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コロナウイルス連作短編その84「キルギスの兄弟」

 夕食を摂取した後、小山田箔は眠るまでの5時間延々と、永遠とガムを噛み続ける。彼はクローン病という腸の難病を患っており、それゆえの厳しい食事制限を課せられている。それを彼は“まともな食事”と形容することができない。壮絶な偏食家で野菜や果物を何も食べられない状態の箔は、毎日肉を喰らっていた。料理は全て妻の真千が作っていた。だが肉、特にその脂質は無数の炎症に蹂躙された腸を更に腐燗させるゆえ、食べられないとは言わずとも相当の注意を払う必要がある。鶏肉、ローストビーフなどはギリギリで許される。だが脂質を落とすための煩雑な調理を経て振る舞われるそれは、味のある遺灰としか思えない。彼には赦しがたい。ここ1年で30kgも体重が減った。それでいて、最近は薬のおかげで以前と同じとは言えずとも食欲が戻ってくる、ある意味では以前よりも強大だ。医師によると自己免疫の異常を抑えるステロイドに食欲を亢進させる効果があるという。食欲は戻る、しかし食事は遺灰の山、その終りなき反復。そうして食欲は餓えへと変貌してきていると、箔には思えた。
 だから彼はガムを噛む。近くのミニストップで売っている板ガムのBLACK×BLACKだ。眠気覚ましのミント味が気に入っている、それも数秒で消えるが。消滅の後にも、彼は数時間味のないガムを噛み続け、異様な頻度で沸きあがる大量の唾を飲み続ける。その執拗な行為によって箔は飢えを何とか押さえつけようとする。歯によって飢えを殲滅し、その死骸をアメーバレベルの微塵まで摺り潰さんとする。実際、これで飢えが減退しているように思われる。思わぬ作用として、腸の蠕動が少なくなり、彼を苦しめていた下痢と腹痛の頻度も減った。少なくとも箔にはそう思える。だから食事をしている以外、箔はガムを噛み続ける。
 真千とセックスをする際にも、彼はガムを噛んでいた。時々はそのガムを真千の贅肉に満ちた身体に擦りつけることもあった。だがそれは妻からの願望であり、この行為の裏側には厳格なマゾヒストである彼女からの厳重な命令があるゆえに、少しでも逸脱しようとすれば糾弾される。この日は、後ろから彼女のヴァギナにペニスを挿入する最中、箔は唾液をたっぷりガムに含ませた後、それを口から取りだして、肉の波紋を催した肩甲骨に張りつけ、そのまま強く押しつけた。押しつけるたび、真千の喘ぎ声が巨大になる。そしてガムを再び自分の口に戻す。妻の肉や汗の味をそのなかに探りながらも、そういった類いの生々しさはいつであっても感じられない。ただ無機質な凍てつきだけがある。セックスが終わり、真千は真珠色の艶を頬に浮かべながら箔の頬を愛しげに撫でる。
 「今日もありがとう」
 先にガムを張りつけた肩甲骨、そこと同じ部位に麻痺の熱を感じる。

 夜中、箔はYoutubeで旅行動画を観る。コロナウイルスによって、何よりクローン病によって以前のように海外旅行へ行くことはもはや望めない。その虚無感を彼はYoutubeで埋め合わせようとする。検索窓にキルギスという国名を打つ。夕方、彼はニュース番組で長野県にあるというキルギス料理店について知った。おそらくキルギスという国名を聞いたことはこの40年で数回ほどしかない。そしてこの国に関しては中央アジアの1国であることしか知らない。だから調べた。彼は2年前にアップロードされた動画をクリックする。顎髭の濃い男、頬が痩けている男、2人の大学生らしき若者が動画主だ。冒頭、彼らはカザフスタンの料理店で食事を済ませ、バスでキルギスへ向かう。国境を越えるのに5分かからなかったと彼らは笑う。首都であるビシュケクを歩きながら彼らは第1印象を語る。カザフスタンの首都アルマティより田舎っぽい、キルギス人はみな日本人やモンゴル人に似ている、カザフスタンは人種が混合で“金髪ボイン”もいたのとは大違い。“金髪ボイン”という言葉が滑稽に響く。40代の自分が大学時代の頃ですら、この言葉は死語ではなかったか。今の若者がこんな言葉を使っていることが奇妙に思える、未だ死んではいないのか? 2人はレストランに行く。顎髭の男が山盛りのポテトフライと謎の肉を食べる。豪快に貪りつくす様を眺めながら、自身の大腸が脈動する様を感じた。腹痛とはまた異なる、もっと大いなる破局への予感だ。苦痛を感じながらもある意味でこれは箔にとって快楽だった。自傷行為とはこういうことかと、箔は今にして知る過程にある。
 更に動画は続いた。ホステルで白人たちと酒を飲みながら談笑する、翌日市場に行き「ここはスリ多いらしいっすよお」と笑う、広場でアイスクリームを買い店主の少女の顔に“14歳”という字幕が浮かぶ。アイスクリームを食べながら2人が歩いていると、唐突に一般の中年男性がフレームインする。彼は破顔一笑の面持ちで何かをまくしたてる。機嫌は良さそうだ、その言葉は全くの謎だ。キルギス語、そんなものが存在するのか箔には分からない。2人の若者は“面白いけど頭のおかしいおじさん”としてその存在を処理する。だが箔はそれだけで切り捨てられない不気味な感覚に襲われる、彼は自分に似ているというほの暗い直感。重い瞼に覆われた薄い目、こんもりとした多肉の頬、ハイエナの死骸に浮かぶ類いの赤黒さに支配された鼻、そして場違いにも高貴な紫を控えめに輝かせる唇。蛮族の群れに奈良の貴族が1人だけ存在するかのようだ。出会ったばかりの頃、この貴い唇を真千に誉められて、嬉しかった。
 だが洗面所に行き自身の顔を確認した時気づいたのは、男に似ているのは30kg痩せさらばえる前の自分で、クローン病で衰弱する自分ではないことだった。もはや顔面全体が病的な痩の様相を呈し、唇の紫も不健康に掠れていた。
 あいつと俺は似ている。
 それでも鈍い確信を箔は捨てられない。

 翌日、彼は妻にこの動画を見せる。
 「いや、全然似てないと思う。太ってた時とも、今も」
 まるで昔の箔こそが病気であった風に彼女は笑った。その表情筋の蠢きを注視する。彼女は嘘をつく時、蛭に血を吸われるごとく皮膚が痙攣を起こす。だが今回は脂肪が緩やかに波打つばかりで不穏な動きは起こらない。箔の疑いは消えない。会社に行った際には長年の同僚である鈴木井串にも見せたが、どちらにも全然似ていないと言った。
 俺に気を使ってるのか? どこの馬の骨とも知れない国の人間には似てないと俺を慰めてるのか?
 勝手に不快感が滓さながら溜まるのを感じる。会社の洗面所で、実際に両手で皮膚を触りながら自身の顔を確認する。不思議と手に触れる感触は肉の柔らかさに満ちており、痩の侘しさはない、まるであのキルギスの兄弟の顔面こそ実際に触っているかのようだ、ベタベタと。
 夜、夢の中でも自分が真千とセックスをしており、かつもう1人の自分がそれを端から見ている、この発情期的な夢に箔は苦笑する。一方で、最近マスターベーションやセックスを経て射精する際に、精子の量が明らかに増えていることに気づいている。クローン病自体は死に直結する病気ではない。だが箔の脳裏から死が離れることはない。死に肉薄し、本能が子孫を残せと命令しているのか?
 そんな思いに苛まれながら箔はセックスを眺める。ふと疑念が湧いた、妻とセックスをするあの男は本当に自分なのか、あのキルギス人の男ではないか。彼はそれを確かめようとセックスする肉塊へ近づいていく。しかし身体はいっこうに近づかない。走り出すが、やはり距離は変わらない。バーナーで背中を焼かれるような焦燥を抱き、足を速めながらもあの場所へ辿りつけない。ペニスがヴァギナに打ちつけられる時の、薄氷が踏みしだかれるような酷薄な響きが大きくなる。そして男は真千の顔面を殴り始めた。その光景に自然と両の拳が固まっていく。全力で走り、走り、走りまくった挙げ句に箔は転ぶ。顔面が地面へ打ち据えられた瞬間、箔は目覚める。呼気は紙鑢のようにザラつき、完全に肩で息をしていた。横で真千が彼を気遣う。

 その日から箔の日常にキルギスが明滅し始める。前とは別のニュース番組で同じキルギス料理店が特集されていた、あるバラエティ番組でキルギスでは保健相や大統領が猛毒のトリカブトこそコロナの特効薬だと主張していると日本人たちが嗤う、街を歩いている際に女子高校生がキルギスと発言したのを確かに聞いた。その最中、偶然彼はお茶の水でキルギス映画の上映会があるのを知った。普段映画はハリウッドの娯楽映画しか観ない、そして今はコロナの心配は勿論、下痢と腹痛が頻繁になったゆえに映画館においそれと行くこともできない。しかしキルギスという文字列が宿す引力から、しばらく網膜を引き剝がすことができなかった。
 上映会場には予想以上に客が犇めいており驚かされる。彼と同世代から上の世代が多く、若者は疎らだ。何か妙に淀んだ、泥濘水のような匂いが空間に満ちており、思わず自分の体臭を確認する。クローン病と診断された以降、そこに鼻の粘膜が腐る類の不快な粘りを感じるようになった。今もそうだ。箔は部屋に入り椅子に座るが、それはシネコンのものとは比べものにならない貧相さで臀部に痛みを感じる。クローン病に痔瘻は憑き物で、今は幸いながらその苦痛を感じずに済む一方、この椅子にこそ痔瘻を齎される悪寒のような予感をも抱く。ガムを強く噛むことで我慢して座り続ける。
 映画が始まる。ソ連の都市部に住んでいた主人公の少年は、久し振りにキルギスの親許へ戻っていく。父はこのまま彼に残ってもらい、遊牧民である自分たちの暮らしを受け継いで欲しいと思っていたが、少年の心は2つの場所の狭間で引き裂かれる。まず箔は、少年がヘリコプターで故郷へ帰る冒頭に驚愕する。列車と同じように乗客がそこに乗り、外の風景を見ながら思い思いの時間を過ごすが、その場所は山岳部の上空だ。ドアが開いて落ちたら確実に彼らは死ぬ。その後に続く、キルギスの遊牧民の生活も衝撃だった。膨大な馬の群れとともに、少年と父は無限の荒野を駆け抜ける。ただそれだけの光景が20分以上続く。それほどキルギスとは宏大なのだ。今の自分の日常とあまりに懸け離れすぎて、眩暈すら覚える。
 その眩暈を不穏なものにするのは、登場する父親の顔面が箔に似すぎていることだった。重い瞼に覆われた薄い目、こんもりとした多肉の頬。モノクロ映画ゆえに鼻の赤黒さ、唇の紫は確認しきれないが、箔にはモノクロの奥にその色彩があると独りよがりの確信を抱いている。父親は乗馬などの仕事には長けながら、家族に対しては強権的だ。後半において彼は自身の考えに反した妻へ暴力を加える。そして彼女を助けようとした主人公にもだ。逃げ惑う彼の顔がクロースアップになり、そこに刻まれた戦慄を箔は追体験する。突然、淀みながら濃厚な体臭を感じ、箔の横に1人の観客がヌッと現れたのに気づく。
「ガム噛んでんじゃねえぞ。聞こえてんだよ、俺には」
 箔は逃げ出した。同時に腹痛に襲われ、トイレへ駆けこんで下痢便をブチ撒ける。しばらく腹痛は収まらない、灰燼色の液体金属さながら大腸内で渦を巻く。

 家に帰り、真千の作った料理を食べる。どんな料理でも関係なく、もはや食事は彼にとって拷問であり、もう前には戻れないことをまざまざと味わわされる。クローン病は今の医療では一生治らない。その一方でこの拷問は彼の食欲を確かに満たし、常時栄養失調状態ゆえに食事はせざるを得ない。だが飢えの感覚は増大する。夕食の後、箔はガムを執拗に噛みまくる、噛みまくった。あの謎の男の脅威が蘇りながら、ガムを噛み続け恐怖すらも噛み砕く。
 真千とセックスをする。槌を打ちつけるようにヴァギナにペニスを挿入する。快楽が高まると同時に、恐怖の砕かれた死骸が静かに再生を遂げる。腹が痛む、箔は腰の動きを速める、真千の息遣いが荒くなる。彼女の左肩甲骨の上にガムを擦りつける。その行為はいつしか殴打に変わり、肩甲骨の固さを自身の拳骨で感じる。背骨の隆起に寄り沿う窪みに唾を吐く、何度も何度も吐き捨てた後に絶頂に居たり、ゴムの中に射精する。だが腰を振るのを止めない、真千の肉を感じることを止めない。最後には下腹部に鮮烈な痛み、小学生の頃にシャトルランで強制的に走らされた末の疲労の激痛を感じ、真千の肉体の上へ倒れこむ。惨めだった。彼女は箔を抱きしめる。
「私の言葉、途中からずっと無視してたね」
 真千が言う。
「時々はこういうのも良いかも、そう思ったな。でもあなたの暴力にはリズムがない、一辺倒なの。もうちょっと緩急というか、そういうのを意識してほしい」
 真千が言った。箔は彼女の頬を左の手の甲でゆっくりと撫でる、かつては彼の頬もここまで柔らかいものだった。そのまま平手で頬を打つ。悍ましい音が響き、気持ちがいい。真千の頭部が90度曲がり、一瞬身体全体が痙攣するが、彼女は箔の方に向き直る。
「そう、こういうの!」
 その後、真千はB'zの楽曲がサブスクで解禁されたと箔に話す。
「出会った頃さ、この曲すごい聞いたね。B'zってすごいハードロックな感じだけど、私たちが小学生の頃はこんな変にポップな曲歌ってたんだとか笑ったり」
 真千はある曲を再生する。

あの娘は 太陽のKomachi Angel
やや乱れて Yo! say, yeah, yeah!
いざ今宵酔わん I love you, my Angel
理屈ぬきで Now we can say yeah, yeah!

あなたは太陽の Komachi Angel
まぶしすぎる Yo! say, yeah yeah!
よそ見しないで I love you, my Angel!
本気で Push! Push! We can say yeah yeah!

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。