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コロナウイルス連作短編その93「愛の記憶に」

 残酷な音が鳴る。
 首藤竹子が持っている皿を落として、それを割ったのだ。
「ごめんなさい……」
 竹子の謝罪を、東陽沙良は笑って受け入れる。
 別に何でもないと気取る。
 実際には灼けつく怒りしかない。一目惚れしてなけなしの勇気を振るって買った砥部焼の皿、蛸唐草の玉ぶち鉢だ。ずっと大切にしていた。こんなにも容易く破壊されるとは思わず、沙良は動揺していた。竹子が手を伸ばして破片を片そうして、思わずそれを静止し指が触れあう。彼女が居酒屋の四隅で、積極的に指を絡めてきた時を思い出す。
「別に大丈夫です、私がやるんで。姉さんとゆっくりしててください」
 竹子が去った後、いつもオーブンで焼けたばかりのグラタンを持つ時に使う、モコモコした紺色の手袋を着けて、破片を新聞紙の上に置いていく。破片のバラ撒かれぶりはひどく惨めだ。この皿に、見てくれの悪すぎる巨大な唐揚げの山を置いた時の記憶が思い出され、不覚にも泣きそうになる。破片を片し終えて、残った皿のさらに粉微塵の残骸を掃除機で吸いこんでいき、新聞紙にくるんだ破片をゴミ箱にブチこむ。これで皿の処理は完了した。
「天皇がオリンピック止めた方がいいって進言だってさあ」
 沙良の姉である東陽莉愛が大仰なまでに間抜けな声で呟く。
「これで政治家どもは言うこと聞いてオリンピック止めんのかね。白人様にひれ伏してばっかの大和人様がさ。つうかその前に止めろって話だけどね。でもさ、それで止めたら止めたで、普通の国民は“天皇のお気持ち表明のおかげだ”って泣いて喜ぶんは当然で、“オリンピック止めろ!”って言ってたやつらまで天皇のケツ穴舐めそうじゃない? いやだいやだ、アタシはそういうやつらこそ軽蔑する、忘れないね」
 莉愛は唇にワインを流しこむ。
「そんなこと言ってたら、右翼に刺し殺されるよ」
 そう竹子に言われると莉愛は爆笑する。
「あいつらにそんな勇気ないでしょ。その前に天皇のケツ穴噛みきってみろよって話だね」
 2人は深くキスをする。
「何にしろオリンピックなんてやってほしくない」
 沙良が言った。
「それでコロナがさらに蔓延したらどうしてくれるの?としか思わない。インド株、いやデルタ株だっけ、感染力がスゴいって聞いたけど、それを抑えこめもしないでオリンピックやるなんて無責任にも程がある」
「とか、言いながらさ」
 莉愛はグラスをテーブルに置く。
「オリンピックやったらやったで、テレビ見て楽しむんでしょ、アンタは。近くのあの酒屋、酒一番で買ってきた焼酎とかビーフジャーキー嗜みながら、見て楽しむんだろ。前の恋人、重量挙げの女子選手だったじゃん。名前なんだっけ、霧子だっけ、オリンピック出るんじゃないの?」
「出るわけない。出ても私は見ない」
 莉愛という存在は不愉快だった。
「彼女の名前は君子」
 その後も適当に喋りながら3人はワインを飲み続ける。空気感が酩酊によって塗りつぶされていく。沙良は、竹子が密やかに莉愛の腰やふとももを撫でるのを見る。密やかを気取ろうとも、沙良の眼球には映る。
「ねえちょっと、妹に見られるって……」
 莉愛は竹子の耳にそう囁く。先の勢いと裏腹に、中学生のような恥じらいを見せる。昔からそう思っていたが、莉愛は全く理解しがたい人間だった。
「別にいい、別にいいでしょ」
 竹子は彼女を弄ぶようにふとももを撫でる。
 沙良はトイレへと向かう。酩酊のせいで足許が覚束ない。途中で何かを踏んだが、足の裏を確認すると砥部焼の破片が刺さっている。当然のように血が滲んでいた。何度か瞬きした後、沙良は破片を抜き取って床に置く。それからもう1回、破片を踏む。先よりも鋭い痛みを感じる、血が皮膚より流れるのを感じる。だがその痛みが血の代わりとなり、沙良の肉体を全速で駆けぬける。そして破片を足の裏から抜き、床に置いた後、それを踏む。これを何度か繰り返し、最後には破片をゴミ箱に投げ捨てた。



 デボラ・コジンスキーは目覚めてすぐ、傍らのテーブルに置いておいた目薬を掴む。琥珀色の小さな容器から、両目に滴を落としていく。潤いが網膜から全身へと広がるのを感じた。こうして毎朝、デボラは真の意味で目覚めるんだった。
 支度をしてから外へ出る。雪の世界を強靭な一歩一歩を以て進んでいく。目的地は自身が経営するカフェIntervalだ。カフェの主としての人生を、デボラは誇りに思う。コーヒーや料理の質はもちろん悪くない。狭いながら調度を工夫し、物質的以上に精神的に膨らみを持つ親密な空間をこのカフェは持っている。ここはただ無為に時間を過ごす場所という以上の場所にしたいと、常々デボラは思っている。そして村人たちの憩いの場として機能している現状に、まずまずの満足を抱いている。自分は大切な場所を切り盛りしているという静かな自負がある。

 いつものようにカフェで仕事をこなしていると、新たな客が現れる。見慣れない人間だ。闇より色の深い黒の髪が、いやに目立つ。おそらく旅人か何かだ。だがこのカナダはユーコンの果ての小さな村に何を求めてやってくるのか、それが疑問でならない。興味は持ちながらも、それを露骨に示すのは礼を失すると分かっている。彼女はプロとしてただ素朴に注文を聞く。
「コーヒー、すごく苦いのを」
 女性はそう言った。
「別に“すごく苦い”なんてつける必要ないよ。この村でそれ以外のコーヒーなんか出ることない。そんなもの飲んでたら死ぬだけ」
 女性はハハハと笑った。
 コーヒーを味わう彼女の姿を眺める。飲む時の首筋の動きは、何か芽が出そうで出ない種の蠢きのようでもどかしさを感じた。
「私、日本から来たの」
 自分からそう言うので、少し驚く。興味をみすかされたかと思いながら、実際には都合がいい。むしろ相手の方が話したがっているのだから。だが実際「どうしてこの村に来たの?」など質問を投げ掛けても、女性は言葉少なにしか答えない。別に英語が下手で、話したいことを表現できないといった風ではない。やはりもどかしい。だが謎めいている、彼女についてもっと知りたいと思う。

「どこか泊まるとこあるの」
「えっ、いや、これから探すつもり」
「じゃあウチに来ればいいよ」
 そんな提案に、今度は女性が驚く。最初は控えめに拒否しながらも、デボラが妙な熱烈さで強引に誘うので、彼女は申し出を受け入れる。
 夕方に女性はカフェに戻ってきたので、デボラは一緒に帰り道を歩く。だが最初に行ったのは家ではなく公民館だった。
「ピンポンやりましょ」
 女性は明らかに戸惑う。
「何で。私のこと、中国人と勘違いしてる?」
「別に。ただピンポン上手そうって」
 実際、女性はかなりピンポンが上手かった。左利きのテクニカル・タイプであり、その予測できない球速と球筋にデボラは翻弄されてしまう。デボラは村で1,2を争うほどピンポンが上手い。ゆえにそんな強者が謎の人物に圧されている風景を、いつも公民館にたむろする老人たちが見物しにくる。結果は女性の完全な勝利だった。老人の一人が彼女にウォッカを勧め、躊躇いなく受け取り喉にそれを流しこむ。そのくせ壮絶に咳き込んでしまうので、皆が笑った。

 家に帰り、一緒にデボラの作った野菜スープを飲む。いつもながら美味しかった。
「私、子供の頃はずっとピンポンやってた。何で分かったの?」
「分かんない、直感」
 デボラは笑う、女性は笑わない。
「何でここ来たか聞いたね」
「うん」
「映画で観たから。キツネが可愛かったから来た」
「へえ」
 ジュルとわざと音を立てながら、デボラはスープを飲む。
「そういえば何年か前にドキュメンタリー作家みたいな人がこの村にも来て、何か撮ってった気がする」
「多分、その人の映画だ」
「私はその映画、観てないけどね」
 女性がアゴのほくろを掻く。
「でも彼女も結構ピンポン強かったな」

 2人で寝室に行く。
「ベッド、すごいデカいね」
「いや、ここらへんじゃ普通だよ」
 替えの枕を境界線代わりに置いて、2つの寝場所を確保する。
「私、電気つけっぱなしで眠る派だけど大丈夫?」
「……努力する」
 とは言いながら、実際にはすぐ女性の寝息が聞こえてきた。疲れていたんだと思う。デボラは枕でできた境界線を見据えながら、女性の寝顔を想像する。少し身体をあげれば見られるのは分かっている、それでも何故だか躊躇われたのだ。
 安らかな寝顔、変にぶちゃいくな寝顔、静かな寝顔、美しい寝顔。
 ふと境界線の隙間から、女性の体臭のようなものが匂ってきてドキとする。急いで後ろへと寝返りをうつ。そしてこの騒音で彼女を起こさなかったかと心配する。

 目覚める。何となく女性は居なくなっていそうだと思ったが、リビングでくつろいでいた。朝食にパンを食べながら、正直に言う。
「もう居なくなってんじゃないかと思った」
「何で」
「あなたって、何かそういう雰囲気」
「ミステリアスな侍みたいな」
「そういうのじゃないけど」
「でも昼くらいにはもう行くかな」
「どこか向かう場所あるの」
「別にないけど、キツネに会いたい」
「そんなのすぐ会えるよ、つまんない」
 そしてデボラはカフェに行く、女性は旅に出る。
「今、迷ってる」
 最後にデボラが言った。
「Facebookとかの連絡先聞いて、別れても今後も色々話せたら私たちすごくいい関係になれる気がする。でももしここで名前も住所も何もかも聞かずに別れたら、この時のこと、忘れられない美しい思い出になる気がする」
 何でこんなに饒舌になっているか自分でも分からなかった。
「何でこんなに饒舌になってるか自分でも分からないの」
 女性は去った。
 そういえば今日目薬を差してないと、デボラは思う。



 残酷な音が鳴る。
 首藤竹子が持っている皿を落として、それを割ったのだ。
「ごめんなさい……」
 竹子の謝罪を、東陽沙良は笑って受け入れる。
 別に何でもないと気取る。
 実際には灼けつく怒りしかない。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。