コロナウイルス連作短編その222「だけど、生きていかなくちゃいけない」
玄関の扉を閉めた瞬間,眞殿和凜はそのまま床へと倒れこんだ.
だが頬の皮膚に刺さった床の冷ややかさが,あまり心地よく思えないことに彼女は驚く.それはつまり地獄のような暑さだった夏が終わり,ひんやりと肌寒い秋が訪れたことを意味していた.
大局的に見れば,よいことだった.だが今この瞬間において,床の冷ややかさを有難いと思えないのは愉快ではなかった.
ショッピングモールに飾られる観葉植物,その葉のうえを行く毛虫のようにゆくりと,確固たる形で,和凜は廊下を進んでいく.身にまとったボウタイブラウスやイージーパンツには,その遅さに比例して力強く皺が刻まれていくが気にはしない.だが痛かった.最近ストレッチをサボっているからだ.ケチって千数円で買ったヨガマットですら満足に使えてはいない.
気にするほどの活力が,今の和凜には残されていない.だが動くたび,ブラウスの下,皮膚の下で,脂肪の下で筋肉だろうものが収縮と膨張を繰り返すのは感じる.ここには確かに肉体がある.
ふと気づくと,和凜は既にベッドにいた.仕事の後,この類の時間の飛躍は珍しいものではない.怖くも感じない.むしろ不愉快な時間を消し去ってくれる,神の恩寵にすら思える.
自分の肉体を,水の勢いを強くしすぎて暴走するホースさながらどぅるるおん,どぅるるおんとのたうたせながら,和凜はカバンからタブレットとドクターペッパー500mlボトルを取りだす.ボトルを左手で握りしめ,右手の中指と人差し指,親指でフタを開け一気呵成にその唇へ,酸化した血液の色をした液体をブチこむ.
溺れたい,おぼ,溺れた,おゔぉれ.
喉を,不必要なまでに複層的な風味が暴力的に通り過ぎていき,さらにその風味が肉壁に傷を穿ちながら立ちのぼっていき,粘膜までもを刺激しながら両の鼻の穴からどぅぼあとまろび出てくる.旨かった.
ドクターペッパーはこの世に存在する飲み物で一番旨かった.
意識がそのスパイスのクセのある刺激に抉じ開けられるのを感じながら,和凜はタブレットを起動する.見るのはもちろんYouTubeのゲーム実況だった.疲れている時,能動的に本を読むということが和凜にはできない.受動的に何かを見ようにも,長すぎる映画やドラマは集中力が続かない.
そこにおいて受け皿となってくれたのは,ゲーム実況だった.特に生身の人間が実況する,いわゆる生声実況ではなく,ゆっくり実況などの情報量の少ない機械音声は疲労に打ちひしがれる時にも楽しむことができた.
大量に見ているとその多様性にも気づく.そこでは東方Projectに出てくる霊夢と魔理沙という定番キャラの掛けあいが基本だが,漫才のようになっていることもあれば,ただのダラダラした雑談となっていることも多い.時には片方だけが漫談さながら語る形式のものもあれば,人間がゆっくり実況の真似をして語る人力ゆっくり実況というものすら存在する.
語る内容についても,漫才の台本に書く者の個性が出るように,動画制作者の色というものが確かに現れる.音声自体は調整を経たとて,ほとんど変わらない無機質なものだからこそ,よりその裏側にいる存在の個性が出る.
和凜はこれを通じて初めて,全員同じようにしか見えないアイドルに人はあそこまでのめりこむことができるかを垣間見た.むしろその一見したところ無個性的なものの中にこそ個性が立ち現れる時があり,そうして見えてくる個性こそを彼らは愛でているのだと.
さらに,最も有名なものであればずんだもんなど,他の機械音声もゲーム実況で使われるようになってきており,ある種群雄割拠の様相を呈している.
和凜自身はゆっくり実況からこちらの領域に興味が移っており,今彼女がのめりこんでいるのはメスガキ実況というものだった.
おじさ〜ん♡ 今日もいっぱい楽しもうね♡
“Buckshot Roulette”,これはロシアンルーレットを題材としたインディーゲームであり,今和凜が見ている動画では,リリンという少女がこのロシアンルーレットを行うという体裁で実況が進んでいく.
金髪ツインテールの少女,彼女は常に生意気な態度であり,相手を小馬鹿にしたような言葉遣いを崩さない.
お〜よちよち♡ よくできまちた〜♡
そんな字幕とともにニヤニヤ声でゲームを続け,そして彼女は相手にショットガンを向ける.
それじゃあ早速イかせてあげよっか〜♡ 出〜せっ♡ 出〜せっ♡
そんな露骨なまでに性的な隠喩を宿した言葉を囁いた後,彼女は引き金をひく.そして血飛沫をブチ撒けながら倒れる相手に対して,こう言う.
ざぁ〜こ♡ ざぁ〜こ♡
だが逆に自身が劣勢だと,その幼い声に哀れなまでに焦りが滲む.
ふ,ふ〜ん……なかなかやるじゃん……
彼女は銃口を向けられる.
ま,待って……
そして銃弾が彼女にブチ込まれる.
オ゙ッ
さらに心臓マッサージで彼女は強制的に蘇生される.
オホォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙♡♡♡
和凜は,自分が骨の髄まで疲れ果てている際,会社への怒りや社会への憎悪,現状への虚無感といった底無しに重いものの他に,肉という肉を突き抜けようとする異常なまでの性欲が己の肉体全面から込みあげるのを抑えることができない.
それらが束となって和凜の心を蹂躙し,食い物にするその時,せめて苦痛でなく快楽に呑みこまれることを彼女は願う.
そして今,和凜は自分が既にパンツも下着も脱ぎ捨て,下半身を白色光に晒していることに気づいた.薄く紫がかった黒の毛の群れが,むおりと股間に溜まっているのに気づいた.左手でその塊ごとクリトリスを握りしめるように,マスターベーションを始める.
最初から躊躇なしに左の中指と人差し指でクリトリスを押しつぶしながら股間を擦る.雑でいい,むしろ雑がいい.性欲が異常に込みあげている状態なら,これでも快楽を感じることは可能であり,かつ自分の肉体を雑に扱った方がむしろ快楽は増していく.
この雑な指の動きで感じてしまっている愚かで淫乱,社会の片隅で救われず惨めな己を演出するため,和凜は頻繁に腰をヒクヒクと痙攣させ,タオルケットを噛みながら激しく息を吸っては吐く.
くっさぁ〜♡ おばさんの口んなか,ドブじゃん,ドブ♡
耳から聞こえるでなく,頭の中へ直接響く罵声に否応なく体が震えた.
おぉっ.
和凜はそんな言葉を吐き出す,あの機械音声がブチ撒けるオホ声を真似てだ.だが驚くほどの恥じらいがそこに宿っているのに,気づかざるを得ない.
自分のなかに息づく理性が,無様を極めることから遠ざける.そこにこそ全てを忘れるための快楽があると心は分かりながら,魂はそこから目を背けるように.
出しちゃえ♡ 出しちゃえ♡
その囁きに,しかし否応なく肉体が痙攣した.少女はショットガンを向け,引き金を引く.
ざぁ〜こ♡ きゃははは♡
そういう無邪気な笑い声を,あの時の少女たちも響かせていた.
東京メトロ千代田線の優先席,そこに小学生と思しき少女たちがマスクもせずどっしり腰を据えていた.対角線上の席に座る和凜から見て左には細身の少女が座り,右側の席には太ましい二の腕を晒す少女が残りの空間を占領していた.
右の少女が堂々と咳きこみ始める.左の少女がきゃはははと笑う.
「ヤバ,全然止まらん」
右の少女はなおも咳こみながら,爆笑まで始める.左の少女も,その荒々しい咳を真似しだす.
ゴホホォ,ゴホホォ.その重苦しい響きに反して,少女たちはむしろ非日常を楽しむかのようにはしゃぐような高揚を全身から露にしていた.生意気なクソガキども,和凜は内心そう思った.だが奥歯を噛みしめて,その罵倒が口から出ないようにした.
「やっといなくなったよ」
少女たちが降りた時,横にいた恋人の能絵真子が和凜に言った.
「あのメスガキども」
その言葉は紙ヤスリさながら,和凜の神経を削った.
「いや,そういうアレなネットミーム使うのやめなって」
「……は? メスガキいなくなって清々したやん」
「だから……止めてって」
「何,メスガキとか使っちゃダメなの?」
真子はニヤつきとともに,頰をふっくらと揺らしながらそう言ってくる.
「いや,良くないでしょ.子供をエロコンテンツみたいに扱うネットミーム使うのは」
「は? 気にしすぎ,気にしすぎ」
アタシだってメスガキだしぃ♡と,和凜を心底バカにしたかのようにそう言ってから,真子は静かに彼女の左手へと指を少しずつ,少しずつ絡めていってから,和凜の人差し指と中指,薬指の3本を手のひら全体で掴んだ後,ぎゅいいうと後ろへと反らせる,ンボギギギギィ,自分の左手の関節からンボギギギギィという音が確かに聞こえた.
和凜は今,そうして傷つけられた左の指を使い,猛烈なまでの勢いによってクリトリスを刺激していた.ムカついていた.
真子は反出生主義を自称していた.新しく誰かがこの世に生まれてしまうことそのものを憎んでいた.だが実際,子供は自身が望むと望まないとに関わらずこの世に生まれる.ここにおいて全面的に非があるのは彼らを生んだ大人である親の方だ.だが反出生主義者は得てして,完全な被害者である子供たちを反出生主義の敵として憎み,攻撃する.子供は親など大人と違い簡単に非難でき,かつ反論しようにもその力がないサンドバック化できるというわけだ.だからこそ躊躇もなくメスガキという下卑た言葉を子供に投げかけられるわけだ.
ね,おばさん♡ メスガキに脳みそグリグリされてイかされちゃう気分どう?♡
それだのに今,自分はメスガキというネットミームに乗っかった性的な機械音声を聞きながら,忍びが敵の頸動脈へと向けて手裏剣を飛ばすような手の動きで以てクリトリスを刺激していき,快楽を貪ろうとしていた.
確かに,37歳の和凜は21歳の真子とは16歳も年上であり,彼女にとって“メスガキ”と言ってもいいかもしれないほどの年齢差がある.“メスガキ”という呼称を批判する一方で,自身は先生と生徒よりも年の差が存在する恋愛関係にある.そして独りの際はこうしてメスガキ実況という,ロリコン文化などネットの負の側面を煮詰めたコンテンツに耽溺しながら,マスターベーションに耽りきっている.
こうして内省のスイッチが入るのなら,自己嫌悪で急激なまでに死にたくなり,そしてそういう思いを抱くとなると自動的に,ぬばらぬばらとした性欲が,まるで鉤爪によって幹を穿ちながら木を登っていくナマケモノのように,遅々として,しかし厳然とした勢いを以て込みあげてくる.それに罰を与えるような形で,惨めさを味わいながらイきたくなる.それは真子との溶けあうような心地よいセックスとは,真逆の方向性へと歪めば歪むほどいい.
ふと,思い出すものがある.
真子に見せられたAVだ.それはクイズ番組のパロディという構成なのだが,回答者である女性が答えを間違えると,そのヴァギナに収まったディルドが激しいピストン運動を始める.彼女たちは喚くように喘ぎ,最後にはそれこそ怒涛の勢いで,下半身から潮を吹き出す.
真子がニヤニヤしながらこれを見せてきた時,当然不愉快な気持ちを覚えた.だがその潮を吹く絵面があまりに弩迫のもので,思わず和凜はプッと吹き出してしまい,瞬間に罪悪感をも抱いた.
今,ああいう風に笑えてくるほど惨めに,おしっこでも何でもブチ撒けながら絶頂に至ることができたなら,少なくとも今味わっている止めどない性欲は対処できると,彼女にはそう思えた.
しかし潮の吹き方など分かるわけがなかった.
なので和凜はただただクリトリスを今までより激しく擦った.それでも途中で,あのAVのようにピストンで潮を吹くならば,中に指を突っ込んだうえで刺激した方がいいのではないかと思い至る.自分のやり方ではない,しかし指をとにかく雑に突っこむ類のマスターベーションを実践してみる.
その行動がさらなる思考を生む.
そう多くはないが,異性愛者向けのAVを観ていた際,男性による手マンにおいて,相手の身体に些かの労りをも見せない,それこそ“グチャグチャ”といった擬音が適切と思えるような手法で掻き回す中で,女性が潮を吹き始めるといった光景は何度か観たことがあった.この手法を踏襲するのならば,潮を吹けるのではないか.
和凜はあの洪水の風景を思い出しながら,指を激しく出し入れする.
最中,自分が,AVの手法を実際に初めての恋人に試してみる男子高校生みたいだと思った.微笑ましくすら思えた.
一瞬そう微笑ましく思ってから,何かそう“思わされた”ような感覚に気づいた.
よくよく考えるのならば,実際にああいった手マンをすれば,間違いなく性器は傷つく.そして現実に悪影響が波及する.微笑ましいものではない.セックスの知識を得るために自分と同じく女性が好きな女性もAVを観て,こういった事柄を学びとってしまい相手を傷つける可能性も大いにある.
頭ではそういった懸念を抱く.裏腹に,指は凄まじい勢いで動いている.
心と体が乖離しているのを,和凜は感じざるを得なかった.例えば東洋医療においては心と体は一つであるといった話がある.だが今,心と体がそれぞれ真逆の方向性へと突き抜けていく時,心と体は別であるという心身二元論の説得力を肌身で味わわされる.
それでいて,どうしても指は動きながら,実際,和凜は潮を吹くどころか,絶頂に至る気配すらも感じられない.
ムカついた.
だがまたさらに,思いつくことがある.
AV女優は水を大量に飲むことで潮吹きがしやすい体調を作りだすと聞いたことがある.これを話してくれたのも確か真子だった.
和凜はベッドから飛び起き,冷蔵庫に入っている2リットルボトルを取り出す.それはドクターペッパーだった.フィンランドではドクターペッパーの2リットルボトルが製造されており,それを知った時にはさしもの和凜も驚いた.確かに自分はドクターペッパーが好きだが,スパイスの風味が濃厚なこの清涼飲料水を好く同族があまりいるとは思えなかったし,2リットルボトルの需要は世界のどこにも存在しないと半ば諦めのような感覚を抱いていたからだ.
折よくフィンランドに住む友人がいたゆえ,多大なる送料ももちろんこちらが負担したうえで,ドクターペッパーの2リットルボトルが詰め込まれた段ボール箱を定期的に送ってもらっていた.そして今,冷蔵庫で冷やされていたその一本をなりふり構わず取り出し,乱暴にフタを開けた後,とにかく口の中へと,腎臓からの出血によって不気味に染まった尿のように黒黒とした液体をブチ込みにブチ込む.
ぶぐぅるおお,ぼどぉおお.
そんな巨大なゲップを堂々と響かせた後,真偽不明の噂を信じて,和凜は冷蔵庫の横で鬼気迫るほどに激しく動かしていく.ヴァギナは激熱を帯び,超粘している.
きゃはは♡ 何その雑魚マンコ♡ 中で納豆菌,ハッコーさせてんのぉ?♡
頭に直接叩きつけられた言葉に,下半身が驚くほど震えてしまう.
上半身をもたげてベッドの方向を見ると,タブレットから淡い光が虚空へと拡散し,闇に水彩のような白が瞬いているのが分かった.その奥にはカーテンの閉められていない窓が見える.
見られてる,見られてる♡ 雑魚マンコがハッコーしてくとこ,見られてるねえ♡
その罵詈雑言を縁として,和凜は自らの意思でまた下半身を震わせる.するとそれに応えるように,下半身がさらに激しく痙攣し始め,内奥から何かが込みあげてくるのを感じる.
自分を罰したい.
自分だけでなく,自分たちの状況を明確に悪化させるだろうネットミームに耽溺し,快楽を得ている自分を罰してやりたい.
このクソ惨めな醜態を,実際に衆目に晒さずともこの部屋でだけは晒しあげたい.
そして死ぬほど気持ちよくなりたい.
いいよ♡ リリンちゃんがその無様な姿,見ててあげるからね♡
和凜は再び口へとドクターペッパーをブチこみ,飲みくだす.
またもドクターペッパーをブチこんでいき,飲み下そうとするが,喉奥から逆向きの抵抗が込みあげ,思わず嗚咽する.だがそれをも圧して,ドクターペッパーを飲み下し続けていく.
突然,鎖骨の辺りから汗が吹き出してくるような感覚があった.それはヴァギナを満たす粘液とは違い,サラサラと皮膚の上を滑るほどに夾雑物が存在しない液体だ.
最初,体内から水分が減って潮吹きから遠くなってしまうのではないかと,和凜は思った.
この感覚は脇の下,胸部と胴体のつけ根,鼠径部,膝の裏とどんどん連鎖していく.それは足の裏まで至り,それをきっかけに指の一本一本がわなわなと抑えきれないまでに震え始めた.
そして今むしろ,下半身だけではなく体全体から,尿意と性欲のあわいにある何かが込みあげるのに和凜は気づいた,というよりもその感覚に呑まれた.
自分の体内から何かが噴出するという,驚くほど盤石な確信の後,和凜は最後の力を振り絞って傍らのドクターペッパーを飲む.嗚咽を圧して,限界まで飲みこむ.
ごぉ♡ よん♡ さん♡
遠くからそんな声が聞こえる.
にぃ♡ いち♡
その声に,和凜は身を委ねる.
びゅっびゅっびゅ〜っ♡ びゅるるるる〜〜〜〜〜ぅ♡
ふと気づくと,天井が見えた.何の変哲もない,いつもの天井だ.
そして一瞬に,自分が成した痴態の記憶が和凜の意識に流れこむ.
反射的に立ちあがろうとした時,左足がどぅりゅりと滑った.
また反射的にその方向へ視線を向けてしまい,瞬間に後悔した.
そこには水たまりがあった.
もう既に全てを理解し,そして諦めたかのように,左足はその水に浸ったままで微動だにすることがない.その皮膚や肉が静かに,かつ急速に冷えていくのも和凜は感じた.
運良く水たまりの傍らに倒れ,伸び切ったままになっていた右足は,しかし未だに震えていた.特にあの5本の指は震えの勢いを全く落としてはいない.
真子と遊園地へデートに行った際,ヒーローショーが開催されている場に遭遇した.ショーの最後,観客の幼児たちが親に付き添われてヒーローと握手をしていく.その時,赤い帽子をかぶった少年が,ヒーローを前にして遠目からでもブルブルと震えていたのを和凜は鮮烈に覚えている.彼は父親に背中を擦られたのだが,ゆっくりと父親の方を振り返る時に見せた顔には,震えと,そして蕩けきったような恍惚が浮かんでいた.
今,潮を吹いている自分の足の指には,その少年の姿が重なった.
だがそれを見続ける気力もすぐに無くなり,和凜は力なくまた床に倒れこんだ.
そこで初めて全身の感覚に意識を向けることができた.
あやふやだった.単純な気持ちよさや疲労感は存在しない.
何なの,一体これ?
ただ,確かに清々しかった.
だが,その未知の清々しさを探求する前に,より馴染みのある後悔が首をもたげる.
何やってんだよ,一体私は?
水たまりに突っ込まれたままの左足で床を踏みしだき,飛沫を撒きあげたかったが,さすがに躊躇された.
代わりに,和凜は少し上体をあげる.
上半身は,服を着たままだ.ボウタイブラウスはあの痴態後にも関わらず,何事もなかったかのように綺麗に整ったままだ.だが腹部の途中から下半身にかけては完膚なきまでに丸出しであり,左足の水に浸かった部分を除けば未だにヌビヌビと震えている.
この乖離が,自分の惨めな状況を際立たせているような気がした.
可能なら,そのまま水たまりの横に吐瀉物すらブチ撒けたかった.だが吐き気は不在だった.
胸郭を上下させながら,はあはあという声が自然と漏れるほどに強く呼吸を続ける.
そのうち,もうはあはあという息遣いだけが世界に存在するのではないかと,そう思えるほどに,部屋が静まり返っていく.
その無音のなかで,和凜はもう一度自分の肉体を見た.
ブラウスの途絶えた腹部は,呼吸のテンポに従ってゆっくりと膨らんでは萎んでを繰り返すが,青白い月光に際立つその凹凸が何か今までにないほど官能的に見えた.いつかそれを,真子が十分もの間,何も言わずにキスしてくれた時のことを思い出す.子供が小川に現れている飛び石のうえを器用に渡っていくような,そんなテンポだった.それは確か,今,和凜の視線の先にあるベッドでではなく,まだ古いベッドを使っていた時のことだった.床に接する引き出しが壊れたのをきっかけに,買い替えたんだった.
そしてその腹部の下,ただ気乗りしなかったゆえに整えておらず,もんもりと茂った陰毛はいつの間にかその毛一本一本に滴をいくつも纏っており,こちらにも等しく注がれている月の光の青さのなかで,星が瞬くように輝いていた.もしかするならこの毛を鬱蒼と茂る植物になぞらえ,一方で滴を朝露になぞらえるのならば,短歌でも認められるのではないかとそう風情心が駆られた.
潮吹き後の乱雑を極めきった下半身と,何事もなかったかのように泰然としている上半身.その乖離が,今度は何故だか美しくすら思えた.
そして和凜は自分の体を何もかも引っくるめて照らしだす光を,視線を体から外へと向けながら追いかけていく.その先には本当に,本当にまあるい月が輝いていた.
そっか,和凜は思う,今日って中秋の名月だっけか.
ふうと息を吐いた後に,和凜は立ちあがる.ブラウスや下着を脱いで,キチンと畳んで,水たまりのない安全な場所にそれらを置いた.冷蔵庫の傍らにはドクターペッパーの2リットルボトルが置いてある.少し中身が入っていたのでそれを飲み干し,ラベルをぎびびぃと剥がし,台所へ行ってから,まずラベルを燃えるゴミ用の箱に捨て,さらにボトルは両手でグッと潰したうえでプラスチック用の箱に捨てた.
終わった後には,水たまりを避けながらベッドへと向かい,タブレットが置いてある辺りに腰を下ろす.そこでメモ帳を開いてから,これからやるべきことを幾つか記していく.
床とか全部タオルで拭く
シャワーを浴びる,ついでに排水口とか洗う
真子と,愛知旅行の計画を詰めていく
ラジオ体操軽くやって寝る
そして気がつくと自分がメスガキ実況を観ており,和凜はその光景に驚いた.
はぁい♡ リリンちゃん,またおじさんの頭,バクサンさせちゃいましたぁ♡
和凜の時間が飛ばされたことを,リリンちゃんは生意気な声色で祝福していた.
和凜はその動画を消そうとする.タブレット下部の戻るボタンをタップしようとする.
だが実際,YouTubeにおいては戻るボタンを一回タップしただけでは,画面右下に小さく動画は表示され続ける.二度は押す必要がある,最低でも.
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。