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コロナウイルス連作短編その86「モザンビーク、ギニアビサウ」

 家庭教師として穂堂武瑠は、教え子の1人である堂崎ミウの勉学へのやる気のなさに呆れ果てている。何かを覚えよう、学び取ろうという意欲が彼女には完全に欠落している。だが身振り手振りを通じて努力をしている風を演出することには頗る長けており、教科書に向かっている際にミウのこめかみが微かに震える様に驚くほど心動かされたことが、彼にも何度かあった。実際には何も覚えてはいない。ミウは怠惰が血と肉と糞尿を得て実体化した末路だ。だが彼女は決定的なことをしないためには何でもする人間でもあった。怠惰で在り続けるために、必要最低限のことは徹底してやり遂げる。故に致命的な失敗や間違いは起こさないが、全てが意図的な生ぬるさを維持している。この積極的な怠惰は、一般の人々が持つただ面倒臭いといった怠惰よりタチが悪い。武瑠はこういった向上心のない人間を最も唾棄している。

 しかしこの日は数学の勉強中、ミウが突然泣き出すので驚く。
「モザンビークってどこ? モザンビークってどんな国?」
 ミウは凄まじい勢いで鼻水をティッシュにブチ撒ける。
 少し動揺しながら、武瑠はなるべく誠実に彼女から話を聞こうとする。ミウの通う中学のクラスには彼女と同じくアフリカ系である内藤八神という青年がいる。彼らは仲が良い訳ではない、むしろ互いを意識しあい険悪な雰囲気が流れている。彼は遠くから事あるごとに厭味たらしい粘った視線を彼女に送り、それに気づいた時にはいつも吐き気を催す。この日、彼はもっと直接的な行動に出た。ミウが机で携帯を弄っていると、わざとらしく胸を逸らしながら八神がやってくる。
「お前、父親がモザンビーク人って聞いたんだが」
 八神はニヤつきを抑えずにいる。背中に怖気を感じながら、ミウは小さく頷く。
「モザンビークってどこだよ、全然知らね」
 八神は大仰に唇を突き出す。
「俺の母親は、まっ、ベナン人なんですけども。ベナンといえば八村塁、日本でもベナンでも最高のバスケ選手な訳ですけども。マジで最高にカッコいいよな、俺もバスケ選手として誇らしいよなあ、いや八村選手に比べりゃ雑魚だけど」
 流麗な姿勢でスローイングの身振りをすると、周りの少年たちが囃し立てる。
「あとゾマホンって知ってるか。いやまあ俺ら世代は多分知らんけど、親世代はマジでみんな知ってるガイジンタレントだ、お前の親も知ってるよ。めっちゃTVで人気だったんだよ。日本語で日本人と論争して、時々笑わせられるくらい頭良かった。こういう風にベナンと日本はめちゃ仲が良くて2つの国を股にかけてるスゲーやつが一杯いる。だけどモザンビークはどうだよ、つかモザンビークってどこだよ」
 八神は勝ち誇ったように笑う。周りでは黄色い顔の少年たちが同じように笑いを響かせる。
「父さんはもう大分前に死んだし」
 ミウはそう言うことしかできない。
 この話を通じて、武瑠は初めて彼女がモザンビーク系であることを知った。肌の色からアフリカ系のミックスというのは分かっていたが、それ以上個人的な領域には踏み込まなかった、踏み込む必要もないと思っていた。武瑠自身も社会からはトランス男性と扱われる存在だったが、仕事場の同僚や上司、そしてミウや彼女の母である堂崎璃子はそれを知っても特に際立った反応を見せることはなく、そのどうでもよさは気が楽だった。時おり職場のトイレで厭味を言われる時もあるが、その際は上司に通告しそれ相応の報いを受けさせる。
「じゃあ今からちょっとモザンビークについて調べようか」
「えっ、今からですか?」
 ミウの驚いたような表情を、武瑠は怪訝に思う。
「そりゃ今からだよ。思い立ったが吉日って言葉もあるし」
 ミウは口をモゴモゴと動かすが、武瑠は無視する。まずはインターネットではなく、ミウが所有する地図帳を開きアフリカ大陸を眺める。彼自身場所を知らなかったので場所探しは難儀だったが、最終的にアフリカ大陸の南部、南アフリカ共和国の上にモザンビークを発見した。2足歩行で立つ猪のような形が微笑ましい。その爪先に首都であるマプトが位置している。そして地図帳を開きながら、2人で外務省のホームページを確認した。

1. 面積:79.9万平方キロメートル(日本の約2倍)
2. 人口:約 3,036万人、人口増加率2.9%
3. 首都:マプト(人口約108万人)
4. 民族:マクア、ロムウェ族など約40部族
5. 言語:ポルトガル語
6. 宗教:キリスト教(約40%)、イスラム教(約20%)、伝統宗教

 いつもは怠惰を絵に描いたようなミウも、この探求には身を乗り出していた。
「でも本当にモザンビークについて聞きたいなら、お母さんにお父さんについて聞くべきだと思う」
 こう言うと一瞬で彼女の表情に怠惰が舞い戻る。空気をガムにして噛むように口を動かす様が不愉快だった。結局、彼女は何も言わずに、歯の響きで淀んだ沈黙を作りあげる。
「僕も、モザンビークのことは調べる」
 沈黙をそんな言葉で切り裂いた後、唇を舐める。
「ちゃんと自分でも調べるんだよ、くれぐれも言っておくけど。Googleで調べるにしろ、お母さんに聞くにしろそれが重要なことなんだから」

 夜、友人のなかで最もシネフィルであるチャ・ジュンファンに"モザンビーク映画って観たことある?"とメッセージを送る。彼は当然のように観ていた。
"自分は『ムエダ、記憶と虐殺』という作品を観たな。モザンビーク初の長編映画らしい。1975年にポルトガルから独立した後、政府は文化事業として国立の映画センターを作ったけど、そこの後援でこの映画が作られたって聞いた。内容は独立戦争を生き抜いた人々が、その戦争やマコンデ人が多く住む北部のムエダって都市で起こった虐殺を自分たちで再演するっていう。その演技をカメラは淡々と映していて、かなりドキュメンタリー的だ。この監督のルイ・ゲーハはブラジルのヌーヴェルヴァーグって呼ばれるシネマ・ノーヴォの立役者でもあるんだけど、実はモザンビーク人で、だから招聘されたらしい。彼の以前の作品はもっと映像の躍動感が凄い。でもそういうセンスを感じさせるものはこの作品にはないね。それでもモザンビークの人々の声に静かに耳を傾け、彼らに寄り添うっていう真摯さを彼は優先した、そんな感じだ"
 そしてジュンファンが送ってきたまた別のモザンビーク映画を、武瑠は観ることになる。舞台はこの国の片隅にある小さな村、とある夫婦に突如として死が降りかかり、彼らは死との対峙を通じて生を知ることになる。字幕がない故に内容を完璧に理解できていないが、モザンビークの大地に独特な形で根づく土着的な死生感が映像として立ち現れているように武瑠には思えた。印象的なのは登場人物たちが何度も地面に穴を掘ることだ。それは死者を横たえる墓である以上の、更なる何かを持っているように思われる。何かは分からない、だがその曖昧な分からなさに浸るのは悪くない心地だった。そしてLINEでこの動画をミウにも送った。
 次に会った時、彼女はまだ映画を観ていない。苛つかされる。机に散らばる灰褐色の汚らしい消しカスが虫唾を更に加速させる。
「お母さんとは話した?」
 気を取り直して武瑠はそう尋ねるが、ミウはやはり微妙な表情を浮かべる。
「ちゃんと自分の思いを話して、モザンビークについて、お父さんの故郷について知りたいってことを共有した方がいい」
 ミウの瞳を見ながら、ゆっくりとそんな言葉を紡ぎだし、彼女の返事を待つ。
「前ちょっと聞いたんだ、ですけど……母さんも父さんからあまりモザンビークのこととかは聞かないまま、事故で死んじゃったらしくて、後悔してるとか何か」
 ミウは首に浮かぶ大きなホクロを右手で掻いた。それを今すぐ握り締め、止めさせたい。


 殻付きエビ、おろしニンニク、塩、こしょう、オリーブオイル、そしてオレガノが入ったボウルを冷蔵庫から取り出す。
「オレガノって初めてかも」
「そうかもね。こういうスパイスは私もあまり得意じゃないから」
「僕も全然ですね。一緒に初めてのオレガノを楽しみましょうよ」
 そう言って武瑠は笑った。ミウはぎこちなく笑みを浮かべる一方、母である璃子の笑みは淀みなく柔和なものだ。ボウルから3人で協力してエビをアルミホイルへと置いていく。璃子の置き方は驚くほど雑であり、ミウがそれをいちいち注意した後にエビの流れを整理していく、そして武瑠は幼稚な不機嫌さを露にする彼女を宥める。
「ごめん、ごめん」
 璃子はアルミホイルを持ち、予め200℃に予熱されたオーブンへとエビを入れる。その不思議と心細げな背中を、ミウは静かに眺めながら鼻を掻く。一瞬、脂が白く輝く。
 エビが焼きあがるのを待つ一方、彼らは砂肝と豆の煮込みを用意する。玉ねぎは薄切り、砂肝は一口大、ニンニクはみじん切り、人参は輪切りにする。ミウはあまり料理を手伝わないそうだが、先のエビの整理で見せたような几帳面さで小気味よく材料を切っていく。璃子がまるで気の置けない友人のように肩を叩くと、うざったげに肩を動かした。缶詰の豆を洗いながら、武瑠はその光景に目を細める。オリーブオイルを敷いたフライパンでまず玉ねぎのスライスを炒めていく。しんなりしたら、ニンニクと塩、ローリエを加えてまた炒めていく。璃子がフライパンを担当しながら、ミウが砂肝を丁寧にそのなかへ投入していき、蓋を被せた後には中火で煮込む。砂肝から出てくる水で蓋が濡れていく様子に、ミウが目を大きく開く。
「砂肝、好きだあ」
「好み渋いな」
「そうなんですよ、砂肝って居酒屋の酔っ払いって感じですよね」
「別に私、居酒屋の酔っ払いでいいし」
 煮込みの途中からミウと武瑠が作っていたのが、マタパと呼ばれるココナッツとピーナッツのカニスープだ。ミウが小気味よくホウレン草を切った後、鍋で水と一緒にしばらく茹でていき、火が通った後にはブレンダーで砕いていく。ミウは扇風機で遊ぶ小学生さながら、音に合わせて馬鹿な叫び声をあげ、璃子が笑った。更にホウレン草を鍋に戻して、ココナツミルクやピーナツパウダー、カレー粉を入れて煮込んでいく。鮮烈な緑が網膜へ、今まで嗅いだことのない豊穣な甘みが鼻へと雪崩こんでくるのを感じる。煮えてきたらそこに細く切ったカニカマを入れて完成だった。
 そして砂肝の煮込みへ最後に人参と豆を加えて、更に数分間煮込んでいく、その途中でエビが焼きあがる。黄金色の身が輝き、思わず涎が込みあげてくる。ミウと武瑠とでお皿に盛っていくが、ミウの瞳が貪欲なギラつきに満たされているのを横目にし、今すぐエビを食べたいという欲望を2人で共有していることを確信する。
「できました? こっちも良い感じです」
 璃子は柔らかくなった人参と豆の味を確認し、少しだけ塩を入れる。ミウが皿を持っていくと、璃子は皿を受け取り、その時に2人の手が触れあう。璃子ゆっくりと煮込みを皿に入れていく。彼女のしなやかな息遣いが武瑠には聞こえた気がした。
 食卓には海老のガーリックオイル焼き、砂肝と豆の煮込み、マタパ、そして前もって切っておいたフランスパンが並べられている。その光景を見ているだけで、武瑠の心がぬくもりで満たされる。
「いただきます」
 皆でそう言った。武瑠はミウがエビに食いつくのを見る。そのまま彼女は「うっま」と頬を蕩かせた。そして武瑠は璃子が砂肝を控えめに口へと運び、その後にマタパを喉へ注ぐのを見た。ホッと一息つく姿に彼女が抱く安堵感を想った。だがふとした瞬間、彼女の瞳から涙が零れたのには驚かされる。
「母さん」
 ミウが言う。璃子は首をゆっくりと振りながら、自身の首筋をおもむろに撫でる。それが反復されるうち、皮膚がほんのりと赤みを増す。「母さん」という2度目の言葉に、今度は頷くことで応える。その動きが作る影のなかであの赤みは静かに明滅する。
「マウリシオはあまり自分のことを語りたがる人じゃなかった」
 璃子が言った。
「モザンビークでどういう生活をしていたか、どうして日本に来たか、そういうことは結局聞けないまま。だけど彼はとても知的で、特に言葉を喋ることに関しては天性の才能を持ってた。私とは流暢な日本語で喋っていたし、他にもポルトガル語と英語が喋れて、でも一番愛着があるのはマコンデ語だった。覚えてるのは……ただ私たちは川辺を歩いて、何も喋らないで陽射しを感じていた。そんな時にふと、彼が歌うように言葉を紡ぎ始めた。さっき言った言葉とは全く違う音の流れ。その響きは、彼は静かに紡いでいるのに、嵐の波濤みたいに荒々しくて、でも聞いているとその核にはしなやかで柔らかい熱があるのを感じた。だからそこには不思議と安らぎがあった」
 璃子はもう涙を流していなかった。ミウはそんな母親を抱きしめる。そこにはもう涙は存在していない。


 2人になり、しばらく気ままに時間を過ごすうち、武瑠の頭のなかにふと浮かぶものがある。
「実は僕もミウに言ってなかったことあるんだよ」
「へえ、何?」
「僕も日本とギニアビサウって国のハーフなんだ」
 これは嘘だ。彼はミウの表情を薄目で、しかし確固たる強かさで観察する。
「へえ……でも、はは、ギニアビサウってどこ」
 ミウの腑抜けた笑みに、頗る失望する。少し調べたのならギニアビサウはモザンビークと同じく、アフリカ大陸におけるポルトガルの植民地の1つだったことは分かるはずだ。それすら調べてはいない、もしくは忘れ去ったか。どちらにしろ彼にとってそれは唾棄すべき怠惰だ。
「まあいいや、数学勉強しようか。空間図形、頂点、側面、底面……」
 ミウは露骨なまでに苦虫を潰したような表情を一瞬、一瞬だけ浮かべ、煌めく笑顔を取り繕う。武瑠は思う。愛くるしい、だが愚かだ。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。