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コロナウイルス連作短編その83「ずっと前から知ってたんだよ」

 朝、窓辺で掠れた陽光を浴びるプロリフィカ錦の美しさに、正角浅葱は見惚れる。その柔らかに膨らんだ肉厚の葉々は、まるで互いを慈しみあうように優雅に重なりあい、それを愛おしく思わずにいられない。その柔らかさを覆う薄い緑の色彩、そこに初冬の細雪さながら淡いピンクの彩りが振りかかっている。とても小さな存在だったが、見ているだけで心が静寂のなかで洗われる。
 このプロリフィカ錦を育てることは、今の彼にとって日々の癒しになっていた。延々と、永遠と這いずり終りの見えないコロナ禍、その閉塞感にウンザリしていた時、友人から植物を育てることを勧められた。最初乗り気でなかったのは、小学生の頃に朝顔を育てさせられ日記を書かなくてはならなかった夏休みの面倒臭さを思いだしたからだ。だが少しだけ興味が湧くなか、目を惹いたのは多肉植物というものだ。普通の観葉植物とはまた異なる独特の愛らしい姿、特にまるでぷにぷにという可愛らしい音が聞こえてきそうな肉質の葉には心惹かれた。しかも育てるのは簡単だそうだ、浅葱は仕事の合間に多肉植物について色々と調べた。そこで出会ったのがプロリフィカ錦だった。もちろんフォルムにも惹かれたが、何より心を掴んだのは名前にある錦という言葉、それは彼の同性の恋人である谷錦と同じものだった。この事実が頭から離れぬまま、浅葱はプロリフィカ錦を買い、育てはじめた。彼は、自身の頗る長く伸ばした肩までかかる髪を愛するのと、赤みを輝かすトマトさながら快活な体臭をいつだって露にする錦を愛するのと同じように、この植物をも愛している。だが錦には植物の名前を秘密にしている。

 浅葱はパレスチナ映画に日本語の字幕つけを行う。パレスチナ人が故郷を追われた後にイスラエルが独立を果たした5月15日、ナクバと呼ばれる厄災の日、それを背景とした2国間の激烈な衝突が今も繰り広げられている。そんな中である独立系の映画配信サイトがパレスチナを支援するため、この国の女性作家たちが制作した作品を無料で配信し始めたが、その作品群に日本語字幕を付けてくれる翻訳家を募集していた。彼らの志に共感を抱いた浅葱はその字幕翻訳に立候補した。アラビア語パレスチナ方言を解する訳ではない、この作業は英語からの重訳だった。普段彼は重訳を好ましく思わない、彼自身はルーマニア語を解し双方向的な翻訳を行っているが、ある出来事には反感を抱いた。つい最近ルーマニアのSF短編集が、ルーマニア語からでなく英語からの重訳で大手出版社から発売されたのだ。それはルーマニア語がマイナー言語ゆえ舐められ、かつマイナー言語の翻訳家である浅葱には仕事に介入できるほどの権力がないことを意味しているように、少なくとも彼には思えた。そんな自分が英語からの重訳を行うのは倫理に反するように思えながら、これは事態の質が違った。パレスチナ問題と今勃発するパレスチナ人への蹂躙を、映画を通じて日本人に伝えることの重要性は、日本においてはマイナーな国の文化を利用した大手出版社の金稼ぎと格が違う、浅葱はそう割切る。そしてこの割り切りを使命感で塗り潰す。
 スクリーンに現れるのはお馴染みのGoogleマップ、とある街の風景が鮮明に浮かびあがる。網膜にその豊穣が広がっていくのを感じる一方、耳朶にはある女性の悲しげな声が響く。彼女は誰かを探し求めているようだ、その響きにこそGoogleマップが操作される。写真の歪み、疑似的な移動、瞬間に移り変わっていく街並。ある時、彼女は画面に映る道はイスラエル人によって名を変えられたと語る。アラビア語からヘブライ語へ、それが苛烈な暴力の一形態だ。
 今作は映画作家が自身の祖母の言葉を題材とした短編らしい。イスラエル人の入植により当時住んでいたハイファを追われ、長きに渡りレバノンで難民として暮らざるを得ない状況にあった。彼女はGoogleマップを通じ故郷へと帰りながら、イスラエル人によって作り変えられた風景に当時の面影は存在しない。今作はパレスチナ難民、その第1世代の記憶をGoogleという今の先端技術によって語り直す作品として際立っていた。だからこそ女性の叫びにも似た言葉を、日本語に翻訳するのは難儀だ。たった7分の作品に数時間を懸け、ディテールに細心の注意を払いながら翻訳する、重訳だからこそ猶更だった。

 休憩のためにリビングへ赴くと錦がいた。同じくテレワーク合間の休憩に来たらしい。だが脳髄に小さな数億本の針を刺されているかのような苛つきを露にしながら、タブレットで何かを見ている。
「何か機嫌悪そうだけど、どうしたの」
「星野源と新垣結衣が結婚したってさ」
 錦がそう吐き捨てた。この2人がテレビの有名人だということは知りながら、浅葱はテレビに興味がない、必然的に彼らにも興味がない。そこには自分を楽しませるより、傷つけるものが多い。彼はいつも恋人がまるで自傷行為さながらテレビドラマを貪る様を怪訝に思う。
「みんな浮かれてるよ、ドラマで共演した最高の2人が結婚したってさ。馬鹿じゃねえの。どうせこれも政府がコロナ対策で無能を晒す現実から国民に目を背けさせるための、御用マスゴミのプロパガンダだろ。それに『逃げるは恥だが役に立つ』観たうえで喜んでんのかよ。このドラマって婚姻制度へのカウンター的な価値観を描く作品だったはずだろ。それが結局、典型的なセレブ同士の異性婚で社会のケツ穴舐めじゃねえか。こうしてだよ、異性婚が大々的に寿がれて異性愛者がのうのうと婚姻制度を享受して幸せ幸せって一方、俺たちはいつまでもその蚊帳の外で無視されるんだ。クソでしかないだろ」
 錦の熾烈な罵詈に、浅葱は少し驚く。いつも彼が聞く錦の言葉はこうだ。婚姻制度は破壊されるべき、同性婚を求める同性愛者の友人たちにはヌルさを覚える、自分たちを散々踏みつけてきた異性愛者にお膳立てされた制度に乗っかるのか、それが同性愛者以外の婚姻という選択を取れないマイノリティへの抑圧になると分からないのか。だからこそ彼が最後に絞り出した言葉には驚いた。
「結局、結婚したいの?」
 浅葱は何気なくそう言った。彼自身は結婚に何の興味もなかった。
「そういう問題じゃあないんだよ」
 錦はひときわ巨大な声を響かせる。
「俺が結婚したいとかそういう問題じゃあない。同性愛者が婚姻制度の恩恵を受けられない不均衡が自裁に存在するんだよ。この不均衡を是正するために同性婚は保証されなくちゃいけない。それから他のマイノリティが例え独りで生きていたとしてもこの恩恵と同じものを受けられるようにして、そのうえで婚姻制度自体を解体すること、これが重要なんだよ」
 のべつまくなしに喋った後、錦は付け加える。
「お前は結婚とかそういうの興味ないだろ、じゃあ黙ってろよ」
「はあ?」
 さすがに頬が熱くなるのを感じた。
「おっ、怒ったか。何だよ、そういう感情もあるんだな。だけどさ、お前は、何だっけ、パレスチナ問題に首突っ込んでりゃいいんだよ。映画に字幕つけてるんだっけか、でもそれボランティアだろ。もっと金もらえる仕事やれよ、俺ら貧乏なんだからさあああ」
 テレビから新垣結衣と星野源の結婚を祝福する歓声が聞こえる。
「結婚っていうのは、俺たちの生活とか金とか、ていうか生それ自体に密接に関わるんだよ、そういうのに興味持たないでどっか遠くで起こってる馬鹿同士の殺しあいにこだわって自分のリソースを割くっていうのはアホらしすぎる。自分の行動振り返れよ、イスラエルの企業が関わってるからコカコーラは買わない、ジョンソン・エンド・ジョンソンのコンタクトは買わない、いや馬鹿じゃねえのマジで」

 部屋に戻り、適当にネットを散策する。Twitterではダマスカスヤギという動物の奇妙な風貌に注目が集まっていた。
「子供のダマスカスヤギみたいだな、君」
 ふと錦に初めて会った時、そんなことを言われたのを思いだす。そんな名前聞いたことなかったので何も反応できなかった。錦はスマートフォンで写真を見せてくる。身体の純白さや円らな瞳もも印象的だが、何より浅葱の目を引いたのはその耳だ。引き延ばされた永遠のように長い耳は、前足の膝まで伸びている。羽衣を纏う天女さながらに優雅だ。おそらくこの耳が似ていると彼は言いたいのだと浅葱は思う。その頃、彼の髪は今より短かった代わりに、銀色に染まっていた。
「ここまで僕のこと神秘的に見える?」
 錦の多肉な頬を見ながら笑う。その後に錦は大人になったダマスカスヤギの写真を見せてきた。頭が異常に肥大した、牧場の肥やしを思わす糞色に塗れたその怪物的な姿に浅葱は思わず吹きだした。
 その後、彼らは何となしに恋人関係になったが、錦の武骨な手の甲が自分の長い髪を撫でる瞬間が好きだった。その時は、自分があの怪物的な姿に変貌しようと、錦はずっと一緒にいてくれると思えた。
「僕はアンタらよりずっと前から、ダマスカスヤギがどんだけ変な動物か知ってたんだよ」
 浅葱はそう言った。
「僕はアンタらよりずっと前から、ダマスカスヤギがどんだけ変な動物か知ってたんだよ」
 浅葱はプロリフィカ錦の鉢を掴み、壁に向かって投げた。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。