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コロナウイルス連作短編その103.5「赤レンガの優しさ」

 エミリオ・ピペルノは中銀カプセルタワービルへと赴く。小説の執筆に行き詰まった時には、家の近くにあるこの建築を眺めに行き、錆びて薄汚れたガードレールに腰を据え、その異容を仰ぎみる。立方体のカプセルが無限に集合したこの不気味な物質を眺めていると、畏敬によって背中がゾクゾクするのを感じた。これが堪らない。恋人である瀬々編子は写真を見るだけで顔をしかめ、吐き気を催すと公言して憚らない。集合体恐怖症なのだ。分かってないなと思わされる。
 エミリオにとって中銀カプセルタワービルとは可能性そのものだ。実際にこの建築はメタボリズムという建築様式の始まりであり、同時に終りとしての存在を宿命付けられていた。黒川紀章たち若き建築家たちは、建築を人体として、コンクリートの塊を細胞として、人間存在の循環する新陳代謝を再現しようとした。だが建築が無限へと膨張する過渡の時代において、彼らはスケールの把握を致命的に誤った。メタボリズムという可能性は呆気なく断絶した。だが、だからこそ中銀カプセルタワービルは永遠の可能性としてここに聳え立っている。これが創造だった。この建築に触れると、自身のなかにある創造性というものを劇的に震わされるのだ。
 しばらくただただ、踏みにじられた痣色の空の下、可能性として不動を誇る巨物を眺めていた。だが1人の女性がやってきて、同じようにガードレールに座り、ビルを眺め始めるのを見かけた。彼女を見かけたのは実際初めてではない。ここへ来る時、不思議と何度か鉢合わせている。喋りかけたことなどない、だが遠くからでも彼女の視線の真摯さはこの建築に見いられた故のものと分かる。湿と熱の空気を突き抜けるほどに、熱烈だ。それにエミリオは親近感を抱いている。ビルを眺めるうち、自然と視線が移動して、彼女が視界に入る。その何度目か、彼女が目を擦るような素振りをする。涙を流したんじゃないか、彼にはそう思えた。
「あなたもこの建物好きなんですか?」
 近づいていった後、エミリオは女性に話しかける。自分と同じく外国人だ、黒髪が艶やかな白人だった。彼女がこちらを見据える時、マスクの上の瞳がこちらを柔らかく睨みつける。
「俺にとっては、この建築は可能性の塊みたいで好きなんですよ」
 礼儀正しくも少し率直な口調を、英語で再現しようと試みる。
「嫌い、大嫌いな建物」
 そう静かに吐き捨てるので、驚く。
「こんなもの崩れ去ればいいのに」
 劇的な言葉に気圧されるが、彼女はそこに、はははという笑いを付け加える。
「建築に色々と意見をお持ちみたいだ。大学で体系的に建築学を勉強していたんですか?」
「別に、そういう訳じゃあない。ま、日本で予定されてるあるプロジェクトに通訳として今後参加することになって学び始めたの。昔から建築は好きだったけど、知識として学び始めたのは本当にここ数ヶ月くらい。これで“否応なく”意見を持つことになった、ということ」
 彼女はおもむろに目を細める。
「私はモンテネグロって国出身なのだけど……」
「ああ、ということはスヴェトラーナ・カナ・ラデヴィチ関連ですか」
 細まった目が今度は見開かれる。
「今年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展でモンテネグロ館が結構話題になってましたよ。俺もその展示を……まあ現地には行けないので記事とか批評を読んでですが、展示を知ってそこで初めてラデヴィチについて知りましたけどね」
「ねえ、この人本当にそんな有名人なの? 私、モンテネグロ人なのに最近まで知らなかったんだけど」
 苦笑といった風に、彼女のマスクが歪む。
「あなたは建築家なの?」
「いや、ただの好事家ですよ。小説家としてネタにはいつも飢えていますが、今書きたいと思うのが建築なんですよ。いや逆だな、建築みたいな小説が書きたいと最近思ってるんです。まあ、やり方なんて分からないので、今は取り敢えず小説のなかに建築を組み込んで、どう作用するか実験している途上といった感じですね。それでこの中銀カプセルタワービルを時々眺めに来る訳です」
「ふうん」
 目許の深い皺が微かに揺らぐ。
「でも確かに、昔から建築は好きでしたよ。俺が生まれた場所はウルグアイ西部のサルトって町なんですがね、ここはエラディオ・ディエステという建築家の作品がたくさんあるんですよ。生涯彼は赤レンガでできた、地域というかウルグアイ密着型の建築を作っていたんですけど、例えば俺の家の近くにあったバスターミナルなんかも製作してました。屋根が印象的なんです。数学で習うグラフに書かれていそうな波長が煉瓦の赤に染まりながら、頭上で軽やかにうねってるんですよ。この傍らにいると波動が身体を心地よく揺らしてくれるような感じがあって、好きでした。親父は彼がこの町一番の偉人ってまるで自分の友人のように語って、サルトや、他にもモンテビデオとか色んなところに連れてってくれて、一緒にディエステの建築を見ましたよ」
 話しているとマスクが鼻からズレるので、位置を戻す。
「でも後で知ったのはエラディオはサルト出身じゃなく、別のアルティガス出身だったってことです、サルトに作品を多く建設したことに変わりはないんですがね。親父は何でそう勘違いしてたのか、もしくは知っていてわざと嘘をついていたか。結局解らずじまいでしたね、1年前にくたばったんで」
 エミリオはわざとおどけたように死の事実を表現してみせる。
「サルトって温泉が有名なんですよ。こういうクソッタレなほど暑い夏こそうってつけの温泉があちこちにあるんですよね」
 そう言うと、彼女が温泉へ入ったようにホッと息をつくので思わず笑った。
「はは、日本は悪くないですが、温泉の質は俺の故郷には敵わないですよ。もしウルグアイへ旅行するならサルトに行くことをお薦めしますね」
 そんなことを語りながら、自然とやるせなくなった。
「……ワクチンとか打ちました?」
「いや、まだ。まあ“ガイジン”だしね」
 女性は笑った。
「でも、この状況のこと前向きに考えるしかないよね。このプロジェクトに関われたのも、実はビエンナーレのメンバーが、ラデヴィチが70年代に東京の黒川紀章のアトリエで働いていた事実を調査しようとしてたのが、コロナ禍で延期になったからだったりするから。それがなかったら多分この仕事はなかったし、そもそもラデヴィチのこと知らなかったと思う」
 しばらく沈黙に包まれる。どこからか熱狂的な叫び声が聞こえてくる。幻か現実か分からない。と、彼女がタブレットで写真を見せてくる。写真の、写真だった。
「ラデヴィチのこと最近まで知らなかったけど、実は彼女が建てた建築には知らず知らずに何度も足を運んでた。ここはセルビアのホテル・ズラティボルってところ」
 外壁から肥大化した巨塊が突きだし、まるで生誕の時を迎えようとしている。そんな生命力の祝福と不穏が混じる建築の前で、2人の女性が溌剌な笑顔を浮かべていた。その場違いな明るさはエミリオを微笑ませる。
「こっちが若い時のあなたですね、こっちの女性は友人ですか?」
「それ以上、元恋人ね。誰にもそう紹介したことはなかったけど」
 次に彼女が見せた写真の中で、その女性はウェディング・ドレスを着て笑顔を浮かべている。横には同じくドレスを着た女性がいた。
「彼女が結婚式挙げてるとこ。モンテネグロじゃ1年前に同性パートナーシップが合法化して、それで結婚式あげたってさ。まあラテンアメリカの国みたいに同性婚が認められてる訳じゃないけど、東欧じゃ割と早い方じゃない?」
 女性が笑い、エミリオも笑う。
 そして今度は彼の方がある動画を見せる。撮影者の剥き出しになった裸足が青々しい芝生を踏みしだいていく。激しい手振れを伴いながら、カメラは大地から撮影者の周囲へと向かれる。家屋が疎らに建っており、その合間を縫うように爽やかな緑の色彩が広がる、そんな田舎町の素朴な風景がそこにはあった。だがその素朴さのなかに、突然赤レンガの超巨大建築が現れる。
「だけど圧倒されるだとか、そういう感じじゃあないんですよ」
 エミリオは女性に語る。
「確かにこの建物は巨大で、物質としての圧がすごい。写真や動画で見ると“質量”そのものって風に見えるかもしれない。だけど実際の体験は全く違うんだ。空間において際立って、まるで絶対的に、他と断絶しながら存在してるって雰囲気はない。あの赤茶の色彩が、その豊かな緑と重なりあって、有機的に絡みあう姿を見たら多分あなたも驚くでしょうね。空間に息づいていて、何よりこの大地に息づいている。建築が町や自然と一緒に生きているんだ。ディエステはいつだってそんな建築を作っていたです」
 エミリオと女性は芝生の間を疾駆するゴツゴツした道路を渡っていき、クリスト・オブレロ教会へと向かう。その赤レンガの巨塊は、しかし優しい。大いなる、寛大なる存在感を誇りながら、来たるべき者たちを分け隔てなく迎えいれ、祝福する。そうして中へと導かれ、彼らは空間というものを目撃する。無限へと膨張していく宇宙のような空間に、眩暈を覚えざるを得ない。エミリオも女性も、原始の洞窟のなかで奇跡のように柔らかき光に抱擁されていた。そして並べられた椅子の群れの向こう側、うねりをみせる天井と壁とに囲まれて、十字架へ磔にされたキリストの像が刃のように床へ突き立てられている。
「こんなことを考えたことは?」
 前を見据えながら、エミリオは問いかける。
「何で俺たちは今ここにいるのか? 何で俺たちは今ここに辿りついたのか?」
 女性を見ることはない。
「“辿りついた”って言葉は好きじゃない。まるで人生の終着点に来たみたいな響き。ここは終着点じゃない、ここは私たちの行為の結果じゃない」
「じゃあ、ここは一体何ですか?」
「通過点、ただそれだけ」
 その女性、ダニェラ・カストラトヴィチは笑う。
「私たちはいつだって大いなる流れのうちにある。私たちは流れ続けて、ここにいるのはその一瞬。長い間留まることはなくて、全てが過ぎ去っていく。でも……それってそこまで悪いこと?」

 エミリオは家に帰る。恋人の編子はソファーでゴロゴロしている。
「おっ、おかえり。いつもより遅かったね」
「まあね」
「どう、アイデア浮かんだ?」
「ああ。すぐには使えないだろうけど、大きなものになる気がする」
 編子は立ち上がるとエミリオの頬にキスをする。
「一緒にご飯作ろう」
「一緒にっていつも一緒に作ってんじゃん、何それ」
「別にいいだろ。ブロッコリー買ってきたから、食おう」
「オッケ」
 エミリオは編子の肩を抱く。彼女の肩は広く、逞しい。ともすればエミリオの肩よりも大きいかもしれない。その肩が好きだった。友人のように肩を組み合い、恋人のように彼女の肩に頭を載せる時、確かに幸せだった。ふと“編子の肩はエラディオ・ディエステの赤レンガのように逞しく、美しい”とそんな比喩表現が浮かぶ。実際に言ったら“何それ”といつもの呆れ顔を見せるかもしれないし、ことのほか喜ぶかもしれない。だが今はまだ心のなかに閉まっておこうと、エミリオはそう思う。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。