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コロナウイルス連作短編その101「皿を洗う、トマトを切る」

 妻の料理は今日も不味い、浅子友はそう思う。最近は少し調子の悪い友に変わり妻の心乃が夕食を作るのだが、稚拙で不味い。味が異様に濃い、いくら助言してもこの破滅的な濃さが改善されることがない。理由は明白だ。初心者でありながらレシピ本の指示に従わず、自分の加減で料理を続ける。“まあ、こんな感じでいいでしょ”という廉い妥協が料理の旨みを撃滅し、皿には色彩だけは豊かな荒廃が広がる。何よりも苛つくのは、台所を汚しに汚した挙げ句、後片付けを行おうとしないことだ。たまに料理をする夫が妙に手のかかる豪奢な料理を作り、妻の苦労をねぎらう素振りを見せながら、後片付けは妻に押しつけ結局それは自己満足の発露でしかなかったと発覚する、そんな事例をママ友から聞いたことがある。だがそんな怠惰さを自身の妻が持っているとはつゆと思わず、愕然とさせられる。日頃料理をしない人間はどいつもこうなのか?
 今日も心乃は後片付けになど目もくれず、風呂に入る。友はシンクを苦い思いで見据える。後でやるかもしれない、そう思う、だがこのカオスみたいな汚物の塊が放置されているには耐えられない、そうも思った。とうとう友は皿を洗い始める。実際、皿洗いという行為が嫌いという訳ではない。沫や湯が皿の汚れを洗い流していく様を感じると、心の滓もまた浄められる。だが浄化の最中、心乃の軽薄な笑顔が浮かぶと虫の酸が顔面を駆け抜ける。父親が皿洗いするのを見て、息子である匠がやってきた。台所に台を置き、それに乗り、父が洗った皿を器用に拭いていく。
「ありがとうな、いつも」
 匠はへっへっへっと笑う。だが瞬間、真剣な顔つきになり皿を拭くことに専念する。彼は未だ幼いながらも、責任というものを自分から学び取り、誰に言われるでなくそれを行動に移している、少なくとも友にはそう思える。日常のなかのささやかな瞬間にこそ、深くそう思える。これを成長と言わずに何と呼べばいいのか彼には分からない。匠が生まれてから、この世界は加速度的に悪しきものへ変貌を遂げている。予想以上の甚大な悪化に成す術もない。友は幼い匠に対して、こんな世界に彼を産み落としたことを申し訳なく思う。この幼さで責任を学び遂行する様に誇りを抱く一方、今の彼がそんなことをする必要はないと苦い思いを抱く。だからこそ自分自身が責任を果たさなくてはならない。この世界に産み落としてしまった命、産み落とされた命に対し敬意を持ち、責任を果たさなくてはならない。皿洗いが終り、2人で皿を棚へと片付ける。匠から皿を受け取り、友は棚へ1枚1枚それらを綺麗に収納していく。終った時、清々しい気分で背伸びをする。横では匠が晴れやかな笑顔を浮かべている。
「ありがとうな、いつも」
 もう一度そう言い、友は匠に対して辞儀をする。そして彼に右手を差し出し、握手をする。グッときつくその拳を握り締めると、彼はまた力強く握り返してくる。この力が心強い。

 トイレに行く。赤いボクサーパンツを脱ぐと、腸液のくぐもった強烈な匂いが漂ってくる。パンツには黄色い汚物まみれの生理用ナプキンが付着している。彼は痔瘻の手術をしたばかりで、肛門からは膿や血液、腸液が混ざった名づけ得ぬ分泌物が止め処なく溢れる。1日に4-5度はナプキンを変えざるを得ない状況が続く。それでも生理がある人々は月に1度この行為を行わざるを得ず、それは閉経まで続く、これに比べれば自分は1-2か月我慢すればいいのだからマシだと、友は自身を慰める。
 パンツからナプキンを取り、その匂いを自分から嗅ぎにいく。その悪臭に吐き気を催す一方で、奇妙な快楽まで感じる自分の感覚に驚かされる。悪臭に鼻の粘膜をなぶられることを彼の感覚は間違いなく悦んでいた。痙攣させるように鼻を動かし、悪臭を取りこみ、鼻内の細胞を殲滅される、この行程を飽きるまで繰り返す。
 トイレの隅には、心乃がナプキンを捨てるサニタリーボックスとは別に、ゴミ箱がもう1つある。友専用のものだ。既に中には消臭効果つきの黒いミニビニール袋の塊が幾つか入っている。友はその1つを手に取り、結んだ口をほどく。中にはやはり汚物まみれの生理用ナプキンが入っており、更に強烈な匂いが漂ってくる。ミニビニール袋はミニとはいえ、ナプキンなら何個か入るくらいの容量がある。その中途半端な大きさが友の貧乏性を刺激する。この袋をナプキン1つ入れただけで捨ててしまうのは勿体ない、ついそう思ってしまうのだ。友は袋に新しい汚物つきナプキンを入れ、再び口を結んでゴミ箱に捨てる。指は完全に腸液の悪臭まみれになっていた。それをまた嗅いでいるうちに、妻である心乃の顔面にこの肛門を押しつけ、ケツ汁を舐めさせて掃除させる光景が脳裏に浮かぶ。だが彼女はマゾヒスト的な嗜好を持つゆえ、勤勉に手術痕やケツ汁を舐めながら喜ぶだろう、それでは駄目だった。気の強いラテン系女性の顔面に騎乗し、スペイン語で意味不明な罵詈雑言を喚かれながら、ポルノ作品のようにそのクリトリスを独善的に刺激してやりたい、彼の満たしたい欲望はこういったものだった。

 匠と心乃がリングフィット・アドベンチャーで身体を動かす横で、友は欲望を満たすための努力をする。言語学習サイトTandemで、彼はスペイン語の勉強を行う。このサイトは月額800円を払うと利用者の位置情報を閲覧することが可能になり、友はこれを利用して東京に住むラテン系女性を探し続けている。彼が目をつけていたのはルシアという女性で、プロフィールを読む限り早稲田大学に留学しているウルグアイ人のようだった。頬骨の妙な膨らみに、自身の大腸が蠢くのを感じる。だが彼は急がなかった。1か月以上前から彼女の存在に目をつけながらも、まずしたことはウルグアイ文化を学ぶことだった。図書館に行きウルグアイ関連の書籍を読み、基本的な情報や地理を学ぶ一方、Tandemで他のウルグアイ人たちと交流し、日本ではあまり知られていない映画や音楽の情報を集めた。
 そして今、彼はとうとうルシアにメッセージを送ろうとしている。ウルグアイへの愛を濃厚に、しかし簡潔に表現していると思われる文章を英語で紡ぐ。ルシアは映画を趣味としているようだったので、主に映画文化への愛を記す。『前のめりの人生』において首都モンテビデオから噴き出す剥き身の生命力、『彼らがベナンシオ・フロレスを殺した』において描かれるウルグアイの血腥い歴史、『満月』の微笑ましいまでの低予算狼男ホラーぶり……
 友は時々自身の股間を見た。欲望への道を歩みながら、ペニスは勃起していないのがやけに恥ずかしく思える。匠と心乃が完全にリングフィットに夢中なのを見計らいながら、ペニスを刺激する。ポルノサイトは見ず、自身の顔面騎乗の妄想を、目を開いたままに深めながら、勃起を喚起する。数分後にキチンと勃起したので、嬉しかった。
 メッセージを送って数分も経たないうちに返信が届いたので驚く。ルシアは友のウルグアイ文化への知識に感嘆しており、この反応は彼の思惑通りだった。
 "あなた『暴力という行為』も観てるの? アレってサイコー。私のお兄ちゃんが大好きで、VHSでこの映画何度も何度も観て笑ってたな。横で私も観てて、ヒデーって爆笑してたりさあ"
 この文章を読みながらペニスが、今度は自然と勃起したので嬉しい。

 息子を寝かしつける。明日からウルトラマンの最新シリーズである『ウルトラマントリガー』が放映を開始するので、匠は興奮しているようだ。明日の遠足が待ちきれないとでもいう風に、ニヤニヤと無邪気な笑顔を浮かべている。
「早く寝ないと、朝起きれないぞ」
「目、めっちゃギィギィンで眠れん!」
 布団のなかであまりに元気よく叫ぶので、思わず苦笑する。
「もっと疲れてたら、眠れるかも」
 匠がそう言った。
「じゃあさ、スクワットでもするか」
 目を丸くする匠を尻目に、友はベッドの傍らで本当にスクワットを始める。わざと大仰な動かし方をし、太腿や関節を過度に駆動させる。足を覆い尽くす細胞が爆裂する幻聴を聞き、気分が良くなる。そして匠も突然ベッドから飛び起きて、友の横でスクワットを始める。
「よっしゃ、俺たちもウルトラマンくらい強くなろうな」
「うん。オレも光になる!」
 トリガーの台詞を真似しながら、匠は激しくスクワットをし、彼自体がもはや爆裂を遂げているようだった。どちらが多くスクワットできるかで勝負をしていたが、やっているうちにそれを完全に忘れ、身体が疲労によって泥のようになった挙句、彼らは同じタイミングで床に転がってしまう。そして瞬間に、匠は眠りに落ちた。息の調子や痙攣する肺の動きを整えた後、匠を抱きかかえる。前腕屈筋や伸筋に彼の重みがグッとのしかかる。息子は成長していた。彼を抱えたままに、友はスクワットをする。あまり鍛えていない身体にはなかなかキツい運動だった。だからこそ、嬉しかった。
 匠に続いて心乃も眠った後、タブレットでYoutubeを見ていると、ある女性のアメリカ人学者――名前からヒスパニックだと彼は思う――が、何故ポルノが人間の脳を破壊するのか?ということを語る動画が現れる。
 いい熟女だな。いわゆるMILFってやつだ。
 少し興味が湧いて動画を観てみる。皺の深い顔が常にスクリーンのこちら側にいる人間を見据えながら、ポルノの破壊的作用について講釈を垂れる。最初はネタとして嘲笑いながら観ることができたが、ポルノ中毒者、特に男性を劣等人種のように扱い、彼らに対して平易な言葉で啓蒙しようとしてくる態度に不愉快さを覚える。口許の濃厚な皺には虫唾が走る。先にウルグアイ人女性を性の対象にし、勃起したことを事細かに糾弾されている気がした。彼は食卓テーブルに置いてあるラップトップでポルノを再生する。黒人の巨大なペニスによってヒスパニックのポルノ女優が喘いでいる動画だった。主にその炸裂的な音声を聞きながら、視線は動画の女性に注ぎ、ペニスを刺激する。ちゃんと勃起したので、良かった。そして動画の女性を睨みつけながら、射精する。気持ちがよかった。ティッシュをゴミ箱に投入し、テーブルを拭くようのウェットティッシュでペニスを綺麗にした後、冷静な状態で女性のアカウントを調べていると、彼女は延々と、永遠とポルノがいかに人間に害を成すかについての動画をアップしている。再生数はほぼ1000に満たない。哀れだった。

 夢を見る。現実世界ではラテン系女性とのセックスがほぼ叶わないゆえ、せめてもと彼は明晰夢というものをマスターした。そして毎日も飽きもせずラテン系女性とセックスを行う夢を見る。今日の舞台は、全く潔癖的な純白の空間だった。SFなどで頻出する、AIによって創造された仮想空間といった実体なき、悍ましいまでに白だけが膨張する非人間的空間だと友は感じる。その床にズラっと全裸のラテン系女性が並んでいる。あおむけで股を開く者がいれば、四つん這いで臀部をこちら側に突き出す者もいた。友のペニスは当然勃起しており、現実のものよりも形がいい。古代ギリシャの彫像、それに完全に勃起したペニスが付いているのを見たことはないが、もし付いているとしたら、この美しきペニスだろうと友は想像する。彼女たちは蝋人形のように微動だにしないが、友がペニスを挿入すると突然淫乱になり、訳の分からない言語を喚きながら、身体を蛭のように動かした。友はすぐにヴァギナのなかで射精をする。だが勃起は保たれている。すぐ横に行き、女性のヴァギナに挿入し、射精する。すぐ横に行き、女性のヴァギナに挿入し、射精する。その繰り返しを楽しんでいた筈が、痛烈な衝撃とともに彼は目覚めさせられる。咳き込みながら周囲を見ると、心乃の右腕が胸に乗っている。彼女が寝ぼけて胸を叩いたのだと悟る。
 憤怒を覚えながらも、臀部が分泌液まみれなのに気づき、腕をふりほどいてトイレへと赴く。赤いボクサーパンツを脱ぐと、腸液のくぐもった強烈な匂いが漂ってくる。パンツには黄色い汚物まみれの生理用ナプキンが付着している。パンツからナプキンを取り、その匂いを自分から嗅ぎにいく。その悪臭に吐き気を催す一方で、奇妙な快楽まで感じる自分の感覚に驚かされる。悪臭に鼻の粘膜をなぶられることを彼の感覚は間違いなく悦んでいた。痙攣させるように鼻を動かし、悪臭を取りこみ、鼻内の細胞を殲滅される、この行程を飽きるまで繰り返す。
 処理を終え、手を洗わずにキッチンへ行く。友は野菜室からトマトを1つ取り出すと、それを切り始める。このトマトは皮が少し硬くなっており、少し切りにくいと感じる。そして何とか切ると、中の汁が無駄に溢れてしまい手が汚れる。だが友はトマトを切るのが好きだった。むしろ食すより、切る方が好ましい。このトマトだけでなく、基本的に彼にとってトマトは切りにくい野菜の部類に入る。だがこの切りにくさというものが、切るという行為の崇高さを友の心や、何より虫様筋や浅指屈筋、第1背側骨格筋などの筋肉に教えてくれる。この尊さは切りやすくても、切りにくすぎても実感できない。トマトはその意味で正に的確な切りにくさを宿していた。トマトを切り皿に盛った後、手を洗剤で念入りに洗ってからもう1つトマトを切る。これは匠の分だ。
 心乃と匠が起きてきて、一緒に朝ご飯を食べる。
「何か、最近自分で料理とか作って思ったんだけど」
 心乃が、トマトにシーザードレッシングをかけながら言う。
「料理って本当に大変で、友が料理してくれる有難さが分かった。ホント、本当にありがとう」
 そう感謝の言葉を述べた。
 じゃあ料理作った後に皿洗いもしろよ、ボケ。
 そうは言わなかった。
 代わりにふと、もし自分の行動が小説として描かれたなら、自分は悪者扱いであり、いわゆるミソジニストと呼ばれるだろうと、友は思った。
 だけどこういう薄暗い欲望を持ってないやつなんていないだろ、でも実際俺は不倫はしたことないし、他の女とセックスしたりとかもしてない、確かにやりたいことはやりたい、でも痴漢とかそういう性犯罪もやったことはない、倫理だかポリコレだかいう連中は人間の内心の自由まで批判して検閲しようとするのかよ、なあ、それにこうやって朝ご飯も家族のために作ってる、今は確かにケツを手術したばかりで体調がよくないから心乃に家事を大分任せてるけども、前は全部俺がやってたし、治ったら俺が全部やるんだよ「『ウルトラマントリガー』やるよ、観ようよパパ!」確かに俺は良いやつじゃあない、それはそうだよ、だけど悪い人間でもない、悪い人間っていうのはTwitterでさ、鍵アカの人間が俺の呟きに引用リツイートして、何か言ってるくせに、鍵かけてるから俺には見えない、そういう吐き気を催す卑劣さを恥ずかしげもなくやれる人間だよ、お前のことだよ、なあ、お前のことだぞ、絶対に忘れないからな、なあ、お前のことは絶対に忘れない、見てるからな、お前のことを一生追い続けて、追い詰めてやる、こいつみたいな人間が悪なんだ、俺は悪くない、俺は悪くないんだ、だろ、なあ、答えろよ、なあ、なあ、なあ、おい?

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。