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コロナウイルス連作短編その214「彼女は男が好きだから」

 それから三島新後は母である三島安乃から新しくできた恋人を紹介されるのだが、それが男性であったことに凄まじく驚かされた。
 新後は安乃と鈴酒おもという2人の母親に育てられてきた。彼女たちは関係性の破綻の後、新後が中学2年生であったおととしに別れたのだが、新後の誕生以前も含めるなら20年連れ添っていた。新後はその様を最も近くで見てきたが、ゆえに自然と安乃はレズビアンであると思ってきた。だが飯島秀男という男性を恋人として連れてきたということは、その認識に修正を加える必要があると思わざるを得ない。
 もしかするなら彼女はバイセクシャルということなのだろうか。当惑のなかで新後はそう考えるのだが、安乃はこれに関してカムアウト、もしくはそれに類するような発言は一切しない。シングルマザーが自身の恋人を息子に紹介する、そういったテレビドラマでよく見掛ける類いの行動を彼女は演じるだけだ。
 安乃の新たな恋人である飯島秀男、彼への第一印象は“気さくそう”だった。河川敷に繁茂するニワウルシさながらのモジャモジャな頭はどこか親しみ深く、一見するなら俳優の滝藤賢一に似ているという連想が新後に働いた。
 その印象通り彼は気さくであり、本当によく笑う。そして安乃の言葉にひときわカラッとした笑いを響かせるたびその目尻に皺が浮かぶのだが、それは赤子が墨で書いた落書きさながら派手なものだ。
 食卓には彼の作ったパスタが並ぶ。様々なキノコをふんだんに使ったペペロンチーノだ。普段は安乃が征服する自宅のキッチンを、今回はこの男が利用し、そうしてペペロンチーノが作られたということだ。これが相当に美味なものであり、パスタを口に入れた瞬間、醤油を基盤とした複雑な風味が喉の奥へと雪崩こむ。“舌鼓を打つ”という感覚をこれほど鮮烈に喰らわされた経験はあまりない。
 それは安乃の料理が美味ではないことを意味しない。むしろ彼女の料理もまた絶品と言ってもいい。だが別格だったのだ、彼のそのペペロンチーノは。
 安乃自身、何度も何度も「美味しい、美味しい」と、まるでこの場にいる人間の鼓膜にその言葉を刻みつけてやりたいとでもいう風に連呼した。
 その度に秀男は笑う。安乃はその時にできる皺を愛しげに眺める。
 確かに安乃と秀男は愛しあっているようだと新後は思った。

「でも、何かヤバかった……」
 2日後、彼はもう1人の母親である鈴酒おもにこう言った。
 場所はUebaという名前のカフェであり、おもの行きつけの店だ。木の厳粛な匂いがそこはかとなく漂う、落ち着いた風情のカフェに、しかしおもの身なりは場違いに思える。白髪混じりの長髪を纏う一方で、左の側頭部は刈り上げているのだ。長年放置された末、重機で雑草を一掃された農地を彷彿とさせるものだ。こういった髪型を、安乃の好きな歌手であるアブリル・ラヴィーンがいつかやっていた記憶がある。
 今日の服装もワインレッドのスーツを洗練された形で着崩しており、Netflixが製作したニューヨーク舞台のドラマから抜け出してきたかのようだ。実際こうした身なりをしているのは白人ばかりで、アジア系の登場人物では見たことがないが。
 彼女は昔から奇矯なインテリめいた雰囲気を常に醸しだしていた。しかし安乃と別居してからは、会うたびその奇矯さが増していっているように新後には思えた。
 新後がこのもう1人の母親に会いにいったのは、2日前に感じたモヤモヤを彼女に話したかったからだ。おもは関係の解消を迫られた側であり、未だ安乃に未練があるのを息子として感じている。強がる素振りを見せながらも、その実彼女は新しいスタートを切れず同じ地点に踞り続けていた。
 そんな彼女だからこそ、自分があのモヤモヤについて語ればこれを共有できると思えたからだ。むしろ彼女の方が悪口を言い始め収拾がつかなくなることも予想したが、今回はそれを期待すらしていた。
 だがおもは新後の話を聞いても意外なほどに冷静だった。言葉は少なく、頷きも控えめだった。
 そして彼女は冷静に抹茶ラテを左手に掴んだスプーンでクルクルと混ぜる。
 それでも違和感があるのは、おもが抹茶ラテを左手に掴んだスプーンでクルクルと混ぜ続けていることだった。
 おもは週数回のジム通いを欠かさないゆえ体は頑健で、そういった彼女のしなやかな力強さが最も色濃く表れている部位が腕であると新後は感じている。
 スーツの裾から覗く牡鹿の角のような腕、筋が描く鮮やかな陰影に包まれた手首、そして漠砂から突きだす蠍の尾を思わす指。それらが三位一体を成して小さなスプーンを動かしている、動かし続けている。
 ゆっくりと、そして確実に。
 そんなまったき盤石さをその動作から感じる一方で、新後は何故だか不安をも覚えた。おもの動きを見ていると、彼女が薄氷をその上を渡っているのを眺めているような感覚を覚える。危ういのだ。
 明らかな矛盾が彼女の動作に宿っているのだが、新後はそれが何故なのか全く分からないでいる。動揺を取り繕うように、彼は何かを言おうとする。
「安乃さんって男……」
 だがここで止まったのは“男も”と言うか“男が”と言うか助詞の選択を迷ったからだ。新後にとってはどちらの助詞が含むニュアンスも真実だったが、少しの躊躇いのなかで“男が”と言いたい気持ちが膨れあがっていく。男が好きだったということだ、結局は。
「まあ……」
 しかし新後がそれを吐き出す前に、おもが先に言葉を発する。
「世の中には男も女も好きな人がいるんだよ」
 そしてそう言った。
「世の中には男も女も好きな人がいるのよ」
 さらにそう言い直した。
 新後には言い直した意味が分からない。分かるのはおもの普段の言葉遣いは前者であるということだけだ。
 そしておもは目から涙をこぼし始めたので、新後は驚いた。
「おもさん、え?」
 思わず出た言葉が間抜けに響くのを、新後は意識せざるを得ない。
 啜り泣く母親のために、何をすればいいのか分からない。だが彼の目は、おもの左手がもうスプーンを持っておらず、ゆえに彼女は今コーヒーをクルクルと混ぜてはいないことを既に認識している。

 自宅に戻り、ベッドに寝転がる。
 安らぎたいが、どうしてもおもの啜り泣く声が頭に響いてしまう。
 そしてその泣き声は新後に3年前の出来事を思い出させる。寝室の壁の向こうから、2つの暴力的な声が聞こえてきていた。安乃とおもも人並みに喧嘩はよくしていた。だが新後の鼓膜を抉りとる勢いでがなりたてる喧嘩は今までなかった。
 安乃も確かに叫んでいたが、より鋭く攻撃的な声はおものものだった。安乃を罵倒し、とにもかくにも喚き散らす。その内容を具体的に覚えてはいない。というより具体的な内容が果たしてあったかも定かではない。あれはもはや言葉ではなく音であったのではないか。敵を蹂躙するために流される類いの音だ。
 その罵倒に次ぐ罵倒は永遠に続くように思われながら、それはおもの啜り泣く声で休戦することとなる。モルモットやハムスターといった小動物のささやかな鳴き声のようだった。安乃も憐れみを覚えたのか、いつもの低い声で彼女を慰め始める。喧嘩はそのままなし崩し的に終わった。
 あの啜り泣く声と、先に聞いた啜り泣く声は全く同じでゾッとした。
 そしてその怖けの中で今、あの時に一体彼女たちが何を言っていたのかに気が惹かれる。具体的な内容は覚えていない、想いだそうとしても何かが邪魔をする。だが予感がある。あれは確か不倫についての口論ではなかったか?と。
 そして、邪な思いが首を擡げはじめる。突き動かされ、新後の手は勝手に“飯島秀男”とおう名前を検索してしまう。あの初めて出会った日に言われた通り、建築家である彼が自身で設立した事務所のページがブラウザに現れた。色々と情報を確認するのなら、その所在地へは最寄り電車である都営新宿線1本で行けることが分かる。
 分かった瞬間新後は、安乃がこの地下鉄に乗って秀男の事務所へと向かう姿を否応なしに想像してしまう。そこまで座り心地のいいわけではない座席に腰を据え、彼女は古本屋で買ってきた文庫本を読みながら地下鉄が目的地に着くのを待っている……
 胃のなかで胃液と細菌に塗れた食物の滓がヌラヌラとくっつきあい、あの薄汚い吐瀉物として少しずつ体内を迫りあがってくるような感覚を新後は味わう。
 そのムカつきに苛まれていると、秀男という名に組込まれた“男”という文字を見ているだけでも虫酸が走ってしまう。
 なおも彼について調べ続けるならば、ある記事が出てきた。そのインタビュー記事において秀男は建築家としてではなく、三ヶ嶋赫というゲイの映画監督、彼のパートナーとして日本における性的少数者の置かれる立場について語っていた。
 そこで彼は自身を“クィア”と表するのみで、ゲイかバイかの明言は避けている。だが今安乃と付き合っているということは両性愛者なのだろう。パンセクシャルという可能性もあるにあったが、彼の脳髄ではただバイセクシャルという言葉が不穏に響きつづけ、モヤモヤはさらに深まった。
 そのモヤモヤを解消するため、彼は恋人の迎田夏彩のことを考えながらマスターベーションを始める。妄想のなか、彼は恋人と隣りあい相互にマスターベーションを行っている。彼女が自身のヴァギナを触るのを見て、後で自分もああいう風に触れてあげるのなら彼女を気持ちよくさせられるかもしれない。そうしてか細い喘ぎ声をあげてくれるなら、それが一番心温まることだ。
 そして夏彩も自分がいかにペニスに触れるかを見てくれることで、どうペニスを刺激すれば自分が気持ちよく思えるかを知ってくれる。それにまた満たされるのだ。
 新後と夏彩はセックスは幾度も経験していたが、挿入行為をしたことはない。彼らの共有する認識はこうだ。コンドームを装着したり、ピルを飲んだとしても妊娠する危険性がある行為はしたくない。そしてそういった挿入行為をせずとも、互いに触りあうなどするだけでもこんなに気持ちがいいのだから、挿入する必要性がない。逆にそんな危険を冒してまでも挿入行為を行おうとする一般のカップルの気持ちが全く理解できない。特に異性愛者のカップルは、レズビアンカップルがやるような手や舌でこそ楽しむセックスをもっと見習うべきなのだ。
 そして充足感に包まれながら、新後は射精をし、精液を包みこんだティッシュを処理しようとする。実を言うなら、ペニスは邪魔くさいと新後自身思っている。勃起した際に煩わしいし、射精の後処理も面倒臭いものだ。自認こそ男性ではあるが、今どきペニスのない男性も珍しくはない。そういう存在に生まれてみたかったと少し思うことがある、そんな人々の苦労も知らずにこう願うのは身勝手と分かっていながらだ。
 新後は処理を終え、再びベッドに寝転がる。
 確かに心地よさに満たされている。だがその端に、未だささやかなモヤモヤが蟠っているのにも新後は気づいている。

 翌日、新後は高校で鞴中野と久しぶりに会った。
 いつだって彼の目を惹くのは、中野がいつだって優雅に揺らしている、脱色したような白い髪だ。まるでフワフワの雲を被っているような髪型の方へ、自然と視線が引きずられるのだ。
 おそらく中野は不登校であり、それでも何故か時々は教室に顔を出して授業を受けたりするのだが、あの白い髪も相まっての飄々とした佇まいに、新後はそこはかとなく憧れを抱いてしまう。
 中野のそんな浮世離れした雰囲気に惹かれ、ある時新後は何とはなしに話しかけてみたのだが、意外に相手は乗り気で言葉を返してくる。その時に中野は、英語も勉強せずにマルタ語というマイナー言語を勉強していると新後に話したのだった。マルタ語について書かれた日本語の本は「マルタ語基礎1500語」しかないが、これは文法書というより単語帳なので、そこまで便利ではないらしい。
 ここから新後は中野と会う時には毎回話すようになった。中野は新後には母親が2人いることも知っているし、彼女たちが“離婚”したことも知っている。そういった個人的な事柄も軽く話してしまっても構わなく思える、そんなある種の聞き上手といった雰囲気を、中野は意外なまでに纏っていた。
 そして新後も中野についてこういったことを知っている。マルタ語を勉強していること、「悪魔の密室」という昔のマイナーなB級ホラーが好きなこと、お笑い芸人である東京ホテイソンのボケ担当ショーゴのYouTube動画を観ながら毎日筋トレをしていることなどだ。だが家族構成や住所、これまでの人生などそういうことは全く知らない。
 新後の頭のなかには、中野に関する情報に関してあからさまな空欄が存在している。
 だが新後としてはそれで良かった。知ろうという気もあまりなかった。この距離感こそが良いと思わせるのは、中野がその身に纏っている神秘性ゆえだと新後は納得していた。
 高校で会った後、彼らは早々と学校を抜け出し、近くのショッピングモールに向かう。
 サーティワンアイスクリームを買い、外のベンチで隣りあいながらそれを喰らう。新後は新作フレーバーであるブッシュ・ド・チョコレートのレギュラーサイズ、中野はポッピングシャワーとラブポーションサーティワンのレギュラーダブルだ。
 喰らいながら、新後は自身の母親である安乃に新しい恋人ができたらしいことを中野に話した。だが自分の知っていることを何故だか秩序立てて説明することができないことに気づく。語りが要領を得ず、断片的になってしまうことに自分で驚いてしまう。おもに話した時はこうも無様ではなかった。
 それでいて、中野は“つまりこういうこと?”といった風に要約を試みたり、自分の考えを言葉にすることがない。相当大きな2つのアイスを貪りながら、ただうんうんと頷いて彼の話を聞いていた。なので新後もついそのまま断片を投げまくってしまう。
「バイって何か見境ないヤリチンとかヤリマンが多いって噂あるよなあ」
 ネットで読んだような与太話を口にした時、中野がベンチでタバコの箱を取り出すのでさすがに驚かざるを得ない。
「いや、ここで吸うなよ」
「いいやろ、別に」
 “テキトーな”という形容が似合うような返事を返しながら、中野は1本タバコを抜き取ると、それをゆっくりと口に咥える。唇についていたポッピングシャワーの青いアイスが、タバコの白い表面にペトとくっつくのが見えた。
 これを咥えたまま、中野はさらにポケットからライターを取りだし間髪入れずに火を灯す。鮮烈な橙が空気を抉りとるような勢いで、新後の視界に現れる。これをタバコに近づけていき、そうしてタバコの先端に火がまた灯される。ジリリと紙が灼け、炎とタバコの混じりあった匂いが新後の鼻にも届いた。
 中野はそのまま深く息を吸う。ここでタバコを口から離すのだが、息を吐こうとはしない。代わりに中野の頬がゆっくり脈打っているのが新後には見える。そして一瞬皮膚が痙攣した後、中野は思いきり息を吐いたんだった。
 はぐほおうと、真っ白な煙がくゆりたゆたう。その白は中野の髪の色よりも粗いものだったが、2つの白が交わりあう風景に新後は思わず見とれてしまった。
 “火のないところに煙は立たない”
 そんな諺が思い浮かんだのはこの瞬間のことだ。
「バイって何か見境ないヤリチンとかヤリマンが多いって噂あるよなあ」
 同じ瞬間に、さっき自分が言った言葉も思いだした。
 そして新後の頭のなかで、2つが結びついた。
 音もなく静かに、
 しかし一瞬で。
 これに気づいた時、新後は
 何か不思議な焦りを覚えた。
 いや
 いやいや
 いや、これはただの
 つまんない偏見
 だろ。
 そう
 自分に言い
 聞かせる。これを頭から
 振り払おう
 とする。だがそうすれば
 するほど、ウィルスの
 ようにこの言葉が増殖していく
 ような感覚に襲われる。
 これは一体何なのか。
 ……だろ」
 横で中野が何か言ったことに、新後は後から気づいた。
「は、何か言った?」
「じゃあな」
 そう言って中野はベンチを立ち、向こうへ歩き去る。
 何かがおかしかった。様々なものを自分が見逃し聞き逃したような感覚がある。
 新後はただ遠ざかる中野の背中を見ているしかできない。

 翌日、新後は都営新宿線に乗っている。
 乗ったばかりの頃はマスクをする乗客の方が割合は多いと思えた。しかし東京の都心に入るにつれ、マスクで顔を覆う乗客が少なくなってゆくのを、何より彼の網膜が感じている。ムカつきを感じた。
 ふとまたあの秀男という輩の顔も思い浮かぶ。笑顔だった。その笑顔はマスクで一切覆われていなかった。だが彼と会ったのは、あの日のみ、つまり部屋内で共に食事をしたあの日のみであり、頭に浮かぶ彼のイメージがマスクを伴っていないのは当たり前なのだ。
 ムカついた。ムカつくがゆえに、そのイメージにマスクを付け加えようかとも思えた。だがマスクを加えない方が、彼が無責任な人間に見える。少なくとも新後は彼についてsぷ思い易くなる。だから結局マスクは付け加えない。
 そして秀男が経営する事務所、その最寄り駅に着く。
 新後は外へと続く地下鉄の階段を上がっていくのだが、危機感を覚えるほどに風が吹き荒んでいる。人混みを掻きわけるように、その強風の真っ只中を歩いていく。
 「うわ、風強すぎだろ」
 こんな声が聞こえた。その源が、他人の口か自分の口かすら分からない。
 自分ではないと思いたい。新後は強風に圧されるなかで負けん気が出てくる。彼は下半身に力を注ぎこみながら、無理やり階段を上っていく。
 そうして外に出た時には、もはや達成感すらも感じた。
 だが外には、一切がない。ただ果てしなく凍てついている。達成感もすぐに冷えた。
 新後は暗い夜道を歩く、歩き続ける。そこで様々な考えが浮かんだ。
 そういえば安乃は同性婚法制化について家族の前でほとんど話すことはなかった。逆に法制化運動に熱心に取り組んでいたおもからこれについての話を振られると、いつであっても縮みこむような苦笑いで逃げるようにしていた。
 もしかするならばこれは、自分は結局異性婚をするつもりだったゆえに余計な騒動が起こらないように同性婚について喋るのを避けていたゆえの態度だったのではないか。こじつけであるかもしれないが、その可能性がないとは言えないはずだ。
 更に思い出せることがある。名前は忘れたのだが、テレビにあるイケメン俳優が出てきた際、安乃はおもの前で堂々と彼を“カッコいい”と形容した。おもは露骨なまでに不機嫌な態度を取った、具体的には首の胸鎖乳突筋をググと浮かびあがらせ、そしてその膨らみを左手で掻き毟っていた。これはおもが嫉妬を感じた時の癖なのだ。実際に考えれば考えるほど、安乃がバイセクシャルであることの布石があったことに思い至り、腸が煮えくり返ってくる。
 ふと新後は、自分の人生がアメリカのクィア映画、正確に言うならば一昔前、2000年代のクィア映画であったとしてもしっくり来ると思えた。何故2000年代かと言うなら、現在のアメリカのクィア映画においてこういった状況はある種のコメディ映画として処理される類のものだ。シリアスな形で捉えられる問題ではない。これがシリアスに描かれるとするなら、それは性的少数者の権利が広く受け入れられていない国でこそだ。日本はつまりそういう場所なのだ。
 そして新後は事務所に着く。同時に秀男が、おそらく同僚たちと一緒に出てくるのを目撃してしまい、驚いてしまう。
 彼らは駅の方、つまりは新後が今まで歩いてきた方向だ。息をつく暇もなしに、新後は駅へと戻らざるを得なくなる。
 距離を取りながら追尾するなかで、秀男が若い男女に囲まれてヘラヘラしている様をまざまざと見せつけられる。虫酸が走る。そして彼は同僚たちと明らかに距離が近いように感じられる。男女ともに肩組んだり、自然に体触れたりというのを異様な頻度で見掛ける。もし彼がアメリカ人であったなら、ああいう過度なスキンシップも有りうるかもしれない。だが日本人としては妙だ。明らかに日本人離れしている。もしくは、事務所で既に酒飲んでたか? 誉められたものではないが、まだマシな想定と新後には思えた。
 駅に差しかかり、同僚たちは駅の階段を下っていた。だが秀男自身は彼らに別れを告げ、独りでそのまま外を歩く、独りになるとより一層、風を切って歩いているような余裕がその身から際立つ。
 今年は酷暑だった。1週間前ですら、11月でありながら夏の熱気が鮮烈に残っていたが、ここ数日は逆に凄まじい勢いで冷えこみ、今はもはや寒すぎる。寒がりの新後はコートを着込まざるを得ず、指がかじかんでうまく動かせない時すらある。
 だが秀男は割合薄着で楽しげに歩いている。その薄着姿で風を切るように歩いている。新後にとって愉快ではない。
 いつしか2人は閑静な住宅街に入っていく。
 ここならば、後ろから歩み寄り秀男の後頭部を強打したとしても、そのまま逃げられるのではないか、目撃者も見つからないまま迷宮入りになるのではないか。
 すると、秀男の向こう側から自転車がやってくるのが見える。
 秀男は何となしに
 その自転車を見ていた。
 だが急に
 脳髄に無数の
 イメージをブチ注ぎこまれるかのごとく、
 新後はある光景を幻視する。急にそ
 の自転車がバラ
 ンスを崩し運転手の努力もむなしくその自
 転車は猛ス
 ピードで秀男に突っ込ん
 でいき真正面から激突し彼が吹っ飛
 ばされ後頭部を強
 かに地面に打ちつけ頭が砕け散り黒黒しい血がドロドロとアスファルトを流れる
 そこで幻視は終わり、新後の意識は通常のものに戻る。一瞬何が起きたのか理解できなかった。幻と言うにはあまりにもリアルな光景だ。何もかもが初めての経験であり、心底震えざるを得ない。
 だが前を向き直すなら、実際に自転車はこちらへと向かってきている。今の新後は、何故か先の幻視を嘘と思う余裕が一切なかった。これは数秒後に間違いなく起こると、根拠もなしに既に確信していた。
 そして気づいたのは、この位置にいる自分なら確実に秀男を助けることができるということだった。後ろから走り寄り秀男を左の方向に突き飛ばすのなら、幻視中で確認できた自転車の軌道から鑑みて、彼を間違いなく助けられる。
 だがもし助けなかったなら……そう思うと、また浮かびあがるものがある。
 病院のベッド
 傷ついて横たわる秀男
 彼を看病する安乃
 安乃は泣くのを必死に我慢しながら
 看病を続けていて
 その願いが通じて
 秀男が目を覚ます
 安乃が彼を抱きしめる
 良かった、本当に良かった
 そういう感動の瞬間が思い浮かんだ。
 もし彼を助けなければ、確かに秀男は相当な怪我を負うだろう。
 しかし怪我の功名といった風に、秀男と安乃がより深い結びつきを得ることになる。
 これが新後には分かった。
 とはいえ今の新後の心境としては、未来にこうしたことが起ころうとも、秀男が傷つく瞬間をこの目でキッチリと目撃しておきたかった。
 ということで新後は何もしない。
 すると数秒後、幻視の通り自転車がバランスを崩す。その自転車はコントロールを失い、猛スピードで走りだす。運転手の努力もむなしく、自転車はそのまま秀男に突っ込んでいき、そして真正面から秀男に激突した。秀男の体は、見ている新後が本当に驚くほど吹っ飛んでいく。こうして彼はそのまま後頭部を強かに地面に打ちつけることとなる。ぎめゆッ゙とその頭が砕け散る音が響く。また数秒が経ってから、黒黒しい血がぐちつぐちつとアスファルトを流れ始めた。
 その一部始終を眺めた後、新後はあの頑固だったモヤモヤがスッキリと晴れているのに気づいた。久しぶりに、気分がいい。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。