使いながら乾かしていたトランクスを持ってくると、ちょうどトイレから出てくる和弥の顔にブン投げた。礼香は高校時代にソフトボール部に所属していた。清音と出会ったのもこの部でだった。
 泣け、泣け!
 心の底からそう願う。だが和弥は泣かない。左手でトランクスを取り、右手で股間を掻きながら、爆笑した。爆笑を続けた。そうかと、礼香は思った。ビチョビチョになったトランクスを彼から受け取り、風呂場へ戻る。物干しハンガーから垂れる、白い洗濯ばさみでトランクスを挟んでいく。余裕を以て、5つ使う。こうしてゆったりと生地を広げておけば、乾くのが早い。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。