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コロナウイルス連作短編その204「日本人離れしてる」

 箱柳彩果は駅で友人を待っていた.地上階の改札,その傍らに立ちながらSpotifyで音楽を聴いている.Skyというロックバンドの曲だ.60-70年代に活動していた短命なバンドで,アルバムは2枚しか残していない.だが実際に聞いてみると,当時の夢見がちな若者たちの地に足ついてなさをそのまま反映したかのような爽やかな響きはすこぶる印象に残る.
 特に1stアルバム“Don't Hold Back”収録の“Make it in Time”という曲が彼女のお気に入りだった.朝の海岸線に満ちる陽光に宿った高揚感と一抹の切なさ,聴いているだけでそういった感覚が皮膚を撫でてくれるのだ.おかげで,ここ最近はずっとリピート再生してしまっている.
 Skyを教えてくれたのは恋人の麦絵入だった.彼女は相当な音楽マニアでSpotifyなどのアルゴリズムを駆使して,世界中の音楽を貪っている.最近は例えばペルーのロックバンドTarkusやコスタリカのクリスチャン・バンドHolocaustoというのを聴いているらしい.アメリカのバンドも聴くが,彼女はよりマイナーなものを探しだすのにいつだって執心している.そして今回見つけたのがこのSkyというわけだった.いつもはあまりにマイナーすぎるゆえ,彩果の琴線に触れることはほとんどないが,今回は妙に心に残ってしまっていた.
 とはいえ何にしろ彩果は絵入のそういった未知への飽くなき好奇心が好きだった.
「おーっす,彩果」
 と耳許の音楽を突きぬけるほど快活な声が聞こえ,思わず顔をあげる.
 そこには2人の女性がいる.見馴れた1人は広葉陽菜,大学の同級生だ.似合わない金髪,ブカブカのマスク,小柄な体.できたての肉まんさながらの親しみ深い雰囲気は,いつであっても彩果の頬を緩ませる.
 横のもう1人には見覚えがない.それでいて陽菜から話は聞いていたので,彼女の横に立っていることに驚きはない.しかしその女性,マリオン・ポルシェを今実際に初めてこの目で見て,一瞬で視線を縄さながらにグッと掴まれた感覚があった.
 闇より暗い黒髪,それと対を成すような鮮やかな碧の瞳.
 まずふと頭に思い浮かんだ言葉は“日本人離れしてる”だった.
 だが自分で少し笑ってしまう.
 陽菜によれば彼女はフランス人で,今は日本に留学して社会学を学んでいるのだという.彼女はそもそも日本人ではないのだから“日本人離れ”など当然なのだ.
 それでも彩果は彼女を一目見た瞬間から,純粋に誉め言葉として“日本人離れ”をマリオンに投げかけたくてしょうがなくなった.
「こんにちは.マリオンです,ヨロでーす」
 そんな彼女から相当に砕けた日本語が飛び出したので彩果はプッと吹きだす.
「こら,初対面の人には“よろしくお願いします”でしょうが」
「あっ,間違えた……マリオンデス,ヨホシクオネガイシマァス」
 そうカタカナ表記を喚起するような片言発音で言い直すので,またプッと笑わされてしまう.そして“よろしく”の“ろ”を何故か“ホ”と発音した時の,奇妙な破裂音が耳に滑稽な形でこびりついてしまう.
 そして2人が彩果に並びたち3人での待ち合わせが始まる.話好きの陽菜がマリオンの紹介も含めて気の赴くままに言葉を連ね,他2人がそれに合わせる流れが自然とできあがる.
 だが彩果の注意は話より,マリオンに牽かれていた.特にその長く重く濃密な黒髪は厭でも目に入らざるを得ない.その存在感は,まるで質量を持った艶かしい闇がマリオンの顔を包みこんでいるようで全く異様だ.
 このような長い黒髪は,高校の頃に読んだ日本史の便覧,そこに載っている平安時代を描いた絵巻物くらいでしかお目にかかれないように思える.それが今実際目の前にあり,だがその持ち主は日本人ではなくフランス人であるのが奇妙だ.
 “日本人離れ”という言葉が,再び頭のなかに浮かんだ.
「いや,そういえば,こういうの聞いたんだけどさ」
 突然,陽菜がそう言った.
「英語の悪口で“カエル喰い”って意味の“frog-eater”が“フランス人”っていうのも意味してるって聞いたけどマジ?」
 今度はマリオンがプッと吹き出す番だった.
「うん,マジですよ.英語の悪口の世界史みたいな伝統.でも今はフランス人,カエル食べるは知らん.そりゃ食べる人もいるのでは.私は食べないよ.だから“カエル喰い”ではありませんです」
「ほんとお? マリオンも“カエル喰い”じゃないのお?」
「本当ですよ.私はカエルなど食べたことがない」
「でも1回くらい“カエル喰い”したことあるんじゃないの?」
「いいえ,ないですよ,本当に……」
 そんな会話を端から聞いているうちに居心地が悪くなってくる.
「いや,何かマリオンさん困ってるから,そういうの止めなよ.そういうのも差別って言われるよ」
 彩果は冗談めかしてそう言うが,陽菜は目を細めてこちらを見てくる.マスク越しに下卑たニヤつきが見えてくるような気がしてくる.
「おお白人さま,あなたは世界の頂点におられるんですから,ジャップのちっぽけなマイクロ……何だっけあの横文字……そうだ,マイクロアグレッションなんて屁でもないでしょう!」
「いや,だからさ……」
 ふとマリオンの顔を見る.目許の表情はどうとでも読み取れる曖昧なものだった.卑屈な差別意識にウンザリしているのか,それともむしろその気安さを友情の証として楽しんでいるのか.
「その想像絶する美しさはカエル喰ってるゆえのものではありませんこと?」
 と,彩果のスマートフォンが震える.絵入からメッセージが届いている.確認するが言葉は一切ない,ただ茶色いドーナツの写真だけがある.
 思わず神経を逆撫でされた.彩果は最近自分が太りすぎのような気がし,ダイエットを始めたばかりだった.それを知った絵入は自分を励ますのではなく,定期的に無言で美味しそうな料理の写真を送りつけるようになった.ラーメン,ステーキ,コンビニスイーツ.止めてほしいと本気で訴えても,言葉で反省の意を語りながら行動はむしろ悪化していく.
 彩果はドーナツが好きだった.スイーツのなかでもドーナツは一番好きだ.できるならドーナツだけ,特にミスタードーナツのドーナツのみを摂取すれば人間に必須の栄養素全てが獲得できる有機サイボーグに改造されたいほどだった.
 だからこそダイエットに勤しむ今,ドーナツの写真を送られると虫酸が走った.彼女にとっては“恋人同士の悪ふざけ”だろうが,こちらにとってはただの精神的暴力だ.
 そしてまた,彩果の視線がマリオンの方に引かれる.
 マリオンはスタイルがよかった.日本でなら簡単にモデルとして活動できるはずだ.横の小柄な陽菜と比べると,残酷なまでにそのスタイルのよさが際立つ.もしかすると陽菜は自分を比較対象として同じことを思っているかもしれないと,彩果には思える.
 肝臓の辺りから,厭に重苦しいものがせりあがってくる.肺や心臓の細胞1つ1つを汚染するそれを,驚くほど容易く“嫉妬”という陳腐な2文字として表現したくなることに彩果は気づき,動揺する.
 そしてまた別の表現が瞬くーー“女の敵は女”
 瞬間,思わず彩果は周りを見渡す.不気味な妄想に駆られたのだ.何者かに今の意識の流れを見透かされ,ネットでの女叩きの材料に使われるのではないかと.
 だが彩果を,駅の改札の横に立つ3人を見る通行人はいない.
 シスターフッド,シスターフッド,シスターフッド……
 放射される焦慮の火炎に背中を炙られるなか,彩果は心のなかでその横文字をお題目のごとく唱える.
「ゲロゲロ,ゲロゲロ」
 横ではとうとう陽菜がカエルの真似までも始めていた.
 だが驚くほど迫真性があった.
 文字では“ゲロゲロ”としか表現しようがないが,喉や口の動きを駆使して紡がれるあの独特の濁った響きはただのおふざけと思えない.鼓膜が不気味に揺れるなかで,先の嫉妬がそのまま吐き気となったかのように喉元までさらにせりあがる.
「トゥントゥントゥンガッ」
 しかし音の質が全く変わる.陽菜は全く別の鳴き声を発し始め,彩果は気圧された.
 “トゥントゥントゥンガッ”を1セットとして,彼女はその何処から発しているか検討すらつかない奇妙な響きを反復している.そしてその反復のなかで響きは速度を増していく.“トゥントゥントゥンガッ”は半角の“トゥントゥントゥンガッ”へと変貌を遂げて,マスクの奥から銃弾さながら放たれていく.
「マリオン,あたしのことも食べてくれ~」
 陽菜はいきなり日本語で言った.
「あたしはジュンジャパパツキンガエルだ~」
 そうして最後に響いたのは,マリオンの大爆笑だった.腹から凄まじいまでの息をブチ撒けながらマリオンは笑いだし,そのうち陽菜をハグしながら,マスクを着けたままで陽菜の金髪に顔を埋め始めた.そして彼女はそのままで陽菜を喰い始めた.その間もなお爆笑し続けていた.
 それを見ていると,彩果は全てが馬鹿らしく思えた.陽菜の言葉は差別だと本気で思えたのでマリオンを庇うような行動をしたが,実際2人は悪ノリを続けてむしろ仲を深めている.これではほとんど共犯者だ.例えマリオンが本心を隠して,もしくは隠すためにこういう行動をしているとしても,こんな爆笑の態度は同情するに値しない.彼女のような存在にとっては,これくらいの“ジャップのちっぽけな差別意識”なら一時甘んじても,お釣りが来るほどのはずだ.
 そしてふと気づく.“マリオン・ポルシェ”の“ポルシェ”とはあの高級車メーカーのポルシェと何か関連があるのだろうか.もしかするとポルシェとはフランスの高級車メーカーなのだろうか.
 ふざける2人を尻目に,彩果はスマートフォンで“ポルシェ”と検索する.
 ポルシェはドイツの高級車メーカーらしい.少しガッカリした.
 だが“ポルシェ”と打つと現れる高級車の数々は,特に車に興味のない彩果でも見とれるものだ.
 颯爽として滑らかな流線型の車体を包むのは柔らかな水色,目も覚めるような赤,胃液をブチ撒けたような黄,そして艶かしい黒.
 翻って,彩果は前に目を向ける.
 狭苦しい道路を行く車は全てがちっぽけで,見映えがしない.
 だがそれは車だけではない.実際,全てがそうだ.
 ただただ地味なのだ.

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。