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「クソ喰らえ、クローン病!」第11話~やってやれ、クローン病文学

「クソ喰らえ、クローン病!」前話はこちらから

 俺は例えば小説家だとかダンサーだとか、そういう芸術家/アーティストみたいな肩書は他称ではなく、絶対に自称であるべきだと思う。他称というのは自分の外にいる他者、もっと言えばある種の権威的存在にお墨付きをもらうってことでしかない。だが実際、芸術家としての立脚点はどこまで行っても自分と自分の作品でなければならない、それ以外には有り得ない。だから自分で自分を芸術家と呼び、それを貫くべきだ。作品作って金もらったから芸術家とか、そういうクソみたいな資本主義的価値観も即刻捨てた方がいい。それからネットに小説家志望とか書いてるやつがよくいるが、そんな卑屈にならないで作品を書いて既に公開しているなら、誇りを以て小説家だと宣言するべきだ。そして自分の作品を文学だと言ってやれ。
 俺はこういう気持ちでいつも文章を書いている訳だが、現在執筆している「クソ喰らえ、クローン病!」は世界にも稀なクローン病文学って感じで書いてるんだ。闘病記っていうのは極限状態に置かれた人間の心理模様ってやつが出る文学だと思う、否応なくね。歴史的にそういった病気との闘いを描いた作品はたくさんあって、例えば俺は最近自身の双極性障害の体験を赤裸々に告白した、ドイツ人作家トーマス・メレの「背後の世界」を読んだりした。そういう歴史の流れに、この「クソ喰らえ、クローン病!」を位置付けたいと思っている、俺としてはね。

 その上で、執筆の指針として2つの作品が存在している。1つは全体の姿勢に関わり、1つはクローン病文学という概念それ自体に関わる。前者がチャールズ・ブコウスキーの自伝的作品「クソったれ!少年時代」だ。まあその影響は、この作品を読んでくれてる読者にはクソほど明らかだろう。ブコウスキーはアメリカの小説家で最も好きな1人で、文体の面においてかなり影響を受けた。粗野でぶっきらぼう、突発的でかつ暴力的。そんな彼の言葉の切れ味鋭さを継承したいと思いながら、この文章も書いているんだった。まあブコウスキーの酒や女に対する姿勢は全く共感できないし、彼の意志はどうにしろその人生を通じて酒やアルコール中毒と小説執筆の危険な共犯性をロマン化してしまったのは功罪だ。影響を受けすぎるっていうのはヤバいだろう。でもブコウスキーと彼の作品が好きなんだよな、俺は。読んでるとやるせなくて切なくなるんだ。
 俺が実際に1番好きなのは、もはや一種の悟り状態に入ったかのようなブコウスキーの筆致が味わえる晩年の手記「死をポケットに入れて」なんだけど、ここでは「クソ喰らえ、クローン病!」の直接の影響元である「くそったれ!少年時代」について語りたい。これはブコウスキーが60代で書いた、自身の壮絶すぎる少年時代を振り返る自伝的1作だ。ここに刻まれた、素朴ながら魂のこもった言葉を読むたび、右の頬骨をブン殴られるような衝撃を受ける、何度だってだ。今作を通じて俺は、読むこと書くことで生存を繰り広げる人間の尊厳というものを目の当たりにするんだ。それから「くそったれ!少年時代」という日本語の題名が好きなんだよな。原題は"Ham on Rye"("ライ麦ハムサンド")っていう割と素朴なものなんだけど、それを「くそったれ!少年時代」にしちゃう訳者である中川五郎と編集者の大胆さには恐れ入る。確かに煽情的なキャッチーさがあるかもしれない。だがこの日本語が目に入った瞬間のインパクト、そして読み終わった後の納得感は痛烈なまでのものだった。だから影響を受けて、事あるごとに"くそったれ!"って言葉を使ってるよ。
 この作品のタイトルも今作へのオマージュなんだけど"クソ喰らえ"と微妙に変わっているのは何故か。"くそったれ!"は相手に対する渾身の罵倒といった風だ、言葉としての響きがまず先立つ。だが"クソ喰らえ!"は罵倒であるとともに、相手に対して実際にクソを投げつけるという行動の風景も浮かびあがるのだ。クローン病で半永久的な下痢を運命づけられ、もはや手に持てるクソすらない俺にとって、この言葉はなけなしの抵抗なんだった。

 指針となっているもう1つの作品は頭木弘樹の「食べることと出すこと」だ。ここでは難病の潰瘍性大腸炎を患う作者が、20歳から今に至るまでの数十年に渡る闘病と共生を通じて人生そのものを語っている。数か月前にこの本を読んで、身体感覚をケツ穴ごと拡張されるような凄まじい本だと俺は思った。実を言うとこの時には既にあの慢性的な腹痛と下痢に襲われていた訳だが、まさかクローン病だとは思ってなかったよ、マジにね。
 この本は潰瘍性大腸炎という難病によって被る苦痛の数々が多く描かれている。壮絶な食事制限から排泄の厳しさまで頗る赤裸々だ。当時の俺には胸に迫る一方少しだけ他人事にも思えたが、同じく潰瘍性大腸炎と同じ炎症性腸疾患(IBD)であるクローン病を患った今、本当に深く深く共感させられるよ。今後この作品は「クソ喰らえ、クローン病!」の指針となる以上に、俺の人生の指標になるだろうとすら思える。
 そしてもう1つ注目すべきなのは、作者の文学紹介者という肩書の通り、文学が多く引用される点だ。作者が専門とするカフカはもちろん、俺の文章に何度も登場するE.M. シオランが何度も引用されているところが良い。"健康であれば、わたしたちは器官の存在を知らない。それをわたしたちに啓示するのは病気であり、その重要性と脆さとを、器官へのわたしたちの依存ともども理解させるのも病気である"という彼の言葉を、俺は正に味わわされてる。こういう訳でこの本は文学紹介本でもあるのだが、しかし俺にとってはこれ自体が、世界においても稀な潰瘍性大腸炎文学だと思えてくる。読んでくれれば、俺の言葉の意味が分かるだろう。
 俺はこの本を指針として「クソ喰らえ、クローン病!」を、クローン病文学に属する1作として書き続けている。潰瘍性大腸炎とクローン病は、先述した通り同じIBDに属する兄弟のような関係性だ。だから苦痛に似通うところがあるし、これらに関する言葉は自然と共鳴することになる。だが俺が最終的に目指している場所は「食べることと出すこと」とは異なっているという思いもある。
 作者である頭木弘樹は1964年生まれで、かつ20歳の時に潰瘍性大腸炎を発病している。「食べることと出すこと」を出版したのは2020年なので、この難病と何十年間共に過ごした上で本を執筆している訳だ。だから今作はその個人の歴史を振り返るような作風で、そこから難病を患うゆえの苦痛やそこから培われる価値観などが描かれ、そして果てには人生への英知のようなものすら立ち現れる。長く潰瘍性大腸炎と共生してきたからこそ紡げる言葉が、ここには宿っているのだ。
 逆に俺は1992年生まれで、かつクローン病歴は明らかに体調を崩していた時期も含めてまだ8か月くらいだ。正直言うと、クローン病ってマジに一体何なんだ?という状況にある。だから作者のような文章を書くことはできる筈もないし、書く気もない。俺が書きたいのは、この難病との共生の始まりにこそ現れる絶望や当惑、虚無といったものだ。今ここに現れる感情の数々こそを、リアルタイムで捉えたいとそう思っている。
 そして大腸炎とクローン病には大きな違いがある。2つは同じ種類の難病でありながら、前者の患者は日本に20万人で、後者の患者は5万人と数に頗る差がある。この数の差が病気に関する言葉の多寡に繋がっているのだ。更に「食べることと出すこと」といった本が出版されたり、安倍晋三が病気を公にしていたりという意味で、潰瘍性大腸炎はある程度の知名度がある。クローン病と比べると圧倒的な知名度があるのだ。それ故にクローン病について説明する際、潰瘍性大腸炎のような病気と説明するとピンと来てくれる人が多い。だがこの2つは似ていても、当然厳密には違うのだ。クローン病は結構稀な難病で、これに関する言葉はまだ少ないからこそ、俺はこの「クソ喰らえ、クローン病!」を書いているんだった。そしてここに加わるものがある。小説家としてのなけなしのプライドだよ。これを以て、俺は「クソ喰らえ、クローン病!」って作品をクローン病文学として屹立させてやりたい。この目標が、自分で言うのも難だがこの野心が今正に俺の生を奮い立たせてるんだ。

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【済藤鉄腸のすぐに使わざるを得ないルーマニア語講座その10】
Mă numesc Tettyo Saito. Sunt scriitor care scrie despre durerea stomacului și diaree. În viitor, ar trebui să devin cel mai cunoscut scriitor japonez în lumea. Futu-ți, Haruki Murakami! Oricum, îmi pare bine de cunoștință.
マ・ヌメスク・テッチョウ・サイトウ。スント・スクリイトル・カレ・スクリエ・デスプレ・デュレレア・ストマクルイ・シ・ディアレエ。ウン・ヴィイトル、アル・トレブイエ・サ・デヴィン・チェル・マイ・クノスクト・スクリイトル・ジャポネズ・ウン・ルメア。フトゥツィ、ハルキ・ムラカミ! オリクム、ウミ・パレ・ビネ・デ・クノシュティンツァ。

(私の名前は済藤鉄腸です。小説家をしており、腹痛と下痢について書いています。将来、世界で最も有名な日本の小説家になるでしょう。クソ喰らえ、村上春樹! ということで、宜しくお願いします)

☆ワンポイントアドバイス☆
この文章には、ルーマニアで自己紹介に使えるものが結構多いぞ。まず"Mă numesc~"は"私の名前は~"という意味で、ルーマニア語学習者が最初に学ぶフレーズだ。そして"sunt"は英語で言う"I am"かつ日本語の"私は"で、これもやっぱり最初に学ぶんだね。ちなみにルーマニア語は主語を省略することが多いので"私"を意味する"eu"は言わないでも大丈夫だ。自分の職業を説明したいなら"Sunt 〇〇"と言おう、英語と違って不定冠詞は必要ないぞ。最後の"Îmi pare bine de cunoștință"は直訳だと"知り合いになれて嬉しいです"だけど、日本語でいう"宜しくお願いします"としても使えるよ。この文章は、まあ芸術家として誇りを持てってことだよ。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。